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神代氏
●三つ巴/木瓜
●伝武内宿禰後裔
・神代氏の家紋は「立竜木瓜」という珍しいものだが、勝利の肖像画には巴紋が据えられている。
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神代という名は、神功皇后遠征のとき、武内宿禰の武略知謀が神の如き働きをしたので、皇后は「神の代わり」との意味で「神代」の二字を授けたと伝える。その読み方は「くましろ」だが、昔は熊代と書いたのを後に神代に変えたという。
神代氏は代々、筑後一宮の高良神社に奉仕してきたが、文治元年(1185)、神代良光のころ、高良山から北へ二キロ、筑後川左岸の神代村に館を建てて移住し武士化していった。神代村は、筑後川筋における太宰府と筑後を結ぶ交通の要衝であり、神代氏はこの「神代渡し」の通行権を管理していたといわれ、戦国末期の島津氏の記録にも「隈代の渡」として記されている。
応仁の乱(1467)後、天下は大いに乱れて下剋上の世となり、高良神社も武将たちの戦勝祈願が行われるなど、戦乱の渦中に巻き込まれていった。そのころ、神代の周辺では蒲池・草野・西牟田ら筑後の有力国人たちが割拠し、弱小勢力である神代対馬守宗元は、彼等の勢力に対抗できず神代の地を去って肥前に落ちていった。
肥前に移住した神代宗元は上佐賀の千布村に住し、その子勝利の代に至って肥前国に確固たる勢力を築くようになる。武勇と知謀に恵まれた勝利は、少弐氏に属して山内に勢力を培い、一躍肥前の有力武将に成長した。
龍造寺隆信との抗争
勝利は三瀬城を本城として居住し、山内の防備を強化していた。勝利が仕えた少弐氏は北九州の名門であったが、戦国時代のころには、大内氏の攻勢を受けて、やっと肥前に余喘を保つ状態にあった。そにょうな、少弐氏を支援したのは馬場・筑紫らの少弐一族、龍造寺一門・神代氏らであった。
少弐氏家中における龍造寺氏の台頭は目覚ましく、それを危惧した馬場氏らは少弐冬尚と謀って、龍造寺一族を排斥した。この企てに神代氏も加担したため、その後、龍造寺氏の家督を継いだ隆信は勝利を仇敵視し、神代勝利と龍造寺隆信とは不倶戴天の関係となった。
家督を相続した龍造寺隆信は、少弐氏与党の小田・筑紫・横岳・犬塚・綾部らの国人領主たちをつぎつぎに降していった。そして、永禄二年(1559)には旧主にあたる少弐冬尚を攻め滅ぼすなど、肥前国内平定を押し進めていった。そして、神代勝利退治に執念を燃やした。
一方神代勝利は、主家少弐氏が龍造寺隆信によって滅ぼされたあとも、隆信に屈せず、かれと互角に戦った。弘治元年(1555)二月、龍造寺隆信は勝利と一時休戦して和議を結んだ。この和平会談に誘われた勝利は、隆信と会見したが、勝利に従っていた近臣の機転で、勝利毒殺の陰謀を未然に防ぐことができた。そして、酒宴の際も勝利主従は油断なく気を配り、勝手に馳走になったあげく、帰り際、勝利は隆信の愛馬に飛び乗って、呆気にとられる隆信らをしり目に悠々と引き上げたという。
その後も隆信は計略をめぐらせたが、勝利は神出鬼没の行動で、山内の城を転々とし隆信方の目をくらましていた。隆信は間者を用いて辛抱よく山内の情報を集め、勝利の所在を内偵させていた。そして、勝利が谷川にいることを突き止めると、密かに大軍をもって攻め上り、谷川城を急襲した。これには、さすがの勝利も救援を呼ぶ間もなく、わずかな兵を指揮して激しく戦ったが、ついに敗れ、妻子をつれて筑前の高祖城主原田隆種を頼って落ちていった。
小河信安との戦い
勝利は原田隆種の領内長野で、山内復帰の機会を狙って密かに味方を集め、弘治二年(1556)の暮、折からの雪をおして山越し、翌三年の正月、年始で油断していた隆信配下の熊の川代官館を攻めると、代官以下を討ちとって凱歌を上げた。勝利復帰の報に、山内各地から三千余の神代勢が集まり、各所の城砦を奪回した。しかし、龍造寺の勇将小河筑後守信安が守る春日山城は、山内に対し防備を固めて敵襲に備えていたため落とすことはできなかった。
小河信安は、勝利を討つための計略をめぐらせていた。ある日、信安は勝利が千布城にいることを知ると、一人で闇にまぎれて忍び込み、勝利の寝所近くに潜んでいた。この夜勝利は家臣たちと酒盛りをしていたが、下働きの女がたまたま信安を発見、驚いて勝利に知らせた。勝利は少しも騒がず、近習の者を信安の潜んでいる場所へ呼びにやった。信安は悪びれずに出てきて挨拶し、酒盛りの席に加わった。信安の悠然たる態度に感じ入った勝利は、酒肴をすすめおおいにもてなして帰したという。
その後、勝利は春日山城を攻め落とした。城将小河信安が佐賀に赴いた留守を衝いたもので、春日山勢は信安の弟左近大輔が城兵を指揮して戦ったが、左近大輔は神代勢に討たれると残兵は佐賀をさして逃れ去った。
信安は弟左近大輔の弔合戦とばかりに、龍造寺軍を率いて出陣してきた。弘治三年十月、勝利と信安は春日山城から六キロ北の鉄布峠で遭遇した。信安はこの日、自ら敵状視察のため神代領に足を入れたのであった。それを、忍びの者の通報で知った勝利は、山内の軍勢三千を二手に分けると、嫡子長良に一手をさずけ、自ら一手を率いて信安勢の進路に向かった。
勝利は龍造寺軍の動きを自ら斥候に出かけ、峰の細道を登ってきた信安と山中でばったり出会った。勝利が名乗りをあげると信安もそれに応じ、互いに鑓をとって突き合った。勝利は腕を突かれたがひるまずに突き返した一撃を信安は受け損じ、頬より右にかけて鑓先に貫かれ、倒れたところを勝利の従者に首をかかれた。大将信安を討たれた佐賀勢は神代方の勢いに押され、多くの負傷者を出し、後陣の隆信は兵をまとめて撤退した。
小河信安を失った隆信の怒りはすさまじかったが、さきの敗戦に懲りて、以後、山内への出兵を中止して勝利を平地に誘い出そうとした。
龍造寺氏との和睦
永禄四年(1561)九月、隆信は山内に使者を遣わし、勝利に挑戦状を送りつけた。勝利はこれを受け、期日の九月十三日、両軍は山と里の境にある川上川の流域で激戦を展開した。ところが、神代軍中に謀叛が起こり、前後に敵をうけた勝利らは大敗し、血路を開いて山内へ逃れた。龍造寺軍の追求は厳しく、勝利・長良父子や家族らは、大村領の波佐美へと移りそこに隠住した。
その後、旧臣たちの働きで隆信の代官を追いだし、神代父子はふたたび山内に復帰した。山内は神代父子の帰山を喜び合った。勝利の山内二度の復帰は、山内の民がいかに勝利に馴染んでいたかがうかがわれる。
勝利が山内復帰したことを知った隆信は、勝利の暗殺を図ったが失敗した。一方で隆信は、少弐氏滅亡後に大友方となった国人領主や、龍造寺に反抗する諸勢力を攻略するのに寧日ない状態で、勝利一人に係わっていられなかった。ついに永禄五年、隆信は老臣納冨但馬守の進言をいれ、神代勝利との間に誓約を交して和睦が成立した。このとき、勝利の四歳の孫娘と、隆信の三男鶴仁王丸との縁組契約が行われた。
永禄七年、勝利は新たに畑瀬城を築いて隠居、家督を嫡子長良に譲った。このときまで、神代氏は龍造寺氏とは対等の立場にあった。勝利は隠居後、それまでの軍労から、病を得て、ついに永禄八年三月、五十五歳の生涯を畑瀬城で閉じた。
のちに九州を席巻する龍造寺隆信は、このとき三十七歳であった。この隆信が恐れた肥前の最大の難敵であった神代勝利は武士の誇りを貫き、山内の信望を集め、彼岸に去っていった。勝利の死後、さすがの神代家も力尽きて龍造寺氏の配下となり、次いで鍋島直茂の配下となった。
龍造寺氏のあとを受けた直茂が佐賀一国を領し、やがて佐賀藩主として近世大名になると、神代氏は鍋島本藩の親類格として四千三百石の知行を与えれられた。以後、子孫は鍋島氏の重臣として続き、明治維新に至った。 ・2005年3月7日
■参考略系図
・「佐賀県立図書館」蔵書から。古い部分に関しては、代数も多く伝説性の高いものである。
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