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木造氏
割菱/左三つ巴
(村上源氏北畠氏流)
・「久居市史」に拠る。


 伊勢の国司大名北畠氏の一族である。北畠顕能の二男俊通が木造氏を称した。俊通の早世によって弟の俊康(顕泰の子ともいう)が木造氏を継いだ。俊康は応永二十四年(1417)正二位に叙し、同二十七年これを辞して出家している。
 木造氏は他の北畠一門とは違って、明徳四年(1393)に足利義満が伊勢神宮参詣の時に、「北畠殿」と呼ばれ、さらに木造俊康は義満の烏帽子子となり叙爵されている。この時より、宗家北畠氏をはなれて将軍家に属することとなり、京都油小路に屋敷を建てて、「油小路殿」とも呼ばれるようになった。
 このように木造氏は北畠一門でありながら、足利幕府に仕え、宗家に対して何度も弓を引いているのである。良泰親王を奉じて北畠満雅が挙兵したとき、木造俊康は幕府方にあって、留守にしていた木造城を満雅に攻略された。これを聞いた幕府は土岐持益を先陣として木造城奪回のために出陣、木造城の城番である義弟雅俊を破って城を取り返し、俊康が改めて入城した。
 その後の進退は、北畠氏に属したり、離れたりとめまぐるしいものであった。とはいえ、木造家当主は北畠氏の有力一門としてその官位は、北畠氏と同格の叙位をされており、大納言、中納言、参議、左中将など高い官位に任じている。

木造氏の転変

 戦国時代に入ると、木造氏は木造城の北西に戸木城や川北城などを築城し、宗家とともに長野氏などの国人と戦っている。しかし、当主が北畠具教の弟の木造具政になったときに織田信長の伊勢侵攻が開始されるのである。具政は北畠家の馬揃え祭の際に、馬番が田丸・河内・坂内の三大将の後という事に不満を示し、さらに信長に通じた源浄院の僧(滝川雄利)と柘植三郎左衛門らにそそのかされて織田信長に通じ、宗家に謀反を起こした。宗家北畠軍は木造城を攻めるが、木造方の屈強な防衛と織田軍の援軍により苦戦し、信長の本隊が現われると撤退していった。
 信長は木造城に入り、軍議を行った。結果、北畠具房の養子に織田信長の子信雄が入ると木造家はその与力家臣となる。その後、木造氏は織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉の戦いである小牧・長久手の戦いに前哨戦段階から信雄軍として活躍。具政の子の長正は戸木城にこもって秀吉軍の蒲生氏郷軍と戦ったが、信雄と秀吉が講和したために田辺城に退去した。その後は、豊臣秀吉に転仕し、信長の孫の織田秀信の老臣として配属され、美濃で二万五千石を領した。

 
木造城界隈を歩く



● 田んぼの中にポツンと残った木造城址 ● 菩提寺の引接寺、境内には割菱の紋が見られる
● 木造城址の南を流れる雲出川沿いに残る土塁


→ 木造城址を訪ねる


 関が原の戦いでは秀信に東軍につくことを勧めるが、成らずに西軍として前哨戦である岐阜の戦いに出陣、負傷して岐阜城は福島正則らによって陥落した。合戦後、木造長正は、安芸・備後の大大名に出世し広島城主となった福島正則に招かれ、福島氏の家臣となった。
 旗本木造氏となったのは具次の子俊宣で、慶長十七(1612)年六月、徳川秀忠に拝謁して御書院の番士となり、采地二百石を賜った。同十九年の大坂冬の陣に出陣、翌元和元年の夏の陣にも従い功を挙げた。寛永十年大番の組頭に転じ、三百石の加増があり、すべて五百石を知行した。子孫これを受けて徳川旗本として存続した。
 具政にいたるまでの、木造氏のはなやかな歴史からみれば、あまりにも寂しい姿ではあったが、戦乱のなかに消えていった家に比べれば、徳川旗本として存続し得ただけでも幸せであったろうか。
 木造氏の家紋は「左三つ巴」だが、伊勢国司北畠氏の幕紋であった割菱を丸で囲んだ「丸に割菱」そして「五七の桐」も伝えていた。

●木造流滝川氏

 木造氏から、滝川氏が出たことはよく知られている。この滝川氏は織田信長の部将であった滝川一益に属して、名字を賜り滝川三郎兵衛と号したものである。
 三郎兵衛は具康が三男とも、具康の娘が家臣の柘植三郎兵衛に嫁して生んだ男子ともいう。また一説には、具政の三男とも伝える。星合系図には雄利につくっている。滝川一益没落のあとは織田信雄に仕えて、雄利の名乗りは信雄から遍諱を賜ったものである。秀吉と家康との和議を整える使者としてしばしば浜松に下り、和議が成立して秀吉の妹朝日姫が家康に輿入したときもそれに付き添った。天正十八年(1590)、信雄没落のあとは豊臣秀吉に仕えた。秀吉から羽柴氏を授けられ羽柴下総守とも号した。
 伊勢神戸城を賜り、二万石を領した。慶長五年(1600)関ヶ原の役に際しては、石田三成方に与して神戸城に籠り、戦後封地を収められた。その後、召されて秀忠に近士し、常陸国新治郡のうちに二万石を賜って大名に返り咲いた。
 嫡子正利は、元和元年の大坂の陣に出陣し、戦功を立てたが、寛永二年(1625)多病にして勤仕にたえずと所領を返し奉る事を乞うた。結果、一万八千石を収められ、残された二千石が子孫に残され、封を継いで明治維新に至った。滝川氏の紋は一益家滝川氏と同じく「丸に竪木瓜」であったが、より特色があったのが「竪木瓜に二つ引両」であった。ほかに「五七の桐」も用いられた。これは、伊勢国司家の一族ならではの紋であろう。
 余談ながら、幕末、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の指揮者であった滝川氏は、木造氏系滝川氏の最後の当主であった。


■参考略系図


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