高力氏
対い鳩
(桓武平氏熊谷氏流) |
|
高力氏は熊谷直実の後裔といわれ、重長までは熊谷を称した。直鎮のとき軍功があり足利尊氏から三河国八名郡を与えられ、武蔵国熊谷郷から移り住み、宇利熊谷といわれた。
正直のとき梁田を称して高力郷に住み、重長がはじめて高力を家号とした。松平宗家への臣属は重長のときで、家康の祖父清康に仕えた。
高力氏で大名になった清長は、亨禄三年(1530)の生まれであるから、家康より十二歳年上となる。清長は駿府に人質時代の家康に随従し、永禄三年(1560)の大高城攻めに功があった。三河一向一揆では高力郷の近くにある本宗寺の一揆勢を征し、その落居後、仏像・経巻を拾い集めて持ち主の手許に届け。「仏高力」と呼ばれた。のち岡崎で奉行をつとめた。清長の人柄から適任とされたのであろうか。浜松に在住した家康の側近にあった。
姉川の合戦で軍功を挙げ、三方ケ原の戦いでは、与力・家の子・郎従を率いて力戦し、一族・郎従など数十人が討死した。天正十年(1582)、駿河国田中城を与えられ、山西を領し「駿河先方の士」二十五騎を預けられた。のち豊臣秀吉から豊臣氏の姓を与えられ、聚落第の造営奉行をつとめた。
関東入国後、武蔵国岩槻城で二万石を領し、近辺の足立郡浦和郷一万石の地を預けられた。朝鮮出兵時、清長は家康の命により軍船を造営したさい、建造費の残金の黄金二十枚を返却した。家康はもとより清長の清廉な性格は知っており、その金子を清長に与えたという。
嫡男で孫の忠房は島原の乱後の島原に派遣され、事態の収拾と再建を任された。このとき、同時に忠房葉長崎警固と西国大名の指揮・監察の役割も与えられ、重責を担って島原に移封となったのである。当時の島原は藩領高の約半分が亡所と化しており、治政は各地から浪人や移住者を集め、農民を確保することから始めなければならなかった。忠房はよく期待にこたえ、島原の再建に尽くした。
忠房の没後、嫡男の高長が相続したが、父ほどの力量はなく、まもなく領内仕置きの不手際により除封となった。
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
|