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片岡氏
●三つ巴
●藤原南家武智麿流
片岡氏系図には「分銅/陰梅鉢」とあり、のちに「巴紋」に改めるとある。江戸時代に描かれた片岡道春の画像には、「丸に三つ巴」紋が描かれている。
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片岡氏は『片岡系図』によれば、藤原南家武智麿の長子豊成の子縄麿(綱丸)が葛下郡片岡の地に住し、その子綱利が片岡を称したのが始まりとある。同系図は、源義経に仕えて奥州衣川の合戦において戦死した片岡経春が記載されるなど、そのままには受け取れないところもある。
一方、『古代氏族系譜集成』に収録された「中臣片岡連系図」は、藤原仲麻呂の乱に功があったという中臣片岡連五百千麻呂を始祖として、十代の孫利次が片岡太郎を称したことになっている。いずれが、真実を伝えたものかの判断は難しいが、系図の体裁から推せば片岡氏は中臣片岡連の後裔と思われるが、断定はできない。
片岡氏の登場
中世、大和国の荘園領主は興福寺であり、在地の名主らを荘官に任じて支配にあたらせた。名主らは興福寺春日社の支配下におかれて衆徒・国民の名で、在地における警察権の行使、寺社領の管理にあたった。そして、名主たちは地域ごとに団結して、党を組織して武士化していった。筒井氏を中心とする乾党をはじめとして、散在党(越智氏)、長谷川党(十市氏)、箸尾氏(中川党)、南党(楢原氏)、平田党(万歳・高田氏)の六党が成立し、それぞれ盟主を願主人として、春日社の「おん祭」の神事に従った。
片岡氏の初見は、鎌倉時代末期の正和四年(1315)、の若宮神主祐臣の『祭礼記』に「流鏑馬十騎片岡一騎」と記された記録である。ついで、南北朝時代末期の至徳元年(1384)の『中川流鏑馬日記』の願主人交名には、箸尾殿 万歳殿 高田殿 布施殿 楢原殿 越智殿 筒井殿 十市殿 柳生殿ら六十七人の名が記され、片岡氏も片岡殿として記録されている。さらに康正三年(1457)の『大乗院寺社雑事記』「大乗院家御坊人」の国民のうちに「一乗院方 片岡」とみえる。
これらのことから、片岡氏は春日社神人の国民であり、興福寺一乗院方の坊人であったことがわかる。つぎに、応永二十七年(1420)の「一乗院方坊主人用銭支配状」に
十貫文片岡 弘導寺庄 牧山上下庄
とあり、これによると片岡氏は興福寺一乗院領弘導寺庄 牧山上庄・下庄の荘官であったことも伺われる。
そもそも片岡氏が拠った片岡の地は、百済王の子孫を称する大原氏が開発したところで、大原氏が片岡武士団のはじめをなしたようだ。時代が下るにつれ、大原氏は勢力を失っていき、代わってのちの片岡氏に連なる片岡氏が勢力を拡大したと推測されている。
片岡のある葛下郡は大和の北西方に位置し、河内とはすぐ隣という場所であった。それもあって片岡一族は河内にも広がり、系図には柏原を名乗る人物もみられる。しかし、十五世紀中ごろに始まった河内守護畠山氏の家督争いに否応なく巻き込まれ、片岡氏は乱世の荒波をもろにかぶることになる。
天下大乱の始まり
河内守護畠山持国(徳本)は幕府管領も務める有力者であったが、男子がなかったため甥の弥三郎を養子に迎えていた。ところが、晩年に実子義就が生まれたことでにわかに波乱含みとなり、ついには家中を二分して家督をめぐる内訌が起った。この畠山氏の家督争いに大和武士の一方の南和の雄越智氏は義就を援け、北和の筒井氏は弥三郎を応援した。不穏な状況下の康正元年(1455)、徳本が死去したことで家督争いはさらに激化した。
ときの片岡氏の当主は太郎利盛は、筒井順永・箸尾宗信らとともに弥三郎に加担した。そして、康正元年七月、河内国誉田の戦いに出陣、敗れた筒井氏、箸尾氏、そして利盛は南都出仕を停められ、所領は闕所となり、将軍家の料所となってしまった。
その後、長禄三年(1459)、筒井党は勢力を回復したが、同年、弥三郎が病死してしまった。弥三郎の跡は弟の政長が継ぎ、管領細川勝元の後援で畠山氏の惣領となり、幕府管領職に就いた。これに対する義就方と政長方との間で、竜田川の合戦が起った。ところが、この戦いに利盛と越智家栄は参戦していなかった。利盛は日和見の立場をとっていたようだ。
やがて、政長と義就の抗争は、将軍家の継嗣問題などと相俟って、応仁の乱へと連鎖していくことになる。かくして、応仁元年、政長と義就は京都御霊神社において激突、応仁の乱が勃発した。この「御霊合戦」に利盛の子源治郎盛一が参加、戦功のあったことが系図に記されている。戦いそのものは、義就方の勝利となったが、以後、十一年間にわたる大乱となった。
大和においては、筒井党が政長=東軍に、越智党が義就=西軍に味方して抗争が繰り返され、「大和戦国時代」となった。この争乱のなかで、これまで筒井党の一員であった十市・竜田・片岡氏らは、態度を曖昧にしたことから「両荷方衆」とも云われた。
利盛は出家して「片岡雲門寺蔵主」とも呼ばれ、「当国天魔三人の内也」といわれる辣腕家であった。寛正三年(1462)、嫡男の利昌に先立たれたとき、興福寺門跡尋尊は「大明神御罰云々」とその日記に書き留めている。おそらく、興福寺の威勢の後退とともに、荘園の押領や年貢の停止などを行って自己勢力の拡大を図り、大和の有力国人に出頭していったものであろう。
古片岡氏の断絶
応仁の乱は、文明九年(1477)、京を焼け野原にして一応の終熄をみた。しかし、両畠山氏の抗争はやむことなく繰りかえされ、世の中はすでに戦国乱世であった。文明十一年、利盛は義就方に降り、越智方に奔った。そして、同年の九月、利盛は八十二歳の高齢で世を去った。その跡は嫡孫の利持が継ぎ、越智氏に味方して活躍した。当時、越智党が優勢で、筒井氏は東山内の福住氏を頼って、ゲリラ戦を展開するという有様であった。
延徳二年(1490)、畠山義就が死去すると子の基家があとを継いだが、ときに管領の畠山政長は基家ならびに越智党を討たんとした。そのころ幕府内部では、畠山政長と細川政元の確執が生じており、政元は越智党をひそかに応援した。かくして、明応二年(1493)、畠山政長は将軍足利義稙を奉じて河内に出陣、基家を攻撃した。政長と義稙の留守を就いた義就がクーデタを敢行、政長は河内正覚寺の合戦で敗れて討死、義澄を将軍に奉じた政元が幕政を掌握した。この事件をもって、戦国時代の幕開けとする説が一般的である。政元を支援した越智家栄は得意絶頂となり、大和の国衆を率いて上洛したが、片岡利持も越智党のひとりとして上洛している。
河内から紀伊に逃れていた政長の嫡男尚順は失地の回復につとめ、明応六年、畠山義豊(基家)の拠る高屋城を攻略、大和国越智郷に侵攻した。すでに家栄は死去しており、子の家令が迎え撃ったが、敗れて吉野に逃れ去った。尚順は越智氏に与した豊田・楊本を攻略、越智党は没落の運命となり、代わって筒井氏が復活してきた。
翌明応七年、尚順は片岡氏の拠る片岡谷に侵攻してきた。結果は片岡氏の散々な敗北で、『大乗院日記目録』によれば、惣領である片岡利持は自害し、一党の小泉・有野・薬井らも生害、竜田・岡氏らは没落したという。片岡利持には子がなく、翌八年には尚順は片岡氏の知行地に自分の配下を給人として入れたため、片岡惣領家は断絶となったのである。
その後、一族の弥五郎道春が片岡惣領家を相続、藤原姓を称するようになった。道春のあとは国春が継ぎ、下牧村に居城を築いた。これが、いま城址として残る片岡城のはじめである。国春の子が、戦国末期の混乱期を生きた新助利春で、新助は筒井順慶の妹を迎え、筒井一党において重きをなした。
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王寺駅から和歌山線に乗車、最初の駅である畠田駅の東方の山が片岡城址である。戦国時代のはじめ、片岡国春によって築かれたと伝えられ、大和国民片岡氏代々が居城とした。城の西方には葛下川、東方には城を大きく囲むように滝川が流れ、なかなかの要害の地であった。片岡春利は筒井順昭の娘を娶り、筒井一門に連なり、松永久秀と戦った。しかし、永禄十二年、敗れて城は落城した。その後、片岡城は松永氏の属城として、修築が加えられたという。片岡城の大きな特長は本郭と出郭の間の大きな空堀だが、それも含めて城跡は耕作地化している。本郭も雑草の茂るに任せられ、登城は断念せざるをえなかった。
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大和の戦乱
さて、大和武士は両畠山氏の抗争に翻弄され、多くの武士が戦死、庶民は飢餓に喘ぐ事態となった。そのようななかで、和議の気運が高まり、永正二年(1505)二月、大和国人衆は春日社頭に起請文を捧げて和睦の誓いを固めた。その主要メンバーは「布施安岐守 箸尾上野守 越智弾正忠 十市新次郎 筒井良舜坊」の五人であった。さらに、同年八月には「一両一疋衆」と呼ばれる国人衆も前記起請文に連判したことで、大和国人一揆体制が実現したのであった。
同年十一月、細川政元は赤沢宗益をして畠山尚順らを討つために大和を通って河内に出陣しようとした。これに対して、大和国人衆は一揆体制をもって拒否した。連判衆は、布施 箸尾 越智 万歳 吐田 楢原 片岡 筒井 十市の十氏で、すでに新片岡氏は大和の有力者のひとりであった。
その後、大和は他国衆の侵攻にさらされ、多くの興亡を重ね、片岡氏も乱世に翻弄された。
永正四年、細川澄元の家臣赤沢長経が大和に出兵、大和国衆は団結してこれにあたったが敗戦、片岡氏は筒井・越智氏とともに没落した。翌年、長経が敗死したため、国衆はそれぞれ領地を回復することができた。しかし、享禄二年(1529)になると、柳本賢治が大和に乱入、つづく天文元年(1532)には天文一揆が起った。そのような乱世のなかで、筒井氏が次第に勢力を拡大、大和国衆の棟梁としての立場を固めていった。
筒井氏の大和統一も近いと思われた永禄二年(1559)、筒井氏の宿敵となる松永久秀が大和に進出してきた。久秀は信貴山城を根拠に勢力の拡張に務めていった。ときに筒井氏は当主の順昭を失い、若い順慶が惣領であったが、老獪な久秀から圧迫を受けていた。このころの片岡氏は新介利春が当主で、筒井氏に属して松永方と戦った。
永禄十一年(1568)、尾張から起った織田信長が足利義昭を奉じて上洛、時代は大きく動いた。久秀は信長に降ると、信長を後楯として大和の諸城を攻撃した。七月、片岡城も久秀の攻撃にさらされたが、新介はよく防いで筒井順慶から感状を与えられたことが系図にみえる。しかし、当時の記録などによれば、永禄十二年四月、久秀の攻撃を受けた新介利春は片岡城から没落したようだ。 また、久秀の攻勢に対して、多くの大和武士が久秀に屈服したことが知られている。片岡城を落ちたあとの新介利春の動向は明確ではないが、翌元亀元年(1570)、病没し達磨寺に葬られた。その跡は嫡男の春之が継いだが、病気がちであったため王寺村に退去するという始末であった。
信長を後楯に大和を席巻した久秀であったが、やがて信長との間に円滑を欠くようになり。ついに天正五年(1577)、信長に謀叛を起して滅亡した。このとき、松永方の海老名氏が守っていた片岡城も攻撃を受けて落城している。ここに、大和一国は筒井順慶が信長から与えられ、新たな時代を迎えた。
国人領主片岡氏の終焉
天正十年六月、本能寺の変が起り、天下統一を目前とした織田信長は死去した。信長の跡は部将の羽柴(豊臣)秀吉が継承、大和はそのまま筒井順慶が支配を許された。天正十二年七月、順慶から出陣を命じられた春之は病気を理由に断ったため、知行を没収、わずかに四分の一だけを与えられるという憂き目となった。その順慶は翌八月に死去、翌年、筒井氏は伊賀に国替えとなり、そのあとには秀吉の弟秀長が大和郡山城に入った。
筒井氏の伊賀転封に従わず王寺に残っていた春之は、秀長に召出され郷士として遇された。しかし、秀長家もほどなく断絶、増田長盛が大和郡山に入部すると、長盛は郷士の格を停止した。ここに至って、大和武士として続いた片岡氏は終焉を迎えたといえよう。
その後、豊臣秀吉が死去、関ヶ原の合戦を経て徳川幕府が開かれると、すでに戦国時代は過去のものとなりつつあった。そして、慶長十五年の冬の陣、元和元年の夏の陣と大坂両度の陣において豊臣家が滅亡、戦国時代は文字通り終焉を迎えた。大坂の陣に際して多くの大和武士が大坂方に味方して戦ったが、そのなかに春之の姿もあったという。しかし、大坂の陣ののち、春之は出家、雲巴と号して王寺村に引き蘢ったと伝えられている。・2007年10月30日
【参考資料:王寺町史/奈良県史・10巻「大和武士」・北葛城郡史 ほか】
■参考略系図
・『王寺町史』『古代氏族系譜集成』に紹介された片岡氏系図より作成。
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