観世氏
十本矢車
(称桓武平氏/秦姓)
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永和元年(一三七五)、京都今熊野神社で観世一座による神事能「翁」が演じられた。これを見た十七歳の将軍足利義満はいたく感動し、以来観世一座の絶大な後援者となった。
観世一座はそもそも結城座として出発し、多武峰(とうのみね)・興福寺に属してその祭礼などに奉仕する一団で、平素は各地の巡業にでる漂泊の芸能集団であった。南北朝時代に登場した観阿弥の優雅な歌舞を取り入れた猿楽は新たな趣向として注目をあび、観阿弥の率いる一座は観阿弥の幼名観世にちなんで観世一座と称されたのである。
乞食の芸、猿楽
大和猿楽には、結城(観世)、円満井(金春)、外山(室生)、坂戸の四座をはじめ、近江の日吉神社に属する上三座、下三座があった。また、京都、宇治、伊勢、伊賀、河内、越前、熊野などにも猿楽があり、それぞれ鎬をけずっていた。各座は各地を精力的に巡業し、権門勢家に出入りして自流の隆盛に努力していたのである。
また、猿楽は大和において「七道の者」とされ、漂泊の白拍子をはじめ、神子・鉦叩・鉢叩・歩き横行・猿引きらとともに下層の賎民であり、同じ賎民階級の声聞師の配下にあった。同時代の押小路公忠は『後愚昧記』に、「カクノ如キ猿楽ハ乞食ノ所業ナリ。シカルニ賞玩近仕ノ条、世以テ傾寄ノ由。」と記している。
大和猿楽の源流は大和国城下郡杜屋(もりや)で、古代楽戸の血を引く秦氏を名のる下級の遊芸者の一団であった。そもそも猿楽は、祝宴の席などにおける奇術、曲芸に、軽妙な歌舞、音楽を加えて演じられ、軽業的な要素が非常に強かった。忍術の秘伝の変身の術には、猿楽師も含まれ、非賎な散楽、散所の民は、古来、諸国を漂泊放浪していた。そのような境涯にあることから、山伏と同じように諜報活動をして暮らしをたてていたともいわれている。
観世家も秦姓を名のり、当初、結城の糸井神社の神事に奉仕していた。江戸時代末期の書写とされる観世家系図の異本『上島文書』によれば、世阿弥は南朝の血を重々しく引きずっていたことになっている。観阿弥は山田猿楽美濃大夫の養子となり、兄に宝生大夫と生一があった。そして実父は伊賀国浅宇田庄預所を勤めていた上島景盛の子で服部氏を継いだ服部元成といい、元成は楠木正成の妹を妻に迎えて観阿弥をもうけたというのである。
これによれば、世阿弥は楠木氏とゆかりの深い者でり、この楠木氏との関係が、のちに観阿弥・世阿弥父子に不幸なカゲを落す原因になったとするものもある。ちなみに、観阿弥は服部三郎清次と名乗ったことが知られている。
■ 七道の者
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律令制下において、地方行政は五畿七道(ごきしちどう)に区画されていた。すなわち、山城・大和(・摂津・河内・和泉の五カ国と、東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道であった。傀儡の民は漂泊を常としていることから、「七道の者」と呼ばれたものであろう。
一方、仏教用語で六種類の世界のことを「六道」という。仏教では、この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道の六つのいずれかに転生し、この六道で生死を繰り返す(六道輪廻=ろくどうりんね)と言われている。たとえ天道であっても、苦しみの輪廻する世界を脱することはせず、永遠不滅の世界が仏界であるとされる。七道とはこの六道から離れたものをいうともいい、それとすれば、まことに酷い差別用語であるといえよう。
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観阿弥・世阿弥父子の能楽大成
観世一座の芸術性を高く評価した義満は観世父子を贔屓し、観世一座は将軍家の絶大な保護を受けて大和猿楽の地位を確立していった。観阿弥の嫡子鬼夜叉は藤若という名を賜り、人目をはばかることなく義満に寵愛された。
義満の後援を得た観阿弥は、能の質的向上をはかった。近江猿楽や田楽の長所を摂取して幽玄な芸風をうち出し、当時人気の高かった曲舞を取り入れて大和猿楽の音曲に変化をもたらし、新風の音曲を完成させたのである。観阿弥は革新的な役者であると同時に、能作者としてもすぐれ、「卒塔婆小町」「自然居士」などは観阿弥の作になるものである
元中元年(1384)の初夏、観阿弥は駿河国の守護職今川氏に招かれて京から旅立った。駿河に下向した観阿弥は、駿府浅間社で東国武士たちを前にみごとな芸を演じた。ところが観阿弥は、この地でにわかに急病となり、巨星の落ちるごとく五十二歳の生涯を閉じたのである。
一説に観阿弥の死は、駿河守護今川氏による謀殺であったともいわれる。先述のように観阿弥の母は南朝の忠臣楠木正成の妹であり、南北朝の対立は幕府方が優勢にあったとはいえ、まだ終息していなかった。観阿弥を招いた今川氏は足利氏の有力一門で、義満が寵愛する観阿弥の存在を危ういものと見ていた。京都では義満の存在もあり、自領の駿河において観阿弥を殺害したというのである。
たしかに、その後に世阿弥の子観世元雅が大和南朝方の武家であった越智氏の庇護を受け、越智観世がはじまったということもあり、観世一門は楠木氏をはじめとする南朝方勢力と何らかの関係を持ち続けていた可能性は否定できない。
父観阿弥が死去したのち、観世大夫として一座を率いる立場となった世阿弥は将軍義満を後楯として能楽の大成に精進した。世阿弥が目指すものは、大和猿楽の写実、物まねを生かしつつ、いかに幽玄の境地ある世界に能を纏め上げるかということであった。それは、父観阿弥が打ち立てた高い芸風を継ぐということでもあった。
応永六年(1399)、京都の一条竹ケ鼻で勧進能が演じられ、連日、管領や四職の武将が桟敷の用意をし、将軍義満も寵愛する世阿弥の能を鑑賞した。ときに世阿弥三十六歳、心身ともに絶頂期にあった。ところが、このころから近江猿楽の犬王が世阿弥以上に評価されるようになり、義満らの賞翫を得るようになった。犬王に刺激された世阿弥は、能の歌舞演劇化を進め、義満以上の鑑識眼を持つ義持や武家貴族の批判に堪え、世阿弥の能の質を向上させていったのである。
世阿弥の不幸と至芸の追求
応永十五年、世阿弥のパトロンであった義満が没し、その跡を継いだ将軍義持はもっぱら田楽を贔屓にし、それは、次の将軍義教の時代にいたっても同じことであった。一方、世阿弥は応永二十九年ごろ出家、観世大夫の地位を元雅に譲り、舞台をつとめつつ後進の教育に力を注ぐようになった。自らの芸術論の骨格となる伝書の執筆、数々の優れた能が作られたのもこの時期であったという。
しかし、悪御所とよばれた義教は、連歌、猿楽、酒宴に耽り、義教は世阿弥の甥音阿弥を重用するようになった。世阿弥父子は御所への出入りも禁止されるが不運が続くようになり、永享二年(1430)には元能が出家し、ついで永享四年には世阿弥がもっとも将来を嘱望した元雅が伊勢安濃津で客死してしまった。
世阿弥は流行遅れの一介の申楽者にすぎない存在となり、すべての権勢から外されていった。失意の世阿弥に対して、さらに追い討ちをかけるかのように、永享六年、佐渡配流の処分が下った。ときに七十二歳であった。
嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐によって将軍義教が暗殺されると、これと符合を合わせるかのように世阿弥は佐渡流罪を許された。しかしその後の世阿弥は、女婿の金春禅竹のもとに剥落の身を寄せたとも、佐渡島に残ったまま八十一歳の天寿を全うしたともいわれ、その最期は定かではない。
世阿弥は『高砂』『敦盛』『羽衣』『砧』『葵の上』など、いまも演じられる多くの作品を書き、夢幻能形態の能を作った。構成は基本をふまえて細部に工夫がこらされ、文辞は和歌や古文の修辞を巧みに応用し、流麗と同時に劇的な展開となっている。他方、世阿弥が書き残した『風姿花伝』『花鏡』『習道書』などの著作は、いずれも能のあり方を論じ、能芸美としての「花」をいかに咲かせるか、そして稽古修道のありかたはいかにあるべきかを論じ、文学史上からみても不朽の著作揃いである。
世阿弥は能を大成するために世に生まれた人物と思われ、まさに天才と呼ばれるべき存在であったといえよう。
観世のその後
世阿弥が大成した観世の能は音阿弥の流れが継承するカタチとなり、将軍義教から絶大な後援を受けたが、嘉吉の乱で義教が殺害されたことで大きな危機と直面した。しかし、音阿弥は大和猿楽の他座と協力して、よく危機を乗り切り、長禄二年(1458)長子又三郎政盛に大夫職を譲り隠居した。隠居したのちも円熟した芸を見せ活動を続け、政盛以上の活躍をみせ世人からの賞賛を集めた。
ところで、観世大夫は世阿弥のあと元雅が三代目を継いだが、現在の観世家系図では元雅は三代に数えられず音阿弥を三世観世大夫としている。また、音阿弥は世阿弥の養子となったとする説があるが、おそらくそのとおりであったと思われる。
政盛のあと大夫は幼少の者が続くが、一族の観世信光、長俊らが大夫を支えてよく流儀を守った。とくに政盛の弟信光は、観世座の大夫代理(権守)として、若い大夫を助けて、観世座の繁栄に大きく貢献した。信光は能作者としても活躍し、「舟弁慶」「羅生門」などを作った。その作風は、世阿弥の優美さ一方から脱して、劇的な要素を強く出し居、大衆性を与えたところが特長的なものである。
戦国時代になると観世左近元忠があらわれ、三十歳ころに上手の評判を得た。元忠が大夫職にあった十六世紀の中ごろ、能は次第に神事から離れ、武家や公家との関係を密接に保つようになった。元忠も室町幕府催能に出勤していたが、幕府の力が衰えた元亀二年(1571)ごろ、徳川家康を頼って遠州浜松に下向してその保護を受けるようになった。そして、孫の左近身愛とともに、観世座を武家式楽の筆頭の地位におくことに成功したのである。
【参考資料:日本史大辞典/『華の碑文』=杉本苑子(中央公論新社)ほか】
●お薦サイト:
観世流/
宝生能楽堂/
能・狂言のお話
●能楽家の家紋
観世家と並ぶ能楽家として、金春・宝生家が知られる。金春家は秦河勝の子孫といい、円満井竹田大蔵金春と称し、円満井座と呼ばれたと伝える。本紋は「違鷹羽」で、替紋は「柏葉車」である。宝生家は観世家の一族で、「矢羽」と「井桁と角七宝」を用いた。「矢羽」は八本矢で、法華八品に凝らしたものと伝えているが、観世家が十本矢を用いたので、本宗をはばかって本数を八つにしたものであろう。ところで、観世・金春・宝生の各家は和楽をもって春日大社に仕えていたことから、春日社から「藤丸紋」を賜った。いまも、各家ともに幕紋には藤丸を用いている。
■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に収録された「服部氏系図」をベースにして、『ごさんべー』さんのページの永富氏の項の系図を参考にさせていただきました。永富氏はのちに播磨の大地主となり、庄家を兼ねたそうです。現在揖保郡に残る永富家住宅は国の重要指定文化財に指定され、鹿島建設の社長を務めた鹿島守之助の生家としても有名です。余談ながら、永富家の家紋は「丸に三つ楓」で、永富家の系図などに関する考察は「永富家の人びと」に詳しい。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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