狩野家
三本矢
(藤原南家二階堂氏流?)
・狩野氏系図の記述に、画像は「日本紋章学」の図版に、それぞれ拠った。 |
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戦国時代、天下統一を押し進めた織田信長、そして信長の遺業を継承した豊臣(羽柴)秀吉の時代は「織豊時代」とも
「安土桃山時代」とも呼ばれて、豪放で快活な新文化が花開いた。とくに信長の築いた安土城や二条城、
秀吉による桃山城、聚楽第、大坂城などの大規模建造物は時代を象徴するものであり、そこには当時の美術工芸の粋が
集約されていた。なかでも織田信長、豊臣秀吉の好む障屏画の制作にあたった狩野永徳をはじめとする
山楽・光信ら狩野一門の豪壮で装飾に富んだ画風は、一世を風靡した。
絵師−狩野家の確立
室町時代のはじめ、日本水墨画が東福寺殿司の吉山明兆によって完成された。南北朝時代の文和元年(1352)に
淡路国で生まれた明兆は東福寺に入ったが、禅僧としての高位は望まず、画法の習得に精進して初の寺院専属の画家として大成した。その画法は将軍足利義持からも愛され、明兆の画法は他の寺院にも広まって室町時代の仏画の大きな流れとなった。
一方、禅家と武家の生活様式が接近していったことから、人物・花鳥などの世俗画が禅家の方丈間に描かれ、
禅家の水墨画が武家の屋形にも描かれるようになった。やがて、禅宗絵画を専門とした画僧が水墨画だけでなく、
山水・人物・花鳥などの世俗画を彩色画としても描くようになり、画僧と俗人画家との差がなくなってきた。
そして、相国寺都寺職を務めながら画家としても名をなした天章周分が、足利将軍家の御用絵師をも務めるようになり
現代へと続く日本的水墨画を大成したのである。周文の画法は高遠を強調した力強い描線が特徴で、周文作と伝えられる水色巒光図・竹斎読書図は国宝に、四季山水図屏風などが重要文化財に指定されている。
周文は雪舟等楊・小栗宗湛など多くの弟子を育て上げ、その没後、将軍家御用絵師は小栗宗湛が継いで将軍足利義政に重用された。小栗宗湛のあとを継いで御用絵師に任ぜられたのが狩野派の祖狩野正信であった。正信は上総伊北荘大野に生まれ、下野国足利の長林寺に残る『観瀑図』が正信初期の作品といわれている。そして、寛正四年(1463)に相国寺塔頭の雲頂院に観音と羅漢図の壁画を制作したことが『蔭涼軒日録』にみえている。ときに三十歳であったというから、若いころより京に上り画家として活動していたことが知られる。一説に正信は宗湛に師事したといわれるが、御用絵師になった時期も含めて正確なところは分からない。
狩野家の系図を見ると、藤原南家流二階堂氏の分かれとなっている。すなわち、正信の祖父狩野左衛門尉篤信は
二階堂出羽守貞藤(道薀)の子となっている。系図の記述をそのままに受け取ることはできないが、二階堂氏は実務官僚として鎌倉幕府、ついで室町幕府に仕えた武家であり、正信の二階堂狩野氏は武士として鎌倉に出仕していた可能性はある。そして、その縁故で上洛、やがて画業をもって将軍家に仕えるようになったのかも知れない。禅家(僧)と武家(俗人)を融合する画法を確立したのも、
武家の流れをくむ正信ならではのことであったとも考えられる。
足利義政に重用された宗湛が応仁の乱後ちの文明十三年(1481)に死去すると、名実ともに幕府の
御用絵師となった狩野正信は、宮廷の絵所預職である土佐光信と並んで画壇を二分する勢力となった。文明十五年ごろ、
足利義政が造営した東山山荘(銀閣寺)の障屏画を制作、足利義尚の出陣姿を描いた「騎馬武者像」も
正信の作といわれる。義政の没後は、幕府実力者で管領をつとめる細川氏に接近して画壇での地位を固め、
晩年には法眼に叙せられた。正信は武禅両家に通じる画法をもととして、水墨画と大和絵に通じて狩野派の技法と
画域の確立に努め、のちの狩野派隆盛の基礎を築きあげた。正信の遺業は嫡男の元信に受け継がれ、
さらに大きく発展していくことになる。
・肖像 :
狩野元信画像
画壇の頂点を極める
正信のあとを継いだ元信は室町幕府の御用絵師格の地位を保ちながら、宮廷・公家・寺院・町衆など広範囲な層から大量の注文を受けたことが文献に残っている。元信は正信から継承した水墨画の画法をもとにして、宋・元・明画を総合的に学び取り、加えて土佐派との親交によって大和絵の着色法を吸収するなどして和漢融合の狩野様式というべき新絵画を創造した。いわゆる、書道の書体である楷書・行書・草書にならって、絵画における「真体・行体・草体」という画体の概念を確立したことから近世障屏画の祖とよばれる。
元信は足利将軍家をはじめ幕府の実力者である細川家との関係を深め、多くの門弟を抱え、狩野派を
押しも押されもせぬ画家集団に育て上げた。晩年には「越前守」を称し、入道して永仙と号し、法眼に叙せられた。
元信には宗信・秀頼・直信の三人の男子があったが、長男の宗信らは早世したため三男の直信が家督を継承した。
直信は大炊助を称し、剃髪後の松栄の号で知られる。天文二十二年(1553)、父元信の助手として石山本願寺障壁画の
制作に従事、永禄六年(1563)大徳寺に大涅槃図を寄進、同九年三好義継が建立した大徳寺聚光院の障壁画を息子の
州信(永徳)とともに制作した。松栄の場合、父元信と永徳がともに高名なことと、はやくに息子永徳に家督を
譲ったために地味な存在だが、永徳の活躍を陰で支えて狩野派の発展に尽くした存在であったといえそうだ。
狩野派最大の立役者ともいうべき永徳は、幼いころより祖父元信の指導を受けて画才を伸ばし、天文二十一年、十九歳のときに元信とともに将軍足利義輝に拝謁し、二十代で狩野派一門の棟梁的役割をはたした。永禄九年、父松栄とともに描いた大徳寺聚光院障壁画の力動感あふれる画風は、永禄十一年に上洛した織田信長の気にいるところとなった。天正二年(1574)、信長は「洛中洛外図屏風」を永徳に描かせて上杉謙信に贈ったが、上杉家に伝わる屏風には二千人近い人物が細密に描写された傑作で国の重要文化財に指定されている。ついで天正四年、信長の安土城築城に際し、永徳は嫡男の光信、弟子の山楽ら狩野一門を率いて内部七重の天守、城内御殿の障壁画制作に心血を注いだ。『信長公記』によれば、金地濃彩の花鳥・風俗を主体とした絢爛をきわめたものであったという。それらの作品は本能寺の変後に安土城とともに焼失したが、もし現存していれば美術史に燦然と輝く国宝指定間違いなしの傑作だったことであろう。
信長が本能寺で斃れたのちは豊臣秀吉に起用され、大坂城をはじめとして聚楽第、御所など秀吉の相次ぐ
大規模建築物の障壁画の制作に従事した。しかし、あまりの多忙多作がたたって健康を損ねたのか、天正十八年、
御所の襖絵制作の途中で急逝した。享年四十八歳であった。永徳の作品は建物とともに消滅してしまったが、
その作風はわずかに残った「唐獅子図屏風」「檜図屏風」、さきの「洛中洛外図屏風」などからうかがうことができる。
永徳は足利将軍家に仕え、ついで織田信長、豊臣秀吉ら専制君主の求めに応じてその力を存分に発揮した。
永徳の画家としての実力、ときの権力者に対する政治力などによって画壇における狩野派の地位は揺るぎないものとなった
のである。もっとも、永徳と同時代に活躍した長谷川等伯、海北友松らの子孫が続かなかったことも狩野派繁栄の
一助となった。
・永徳唐獅子図:
(三の丸尚蔵館)
戦国時代を生き抜く
永徳の没後は、嫡男の光信と弟子の山楽が中心となって、永徳の弟の宗秀・長信、光信の弟孝信らの一門が結束して
狩野派の権威を保持した。やがて秀吉が病没し、関が原の合戦で徳川家康が覇権を確立、さらに征夷大将軍に任じられた
家康が江戸幕府を開くというように時代は大きく動いた。この政治的過渡期というべき時代において、狩野派は光信・長信らが徳川家の用命に応じて江戸に赴き、孝信が宮廷の絵所預に任じられ、狩野姓を許された山楽が豊臣家に仕えるなどして難しい時代を巧みに処世した。
慶長八年(1603)、光信が死去したが嫡男の貞信は若年だったため、弟の孝信が狩野派を率いることになった。
元和元年(1615)、大坂の陣によって豊臣家が滅亡すると、豊臣家に仕えていた山楽らは身をひそめ、のちに赦されて
京狩野として続いた。一方、孝信を棟梁とする狩野家は徳川幕府の御用絵師となり、その地位は孝信の子どもたち守信(探幽)・尚信・安信らが継承して江戸狩野と呼ばれた。狩野派の場合、貞信が嫡流であったが二十七歳で早世したため、孝信の系が狩野家の嫡流となった。
探幽は慶長十七年に駿府で徳川家康に拝謁し、幕府の御用絵師になると弟の尚信・安信らを率いて江戸と上方を往来し、
幕府が建造する城郭・寺院の障壁画の制作に活躍した。探幽は豪壮な桃山形式を継承する一方で、瀟洒淡白な画風も
開拓し、その後の日本絵画に大きな影響を与えた。のちに画家としての最高位である法印に叙せられ、江戸時代における
狩野派の地位を不動のものとした。探幽は江戸鍛冶橋門外に屋敷を与えられたことから「鍛冶橋狩野」と称され、弟の尚信の系は「木挽町狩野」、安信の系は「中橋狩野」と呼ばれてそれぞれおおいに繁栄した。
戦国時代といえば、どうしても合戦に明け暮れた武将が注目される。しかし、茶道を大成した千利休、刀剣の鑑定を
家業とし書・陶芸家としても大きな足跡を残した本阿弥光悦、そして安土桃山時代を象徴する豪壮な絵画を創造した
狩野永徳らは武将たちに優るとも劣らぬ戦国魂をもった人々であった。
・2011年3月14日
【参考資料:・日本史大事典(平凡社刊)・国史大辞典(吉川弘文館刊)・狩野家系図 ほか】
■参考略系図
・「東京大学データベース」に所蔵される『狩野氏系図』をベースとして、
日本史大辞典・日本史辞典に掲載された系図などを併せて作成。
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