上条氏
竹に雀 (藤原北家上杉氏流) |
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上条氏が拠った柏崎は交通の要衝で、この地に割拠する毛利一族の安田・北条、斎藤氏らの存在は、守護上杉氏にとって無気味なものであった。上杉氏は斎藤・安田氏らの柏崎周辺の国人を奉行などに登用するなどして懐柔に務めたが、その所領支配にまでは干渉できなかった。
そこで、上杉氏は柏崎近辺に自らの一族や被官を配置することによって、かれら国人領主たちを牽制しようとした。この上杉氏の考えによって刈羽郡鵜川庄上条に入部したのが、山内上杉憲顕の孫で越後守護家を継いだ房方の子清方であった。
越後の守護職は戦国時代に至るまで上杉氏が世襲したが、守護は在京して将軍に近侍していたため、国元の政治は守護代の長尾氏が取り仕切った。さらに、越後は関東に近いことから在国の守護代長尾氏は鎌倉府の影響を受けることが多く、在京の守護上杉氏は幕府寄りという政治構造となっていった。
守護と守護代の抗争
応永三十年(1423)、京都幕府と鎌倉公方足利持氏との関係が悪化したとき、幼少の守護房朝は京都にあり、国元の守護代長尾邦景は管領上杉憲実とともに鎌倉公方に属していた。守護房朝の名代である上杉頼方は実質的な越後守護として、持氏に加担する長尾邦景と戦い敗れるという「応永の乱」が起った。以後、越後は守護代方と守護方に分かれて内乱が続いた。
その後、持氏は幕府に謝罪したため京都と鎌倉の間に一旦和解が成立し、越後の乱も終熄していった。ところが、将軍足利義量の死をきっかけに持氏は将軍職を望むようになり、自己の勢力を拡大するため、上杉清方らに命じて甲斐の武田氏らを討伐させるなどの軍事行動を起こした。しかし、足利義教が新将軍に任ぜられたことで、持氏の反幕府的行動はさらにエスカレートしていった。
このような持氏の暴走を諌めてきた管領上杉憲実が、永享十年(1438)、持氏を見限って領国上野に帰ったことに対して持氏が兵を送ったことで「永享の乱」となった。このとき、長尾邦景も鎌倉府に見切りをつけ将軍義教に近付き守護代を安堵された。さらに、邦景は持氏に近かった上杉清方も幕府方に転向させ、鎌倉府との対立姿勢を明確にしたのである。幕府は上杉氏を支援して駿河守護今川氏らを関東に出陣させ、幕府軍に敗れた公方持氏は翌十一年自害して果て鎌倉府は滅亡した。その後、関東管領職を退いた憲実に代わって清方が管領職に補任された。
永享十二年、持氏の遺児春王丸・安王丸兄弟を擁した結城氏朝が兵を上げ、幕府は上杉清方を攻城軍の総大将に命じて結城城を攻撃させた。越後守護代長尾実景も清方に従って出陣し、結城城陥落のとき春王丸・安王丸を捕らえるという大功をたてた。この功に対して将軍義教は感状を与え赤漆の輿に乗ることを許した。長尾氏は得意絶頂となったが、ほどなく義教が「嘉吉の乱」で暗殺されると長尾氏の株は大きく下落した。
守護上杉氏の全盛
越後守護房朝が男子をなさないまま死去すると、清方の子房定が入って守護職を継いだ。房定は永享の乱で断絶していた鎌倉府を再興し、専横を振るっていた守護代長尾氏を追い詰め、邦景を切腹させ実景は追放して越後守護上杉氏の全盛時代を現出したのである。
守護権力を確立した房定は、検地などを押し進めて領国の支配強化をはかった。さらに、新公方となった成氏が管領上杉氏と対立して「享徳の乱」が起ると、管領を支援して関東に出陣して活躍を示した。さらに管領房顕が死去したあとに二男の顕定を入れ、山内上杉氏の惣領的立場をも手中にした。房定は幕府内にも勢力を築き、それらの力を背景として公方成氏と管領上杉氏を和睦させ、ついには幕府と成氏との和解(都鄙の合体)も実現したのである。
房定の活躍で関東・越後の争乱は一応の終熄をみせたが、それも長くは続かなかった。今度は、山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で抗争が勃発し、関東を二分して合戦が繰り広げられた。明応三年(1494)、守護房定が死去すると、房能があとを継ぎ兄の顕定を支援して関東に出陣した。その一方で、国人たちに与えていた守護不入の特権を排除するなど、守護権力の強化を押し進めた。
このような守護上杉氏の施策が成功し、領主権力が確立されれば上杉氏は守護大名から戦国大名に脱皮できるはずであった。しかし、房能は尊大な気質の持ち主で、関東出兵に疲れた国人たちの窮状を顧みることがなかった。そのため、越後国内の国人たちは守護上杉氏に対する不満を次第に募らせていったのである。
それでも、守護代長尾能景が房能を支えている間は、大きな波乱も起らなかった。しかし、永正三年(1506)、越中の一向一揆を討つために出陣した能景が戦死すると事態は急変した。
長尾氏の下剋上
能景のあとを継いで越後守護代となった長尾為景は実力もあり野心にあふれた人物で、父能景のように守護に従順ではなかった。国人たちの守護に対する不満を敏感に察知した為景は、守護権力の排斥を企て、永正四年、守護房能の養子で上条上杉氏出身の定実を擁立してクーデターを起こした。敗れた房能は関東に逃亡しようとしたたが、為景に追撃されて天水で家臣山本寺定長らとともに自刃した。こうして、定実が越後守護となり、為景・定実政権が発足した。
房能の敗死を知った関東管領顕定は、永正六年七月、関東軍八千騎を率いて越後に進撃、敗れた為景と定実は越中に逃れる事態となった。しかし、顕定の本拠地である関東では、扇谷上杉氏が小田原の北条早雲と結んで武蔵進出を企て、顕定に腰を据えた越後経営を許さなかった。加えて、顕定は為景に味方して房能を討った者たちの所領を没収したり捕らえて殺害するなど、強圧的な越後支配をしたため国人たちの反感を増長していた。対して、為景と定実が越中に逃亡したとはいえ、為景・定実方の国人領主たちの離反は少なかった。
やがて、態勢を立て直した為景は佐渡を経て柏崎に上陸し顕定に戦いを挑んだが、顕定軍に敗れ主だった者百余人を討ち取られるという敗戦を被った。とはいえ、為景の巻き返し作戦は次第に効果をあげ、なかでも為景に力を与えたのは定実の実家上条上杉定憲の挙兵であった。
為景は上条定憲と北信濃から駆け付けた高梨政頼の軍と合流して顕定軍と対峙した。これに対して顕定は国人たちに参陣を呼び掛けたが応じる者は少なく、関東では北条早雲の台頭が著しくなっており、ついに顕定は府中を捨てて関東に兵を引き上げることに決した。しかし、上田長尾氏も為景方に転じたことで退路を絶たれ、長森原で為景勢の追撃を受け一戦を交えたが敗れて戦死した。
こうして、為景と定実はふたたび政権の座に返り咲いた。しかし、国政の実権は長尾為景が握り、上杉定実はまったくのお飾りに過ぎない存在であった。定実はこのような状況を打破するため、一族の上条定憲・宇佐美房忠らを語らい為景打倒の兵を挙げた。為景は宇佐美房忠の拠る小野城を攻撃し、これに揚北衆の中条・新発田らが加担したため大勢は決した。永正十一年(1514)、為景と守護方との激戦が上田城下で行われ、守護方は為景の前に壊滅した。この勝利によって、長尾氏は戦国大名へ大きく一歩を踏み出したのである。
為景との抗争
とはいえ、為景は守護になれるはずもなく、その政権も長尾三家の同盟と揚北衆の協力で成立したものであった。言い換えれば、長尾三家の結束を破り、揚北衆を味方に付ければ、長尾為景の覇権を転覆することも可能になりえた。加えて、為景の越中出兵による経済的負担などもあって、国人領主たちの間に為景政権への不満が醸成されつつあった。
享禄三年(1530)、この機を捉えた上条定憲はふたたび反撃に出た。為景は長尾景信の協力をえて、揚北の国人衆に上条城を攻めさせるなど戦いを有利に進め、幕府の仲裁もあって定憲は為景の前に屈した。この「上条氏の乱」に際して、揚北の国人衆らが為景に味方したのは、為景と幕府の有力者細川高国との深いつながりによるものであった。
ところが享禄四年、為景に近かった細川高国が摂津天王寺の戦いで敗れて自刃したことで、にわかに為景の権勢に翳りがさした。この情勢の変化をみた上条定憲は三たび兵を挙げた。この反撃には、後楯を失った為景を見限った上田長尾房長、揚北衆らが上条氏の味方につき、それは中・下越を席巻する大勢力となった。為景は上越地方を押さえ、北条高広・安田景広・古志長尾景信・山吉政久らが上条方に立ち向かった。以後、越後国内は両派に分かれて戦いが繰り広げられた。
天文四年(1535)、為景方は宇佐美一党の居城を攻めたがもろくも敗れ、さらに会津の葦名氏も上条方となり、上田長尾勢は古志長尾氏の拠点である蔵王堂口に押し寄せ、小千谷地方をおさえる平子氏も上条方に加担した。この事態を打開するため為景は、朝廷に工作して旗をもらったり、内乱平定の綸旨を頂戴したりしたが、そのようなものが乱世に役立つはずもななかった。
上条勢の反撃と為景の隠退
そして天文五年になると上条勢は攻勢に転じ、四月、上条方の宇佐美・柿崎軍は府中へ進撃した。為景は高梨氏の協力をえて、春日山城の最後の防衛線ともいえる三分一原でこれを迎え撃ち千余人を討ち取るという大勝利をえた。しかし、この勝利も頽勢挽回にはいたらず、万事窮した為景は家督を晴景に譲り隠退、その年の暮れに波乱の生涯を閉じたのである。
揚北の国人衆らは、為景に対して反抗をしていたこともあって戦う相手を失うかたちとなった。為景のあとを継いだ晴景は定実を守護に返り咲かせ、さらに頑強に抵抗していた一族の上田長尾氏に妹を嫁がせるなどして事態の収拾に努めたため、乱は次第に終熄していった。
その後、定実の養子の一件をきっかけに越後はふたたび内乱状態となり、晴景は弟の景虎(のちの上杉謙信)を栃尾城主として反対勢力に対抗させた。景虎はたちまち中越の反対勢力を平定し武名をおおいにあげた。この景虎に注目したのが晴景に対抗する中条藤資らで、藤資は高梨氏らと結んで景虎を国主にしようと画策した。それが原因となって、事態は晴景と弟の景虎との間で家督をめぐる争いとなり、戦いは景虎の優勢に推移した。やがて、守護定実が仲介に動き、晴景が家督を景虎に譲ったことで内乱は一応の収拾をみせた。以後、越後は長尾景虎(上杉謙信)のもとに統一され、上条氏も謙信の麾下に属したのである。
上条定憲は上杉氏の一族として、徹底的に長尾為景と抗争を繰り返した。まことに不屈の闘志の持ち主であり、越後上杉氏の筆頭一族としての節を通した骨太い戦国武将であったといえよう。
政繁(義春・宜順)の活躍
上条氏の系図によれば、定憲は房憲とみえ兄に頼房がいた。しかし、定憲・頼房ともに実子がなかったため、上条氏の名跡を継いだのは謙信の養子となっていた畠山義春であった。義春は能登守護畠山義隆の次男義春で、越後に人質として送られて謙信の養子となったが、上条家に入嗣したものである。その後、弥五郎政繁と名乗り、その妻は景勝の妹であった。
一説に上条政繁は上条上杉氏の一族で定実の舎弟にあたる人物で、義春は政繁の養子に入ったのだとするものもある。しかし、その活動時期などから、上条政繁と畠山義春とは同一人物と見るほうが自然なようだ。のちに政繁は入道して、上条宜順と称した。
元亀年間(1570〜72)、宜順は謙信の関東出兵に従い、上州にあってときに陣代として関東経略にあたった。天正元年(1573)越中に転じ、翌二年には関東に出陣している。天正三年の『上杉家軍役帳』では、上杉一門として第四位に名を連ねて九十六名の軍役数を担っている。
天正五年、謙信は九千の兵を引き連れて天神川を渡り七尾城を包囲した。この陣に上条宜順も参加し、実家畠山氏を滅ぼした逆臣らを討って仇を雪ごうとした。同年九月、遊佐続光らの裏切りによって七尾城は落城し、鯵坂長実が城将として入った。落城後、謙信は畠山氏の未亡人三条殿を北条景広の妻に世話しようと厩橋の高広に書状を送っている。そのなかに、三条殿の連れ子を養子として引き取るといっている。三条殿の連れ子はのちに義春と名乗ったことから、上条宜順となった畠山義春と混同されることが多い。
天正六年三月謙信が死去したことで、ともに養子である景勝と景虎が家督を争った「御館の乱」では、義兄景勝を応援した。『北越太平記』によれば、謙信の死を危ぶんだ老臣の直江信綱(太平記では兼続とあるが誤り)・本庄繁長・長尾景路らが相談して、もし謙信死亡のときは家督を他家に渡すよりは謙信の甥景勝に継がせようとして、景勝のもとへ上条宜順をつかわし景勝を春日山城本丸に迎えたことが記されている。
以後、上条宜順は景勝の側近として活躍し、天正十年春には織田軍の攻囲によって窮地に陥った越中海津城を救うため、織田信長と結んで景勝に対立している新発田重家の説得にあたっている。また直江兼続とともに越中の佐々成政に備えるため兵粮・鉄砲・玉薬等を準備する任にあたり、信長の部将森長可が信濃から関山あたりまで兵を進めるとこの防戦にあたった。その後、景勝の信濃諸将統括の任にあたり、公事沙汰の奉行に直江兼続を加えるよう景勝に要請している。このように、宜順は景勝政権の枢要に身をおいて景勝をよく援けた。
上条氏のその後
天正十二年、景勝は秀吉への人質として宜順の子で養子でもある義真(長員ともいう)を送った。その後、宜順は信州統治に不届きありとされるなど景勝との間に隙を生じ、天正十四年七月上方へ出奔、その跡は村山安芸守に与えられた。宜順の出奔は、豊臣秀吉による上杉家の内部攪乱であったとも、直江兼続の讒言によるものともいわれている。秀吉は宜順をとらなかったが、関ヶ原の合戦を機として宜順は家康に食客として従い本姓畠山に復した。
宜順の長男景広(長則)は上杉景勝に仕え、子孫は畠山姓に復して侍組に列し武田・山本寺・二本松の諸氏とともに「高家」と呼ばれる上杉家中の最上席にあった。二男の長員は、父が畠山姓に復したとき謙信から受けた恩義に報いるために上杉姓を称して別家を興した。これが畠山上杉家であり、慶長六年十一月、家康に拝謁し千四百九十石余石を与えられ、子孫は江戸幕府の「高家」に列した。三男義真は父義春と行動をともにし、慶長六年、家康に拝謁して兄長員と同じく徳川家旗本に列し、のちに畠山に復して子孫は旗本高家として存続した。
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