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伊予宇都宮氏
三つ巴
(藤原姓宇都宮氏支流)


 承久三年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府討幕の兵を京にあげ、反乱を起こしたが、幕府軍は一ヶ月足らずで都を制圧し反乱を鎮圧した。この承久の乱に宇都宮一族も従軍し、宇都宮氏五代朝綱の子頼業や時朝が宇治橋合戦で活躍した。宇都宮朝綱は鎌倉に留まり兵を率いることはなかったが、一族の功によって伊予国の守護職が与えられた。
 これ以降、伊予守護職は宇都宮一族によって継承され、やがて伊予宇都宮氏がおこる要因となった。朝綱の跡を継いだのは承久の乱で活躍した横田頼業で、「関東御教書」から仁治元年(1240)ごろのことと考えられている。頼業以後の守護職については明らかではないが、『栃木県史』では、元応元年(1319)、六波羅探題から小早川美作民部大夫に感状が出され、軍功を上申した人物として「伊予国守護人狩野参河貞宗」の名が見られる。また、元弘三年(1333)の忽那重清の軍忠状に「守護参河権守貞宗」とあることから、鎌倉末期の伊予守護として宇都宮貞宗が見出せるとしている。

伊予宇都宮氏のはじめ

 貞宗を記す系図は『尊卑分脈』のみで宇都宮氏一族の武茂氏祖泰宗の子である。『下野国誌』にある泰宗の子時景の官途三河守と時景の子氏泰が狩野氏を称していることから、貞宗と時景が同一人物と推察され、伊予守護職は泰宗を経て、貞宗に帰したと『栃木県史』では推定しているのである。
 従来より、『下野国誌』にある「武茂系図」により、武茂一族と伊予宇都宮氏との関係が知られていた。「武茂系図」には泰宗の子景泰が京都守護職になって烏丸に住し、その子宗泰のころには「三河守伊予国住人」とあり、その子朝宗のころには「三河守大洲城守宇都宮遠江守豊綱之祖」となっている。
 また『大洲旧記』によれば、元徳二年(1330)、豊前宇都宮氏五代頼房の子豊房が伊予守護職に任じられ、翌年、伊予に移ったという。豊房は下野の宇都宮二荒山神社から分霊を大津庄五郎村に勧請し、宇都宮大明神と菩提寺の城願寺を建立したと伝えている。豊前宇都宮氏は豊前国を拠点とし、下野宇都宮氏の祖宗円の弟兼仲の流れで、その支族として伊予宇都宮氏が成立したとしているのである。
 ちなみに、大洲市内にある宇都宮神社には「日光山縁起絵巻」が伝えられ、文明九年(1477)に下野宇都宮氏十六代正綱が奉納している。正綱は『下野国誌』によれば、芳賀成高の子で、初め武茂氏を継ぎ、その後、寛正四年(1463)に宇都宮宗家を継いだ人物である。また、伊予宇都宮氏の菩提寺である城願寺には、下野宇都宮三代朝綱の位牌あ残されている。このようなことから推して、下野・伊予の両宇都宮氏は深い関係で結ばれていたと考えられる。

中世の動向

 伊予宇都宮氏は豊房以降、大津(大洲)を拠点に戦国末期まで続く。しかし、豊房には子がなく、宇都宮貞泰の子宗泰を養子にして守護職を継がせたという。「大洲宇都宮系図」の貞泰の項に「六郎、始景泰、美濃守、遠江守、野州宇都宮の住人、後京都に住す、法名蓮智」とある。貞泰には貞宗・宗泰の二子がいて、貞宗は伊予守護職に任じられ、宗泰は伊予宇都宮の二代として家督したことになっている。
 『下野国誌』所収の「武茂系図」では景泰(貞泰)の項に「遠江守従五位下、京都守護と為し、烏丸に住す」とあり、その子として宗泰の名をみいだせる。このようなことから承久の乱以降、宇都宮一族によって継承された伊予守護職は、鎌倉時代の末期に有力な支族となった武茂一族から任命されたと考えられる。
 恐らく、最初は泰宗の子、二代の時景の弟である貞泰に与えられたのであろう。貞泰の後は嫡子貞宗に継承され、その年代は先に記したように六波羅からの感状から元応元年(1319)ごろと推定される。「大洲市誌」によれば、貞宗は府中に館を構えたという。元弘元年(1331)に起きた元弘の変以降、貞宗は幕府(北条方)に応じたのため、土居通増・忽那重清らに館や城を攻められている。前に記した忽那重清の軍忠状は、そのときに出されたものと思われる。
 貞宗の没年は明らかでないが、貞宗の跡を豊前宇都宮氏から出た豊房が継いだのであろう。豊房の養子となった貞宗の弟である宗泰は伊予宇都宮氏の家督を継ぎ、以後、天正十三年(1585)、土佐の長曽我部氏によって滅ぼされるまで存続していくのである。

参考資料:馬頭町史(栃木県立図書館蔵)・大洲市史 ほか】

●宇都宮氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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