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伊予大野氏
木瓜に二つ引両
(大伴氏裔伴氏後裔という)


 大野氏の出自については、『大野系図』によると、天智天皇の皇子大友皇子から大伴旅人を経て、大野氏になったと伝えている。しかし、大友皇子の後裔に大伴旅人が出たというところで、既にこの説は信じ難いものといわざるを得ない。
 とはいえ、天文十七年(1548)に大野利直が菅生山大宝寺に寄進した鐘の銘に「大伴朝臣大野利直」と刻されているところから、大野氏は大伴氏の出と自認していたことが知られる。これに対し、『予陽河野家譜』をはじめ地元の庄屋に残る『大野四十八家之次第』などの史料は、すべて嵯峨天皇の孫経興王の後裔としている。いずれも後世の仮託であって信用することはできないが、大野氏の系譜に対する強い自負をうかがうことはできる。
 伊予大野氏の発祥の地については、『大野系図』などに、年代不明ながら「吉良喜」というものが喜多郡長浜に下向し、大野・宇津・森山・宇和川以下九ケ里の民を手なづけて、大野氏を自称したとするが、現在、この地域に大野という地名はなく信用し難い。また、別の『大野系図』や『予陽河野家譜』は、喜多郡宇津との関連を述べているが、こちらも後世の仮託の気配が濃いものである。
 このように大野氏の発祥地について『大野系図』などの編纂物の記述が信用できないとなれば、ほかの史料によらざるをえない。そして、その手掛かりとなるのは、建武三年(1336)六月の河野通盛の注進する手負注文である。これは、河野通盛に率いられて比叡山に拠る後醍醐天皇方を攻撃した伊予国軍勢のなかに「大野次郎兵衛尉忠直」と見えている。大野氏は「直」を通字としているところからみて、これが大野氏の祖であると考えられる。さらに彼は設楽流兵藤氏の被官とあった。
 設楽氏は三河国設楽郡の豪族で、伴姓、のちに足利氏の根本被官となり、奉公衆のなかにも加えられている。兵藤氏は設楽氏と同族で、設楽氏の支族には富永氏もいた。大野氏が伴姓で、しかも富永とも称していることを考えあわせると、両者の間には何らかのつながりがあったと考えられないこともない。なお、兵藤氏が、喜多郡出海に拠ったことは、年不詳の旦那名字注文によって確認され、大野氏も喜多郡にあって兵藤氏の被官となり、やがて、室町期にいたって兵藤氏をしのぐ勢力をもつにいたったのではなかろうか。ただし、大野氏が兵藤氏と血縁関係があったかどうかは明かではない。

大野氏の台頭

 永享七年(1435)、河野通久が戦没し、幼主犬王丸(のちの教通)の家督継承後まもないころ、大野氏は浮穴郡に進出してきた森山氏と戦っている。そして、将軍義教から所領を没収されて、それは森山氏に給与されている。そのとき、河野氏から与えられたと思われる「給恩之地」は、同氏の取り計らいにまかせられている。これは、大野氏が将軍被官でありながら、守護被官でもあったという両属的性格を示すものであろう。そして、大野氏の名乗りに河野氏被官に多い「通」の字を付したものが、ほとんど見られないのもこのことからうなづけるのである。ちなみに、通の字を名乗りに付したのは、わずかに応仁の乱後の大野氏当主通繁一人である。
 つまり、大野氏はきわめて独立的な存在であったと考えられ、森山氏と同様に幕府へ直結し、守護との関わりが薄かった。又、将軍家から伊予安国寺領余戸荘を給与されていることからも、それがうかがわれる。これより先宝徳三年(1451)室町幕府御教書が発せられ、土佐国高岡郡の国人津野之高を討伐するよう命令を受けている。津野氏は土佐国の有力国人の一人でその所領は伊予国久万山で接していた。そして、大野氏は幕命を奉じて土佐に侵攻し津野軍と交戦し負傷している。
 やがて、大野氏は小田の地から久万山に勢力を延ばしていった。しかし、このころの大野氏の活動については、『大野系図』をはじめ諸種の編纂史書に矛盾が多く、いずれとも判断しがたいものである。浮穴郡荏原郷と同久万山は、美濃守護土岐氏の所領であったが、応仁の乱後、土岐氏の自力をもってしては所領維持が困難となてきた。そのため、同地域に勢力をのばしてきた大野氏の援助を浮ける必要を感じ、大野九郎次郎綱直あてに荏原・林・久万山の管理を依頼したいる。こればどは、大野氏の勢力伸長を裏付けるものであろう。このころ、大野通繁は、森山氏とともに河野氏に背いて討死したことが知られる。
 伊予守護河野氏の領国支配において、土佐勢の侵入は最も警戒を要するところであった。そのため、土佐国に接する小田・久万地方の守りとして久万山に大除城を築き大野氏に守らせた。大除城の築城の時期は定かではないが、おそらく久万山に出雲入道が跳梁し、通繁兄弟がこれを平定したという寛正五年(1464)ころと思われる。そして、大除城主初代とされる直家のときに大修理が加えられたようだ。
 直家は、書によっては朝直ともされ安芸守に任じられた。かれは土佐長宗我部氏に対抗する将として与望郷をになって大除城主となったものである。そして、明応元年に本領荏原・林・久万山を軍兵をもって切り取ったといわれる。荏原以下の土地はかつて美濃土岐氏の所領であったが、直家の代になると大野氏の所領となっていた。

戦国乱世を生きる

 直家のあとは、長男の利直が継ぎ、天文十三年(1544)長男友直に家督を譲ったが、友直が早逝したため、ふたたび大除城主となった。利直は、周敷郡剣山城主黒川通俊と結んで浮穴郡棚居城主枚岡房実の一党戒能通運を攻め、天文二十二年(1553)には平岡の支城拝志郷の花山城を攻めてこれを陥れた。この年、四男直昌に家督を譲り、天正八年(1580)七月死去した。
 直昌の相続に際しては一悶着があった。すなわち、庶腹の兄直秀が直昌の相続を不服として中国筋へ出奔したのはその一例である。いずれにしろ大野氏の家督は直昌が継いだ。直昌は「元来武勇の父祖に超え度々無双の誉を抽て、一族幕下四十余人、各掻上を所々に構え、之に居住す」といわれた。また『河野分限帳』によれば、大野直昌は湯築城主河野通直の家臣として「御一門三十二将」の一人であり、御家老衆五人の筆頭に位置している。このように大野氏が河野家から重要視されたことは直昌以前にはかつたなかったことで、父祖の功業を背景に土佐に備える要地を占め、武将としての直昌の声価が高まった結果であろう。
 直昌の武功については、『予陽河野家譜』に、永禄十一年(1568)正月、土佐一条氏が部将に手勢五百余騎を率いさせて久万山に打ち入った。これに対して直昌は自ら大除旗下の将兵二百を動員し、奮戦して一条勢を撃退した。元亀三年(1572)七月、中国の毛利氏幕下の軍が河野家に「いささかの宿意」をもって攻め寄せてきた。このとき、直昌は久万・小田両山の勢を率い、浮穴郡井門郷に打って出て、奮戦したと伝えられている。
 また同じ元亀三年九月、かねてより伊予侵攻の機会をうかがていた阿波の三好氏が織田信長に派兵を請うて、宇摩郡川之江城を攻め、ついで織田氏の兵船が風早浦、堀江浦を襲撃した。これに際し直昌は、土居清良らとともにこれを迎え撃って、敵を退けたというが事実のほどは定かではない。
 直昌の弟に直行がいた。直行は勇猛をもって聞こえ、地蔵ケ嶽城主宇都宮豊綱の婿となり、豊綱の死後は地蔵ケ嶽城主となっていた。かれは土佐の長宗我部氏に通じ、しばしば河野氏から追討を受けた。天正二年(1574)直行は長宗我部元親の率いる土佐勢を手引きして、兄直昌を伊予・土佐国境の笹ケ峠に誘いだし、一大決戦を行わせ、直昌配下の勇将七十余人が討死した。しかし、この戦いは疑問点が多く史実とは認め難いものであるようだ。しかし、この時点で大野氏にはその浮沈に関わる戦いがあったことは間違いないようで、これ以後直昌の名は河野氏の衰退のなかで顕われることはない。
 その後、河野通直は小早川隆景の伊予攻略に屈し、このとき大野氏も河野家とともに軍門に降った。そして、通直が安芸国竹原に移る際、わずか五十余人の譜代の家臣が随従した。そのなかに大野直昌の姿もあったという。


■参考略系図
・愛媛県史・久万町誌・広田村誌などに紹介された系図から作成。一説に下記のような系図もある。

大野忠直━繁直┳通繁
       ┗綱直━直家━━利直┳友直
          安芸朝直   ┣直澄━直範
                 ┣直之
                 ┗直昌


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