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伊丹氏
下り藤に加文字*
(藤原北家利仁流か?)
・「上り藤に加」の字とも。


 摂津国川辺郡伊丹城に拠った国人武士。その出自は、藤原利仁流加藤氏の後裔とされるが詳らかではない。
 伊丹氏としての初見は、正和四年(1315)六波羅の命で幕府使者となった伊丹三衛門三郎親盛がいる。こののち畠山国清についた左衛門四郎宗義、『太平記』の大和守があり、伊丹城に拠ったことが知られている。また、『新撰莵玖波集』に句をのせた伊丹兵庫元親・之親の二人は、細川氏の被官であった。

戦国期の伊丹氏

 文明ごろには、春日社領武庫荘などの代官をした伊丹親時がおり、これは伊丹兵庫の弟とみられる。『実隆公記』には文亀・永正のころ、伊丹大和守との交際が記されている。また、細川高国についた兵庫助のち大和守(元扶)と兵庫助(国扶)がおり、元扶・国扶の名が合戦記などで繁雑して登場している。そののち、細川晴元についた大和守親興、織田信長に服した伊丹兵庫頭忠親らの名がみえる。
 これら、さまざまな記録にあらわれる伊丹氏は、一族であることは間違いのないところだろうが、系図上の関係は不明である。
 戦国期の伊丹氏で有名なのはやはり親興だろう。親興は摂津国川辺郡伊丹荘を本拠とし、北摂の国衆として勢威を振るった。親興は親永の子とされ、大和守となり、天文年間細川晴元に属した。永禄年間になると三好政康ら三好三人衆の制圧下にあった。永禄十一年九月織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛すると、直ちに信長に呼応して三好氏を攻め、信長は北摂・西摂を抑えると、親興を和田惟政・池田勝正と並んで摂津の三守護とし、兵庫頭として伊丹に三万貫の所領を与えた。
 以来信長に属して各地を転戦した。天正元年ごろから将軍義昭と信長が不和になると親興も信長と対立し、翌二年十一月信長の命を受けた荒木村重に伊丹城を囲まれ、落城自刃した。

別流の伊丹氏

 伊丹氏で徳川旗本になった家がある。こちらも先の伊丹氏との関係は明確ではないが、藤原利仁流の加藤景廉の後裔としていることから同族であろう。兵庫頭景親が伊丹城に居城し、その地名をとって名字とし、代々伊丹城に拠ったと伝える。雅頼の子雅興に至って、細川高国の武将柳本弾正・高畠可軒らに伊丹城を攻められ、ついに討死してしまった。
 雅興の遺児康直はまだ幼く家臣の間野七郎に扶けられて伊勢国に逃れ、のち今川義元に仕え海賊奉行となった。今川氏没落後は武田信玄に仕え、船大将をつとめ、しばしば軍功をあらわした。その武田氏も没落し、康直は家康に招かれ、御船奉行として仕えた。
 摂津守護となった伊丹氏と徳川氏旗本となった伊丹氏が存在したことになるわけだが、それぞれの家系を明らかにすることは不可能である。いずれにしても、伊丹氏の真の歴史は断片的に残された古記録から推察するしかないのが実状だ。


■参考略系図  
  


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