武田氏
割 菱*
(清和源氏武田氏流)
・武田氏の代表紋を仮に掲載
|
|
戦国時代の因幡・伯耆の歴史はまことに分かり難い。そのよななかで、因幡守護山名氏の被官から身を起こし、下剋上で主家を衰退に追い込み、
鳥取城に拠って因幡一国を支配下に置くまでの勢力となった武田高信はまことに戦国武将らしい人物であった。
因幡武田氏は若狭武田信賢の庶流で因幡守護山名氏に客将として遇されたたというが、実際のところ出自に関しては不明というしかない。
『蔭涼軒目録』の延徳三年(1491)十一月六日の条に
「因幡守護山名豊時の使者」として武田左衛門大夫が登場する。当時、武田氏は因幡守護山名氏の重臣であり、
左衛門大夫は年代的に高信の祖父あたりに目される人物だが詳細は分からない。
因幡擾乱
因幡守護職は山名氏が相伝したが、応仁の乱ののち私部城主毛利氏の反乱、守護職をめぐる一族の内訌などが起こり
国内の動揺は深刻となった。大永のはじめ(1520年代)守護豊治が死去、豊治には嗣子がなかったため家中は紛糾したが、
甥の誠通が宗家にあたる但馬山名誠豊の支援を受けて守護職になった。ところが、伯耆を制圧した尼子氏の勢力が因幡に
およんでくると誠通は尼子氏に通じ、久通と名乗って宗家からの自立を目論んだ。その結果、久通は但馬山名氏と
対立関係となり、誠豊のあとを祐豊が継ぐと両山名氏の対立はさらに深まり、ついに但馬と因幡の国境で武力衝突を
起こす事態となった。天文十年(1541)、巨濃郡の岩井口における但馬勢との戦いを契機として抗争が繰り返されるようになった。
久通は本拠である布施天神山城の守りを固めるため、東方にある久松山に新たに城を築いて但馬勢の侵攻に備えた。
のちの鳥取城で、城番は中村・森下・武田氏らの重臣が輪番でつとめたが、整備も行き届かない新城でもあり重臣の
多くは好んで輪番に就こうとはしなかった。そのようななかで、鵯尾城主の武田豊後守がみずから進んで城番となり、
城郭の整備・充実に力をそそいでみずからの勢力を拡大していった。この豊後守こそ高信の父にあたる人物であった。
天文十七年、久通勢はは八頭郡の八上口に出兵して天神山城内が手薄になったところを、但馬山名勢が押し寄せてきた。
久通は残った城兵を指揮して但馬勢の攻撃を懸命に防いだが、ついに討死、天神山城下は兵火に焼亡してしまった。このとき、
天神山城の危機を知った因幡山名方の諸将が出陣して但馬勢を撃退したが、当主を失った因幡山名氏はにわかに存亡の
渕に立たされた。この兵乱を「申の年崩れ」と称されている。
戦死した久通には源七郎と弥七郎の男子があったが幼かったため、森下・中村・武田らの重臣は但馬山名氏に帰服する
ことに決定して祐豊に和議を申し入れた。承諾した祐豊は弟の豊定を布施天神山城に送って因幡守護代とし、国内の
統治と久通の遺児の撫育にあたらせた。さらに、巨濃郡にある二上城の城主として豊定の弟東楊蔵主を送り、三上兵庫頭豊範と
名乗らせた。こうして、因幡は但馬山名氏の麾下に属し、豊定が没したあとはその子豊数が継いで一応の秩序が
保たれたのであった。ところが、久通の遺児が成長してきたことで、因幡はふたたび争乱の時代を迎えることになる。
………
図版:因幡・伯耆守護山名氏略系図
武田高信の下剋上
豊後守のあとを継いで鳥取城番となった高信は、弟の又三郎を鵯尾城主とし、徳吉・秋里らの国人を味方に引き入れ、
さらに二上城主の三上兵庫頭とも通じて因幡東部に隠然たる勢力を築き上げつつあった。そして、永禄五年(1563)ごろには
山陰方面に勢力を伸張してきた毛利氏に通じて主家山名氏に対する対立姿勢を露わにした。
高信の勢力が強大化することを危惧した山名氏の重臣中村・森下氏らは、永禄六年、鳥取城に攻め寄せた。これを
迎え撃った高信は鳥取城から出撃、湯所合戦において中村伊豆守を討ち取る勝利をえた。この敗戦によって山名豊数の
権威は大きく失墜し、高信以外の私部城主毛利氏、八頭郡若桜城主矢部氏、智頭郡の用瀬氏らも自立の動きをみせ、
因幡は群雄割拠する情勢となった。
一方、伯耆に攻めこんだ尼子氏によって伯耆から没落した南条氏ら伯耆の諸将が、尼子氏を攻める毛利氏の支援で復帰、
毛利氏の影響が因幡にもおよんできた。毛利氏に通じて勢力を拡大する高信に対抗するため、山名豊数は因幡西方に位置する鹿野城に
源七郎を送り込んで勢力の回復につとめた。源七郎がよく因幡西方を治めることをみた高信は、謀略をもって源七郎を討ち取った。
ついで、山名方の釣山城を攻撃して布施天神山城にいる弥二郎をおびき出し、立見峠の戦いにおいて討ち取ってしまった。
ここに、久通の系は断絶となった。
さらに武田軍は天神山城を攻撃したため、山名豊数は鹿野城へ脱出した。これをみた毛利氏は高信を支援して
東伯耆の南条・山田氏らに鹿野城を攻撃させたことで、鹿野城は毛利方の手に落ち豊数は没落した。
その後、豊数の弟豊国が因幡山名氏を継いで高信と対抗するようになる。
ともあれ、山名氏を押さえて因幡一国の支配に乗り出した高信であったが、但馬山名氏の動向、因幡に割拠する国人領主たちの
向背もあって前途は多難であった。さらに、高信にとってもっとも強敵となったのが、美作矢筈城を本拠として
因幡の智頭郡一帯に勢力を有する草刈氏の存在であった。
草刈氏は尼子氏の美作侵攻にも頑強に抵抗して勢力を保った強豪で、毛利氏が台頭してくると麾下に加わり、
天文十一年の尼子攻めに際しては唐櫃城に出陣して尼子勢の動きを封じる活躍を示した。高信と草刈氏が
対立するようになったのは草刈氏の岩井郡への進出で、両者はその領有をめぐって対立の度を深めていったのである。
衡継のあとを継いだ景継はなかなかの人物で、将軍足利義昭に通じるなどして高信への攻勢を強めていた。
永禄九年、尼子氏を降した毛利元就は伯耆・因幡方面へと勢力を伸ばしてきた。ところが、尼子残党が
主家再興を図って挙兵、山名豊国と結んで毛利方の武田高信と対立、
尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙した。この事態に対処するため毛利氏は対立する
草刈景継と武田高信の仲裁に乗り出し、元亀三年(1572)内海兵庫助らを使者に遣わして和議が整った。
しかし、この和議は草刈氏が支配する因幡の八束・岩井郡のうち岩井郡を高信に譲り渡すというもので、
景継は渋々承知したものの毛利氏の取り扱いに対してはおおいに不満であった。のちに
景継は織田方の誘いに応じて毛利氏から離反する動きをみせ、毛利氏の
美作経営に少なからぬ問題を生じさせた。
武田氏の有為転変
毛利氏の扱いによって草刈氏の脅威から開放された高信は、山名氏に代わって因幡の最大勢力となった。
対する山名豊国は高信打倒の策略をめぐらし、高信の妹婿で但馬国阿勢井(芦屋)城主の塩冶肥前守を味方に引き入れ
ることに成功した、肥前守が豊国に通じたことを知った高信は、
ただちに阿勢井城を攻撃したが、逆に嫡男又太郎、その弟与十郎をはじめ一族、家臣の多くを失う敗北を喫した。
その傷も癒えないうちに、山中鹿之助を将とする尼子氏が因幡に侵攻して甑山城によえい勢力を周囲に及ぼすようになった。
天正元年(1573)八月、高信は甑山城を攻めたが敗れ鳥取城に逃げ帰ると籠城戦を指揮した。しかし、
尼子方の攻撃は激しく、二度の敗戦による士気の低下もあって、ついに城兵を落とすと鳥取城を明け渡して鵯尾城に退去した。
高信の威勢は一挙に失墜してしまい、鳥取城へは豊国が入城して因幡山名氏の新たな本拠とした。そして、
高信に対する攻勢を強めていった。高信は鵯尾城に籠って豊国と対立したが、ほどなく弟の又三郎が没し、
高信の劣勢は
日を追って深刻な状況となった。やがて豊国は謀計をもって高信を散岐の大義寺に呼び寄せ、寺を閉ざして殺害した。
『因幡民談記』によれば天正六年八月のことというが、尼子氏との戦いで討死したとするものもあり高信の最期に関しては明確ではない。
いずれにしろ、高信の野望を砕いて因幡の国主となった山名豊国が、動乱のなかで禍根を取り除いたものであろう。
高信の生涯を見ると、上杉氏を倒した越後の長尾為景、赤松氏にとって代わった播磨・美作の浦上宗景らに比されるところもなくはないが、
全体的に小粒な印象をあたえるものがある。
高信の死後、残った遺児源三郎は重臣西郷因幡守によって匿われ、のち南条元続に引き取られたという。のち、豊臣秀吉に拝謁して
鹿野城城番を命ぜられ、南条氏が吉川元春と戦った長和田・長瀬川の戦いに出陣した。ところが、
同じく鹿野城城番であった亀井茲矩と対立、鹿野城を退出して毛利秀包に召抱えられたという。さらに、慶長五年(1600)の
関が原の合戦ののち但馬国村岡藩主となった山名豊国に仕えて、子孫は村岡藩士として生きた。
山名氏の被官から身を起こし、主家に代わって因幡一国を牛耳った武田氏は、
紆余曲折のすえに納まるところに納まったといえそうだ。
・2011年02月12日
【参考資料:鳥取県史・山名豊国・日本城郭体系・守護/戦国大名事典 ほか】
■参考略系図
・詳細系図不詳、自治体史などの記述より作成。系図をご存知の方、ご教示ください。
|
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を訪ね登り、
戦国武士たちの生きた時代を体感する。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|