三上氏
釘 貫
(清和源氏義綱流か)
*見聞諸家紋の三上氏の紋より。 |
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中世、因幡国は山名氏が守護職に任じたが、戦国時代を迎えると守護領国体制も動揺をきたし、重臣武田氏の下剋上、国人領主の自立化によって群雄割拠状態を呈した。
そもそも山名氏にとっての因幡守護職は、足利尊氏に属して活躍した山名時氏がはじめて任じられた。
山名時氏は因幡国の西方に位置する巨濃郡の二上山に城を築き領国の支配にあたったという。二上山は山陰道、
網代港などを押さえる要衝に位置しており、二上山城は二上山上に主郭をおき、南北に出城を構えた広大な山城である。
時氏のあと氏冬が因幡守護職に任じられ、以後、山名氏一族が代々守護職を相伝した。
室町時代中ごろの文正元年(1466)、ときの因幡守護山名勝豊は、二上山城から高草郡布施に
天神山城を築いて移り住んだという。しかし、勝豊は因幡守護ではなかったという説が一般的で、
二上山城から天神山城への移転に関しては検討を要するようだ。実際、文正元年当時の因幡守護は
伯耆山名氏から出て因幡守護熙貴の養子となった豊氏で、豊氏は応仁の乱で宗家山名全に属して活躍したことが知られる。二上山城から天神山城に移ったのは豊之ということになるが、因幡山名氏の歴代の事績については不明点が多く確定はできない。
戦国時代、因幡山名氏は尼子勢力の伸長と、それに対抗する但馬山名氏との間で動揺した。やがて、
但馬山名氏の支援で誠通(のち久通)が因幡守護職に任じたが、誠通は尼子晴久に通じて但馬山名氏から離反した。
これに怒った但馬の山名祐豊は、天文十七年(1548)、天神山城を攻撃して誠通を討ち取ると因幡を制圧した。
祐豊は弟の豊定を布施天神山城に送って因幡守護代とし、国内の統治と久通の遺児の撫育にあたらせた。さらに、巨濃郡にある二上山城に豊定の弟東陽蔵主を送りこんで支配体制を強化した。
二上山城主となった東陽蔵主は、但馬出石にある宝鏡寺の住職であった人物で、二上山城主になると三上兵庫豊弘(一説に豊範)と名乗った。やがて、不便な山上にある二上山城は詰めの城として、新たに新井村に道竹城を築いて移り住んだ。その後、尼子氏の勢力が衰退して、永禄ごろには毛利元就の勢力が山陰地方に及んできた。因幡では鳥取城主の武田高信が毛利氏に通じて勢力を拡大し、三上兵庫も毛利氏に通じて守護山名豊数(豊定の子)と対立するようになった。永禄七年(1564)、豊数は道竹城を急襲、兵庫は敗れて討死、道竹城は陥落して三上氏は滅亡した。
………
図版:因幡・伯耆守護山名氏略系図
因幡三上氏の考察
三上兵庫の戦記は、『因幡民談記』など江戸時代の郷土誌に拠って流布されたものだが、その真偽のほどはいささか
怪しいものである。すなわち、山名氏から二上山城に送り込まれた東揚蔵主が山名ではなく三上を名乗ったことは、
当時における名字の名乗り方から考えて唐突感を抱かせる。
すでに存在していた三上氏を継承した、あるいは入った城が二上山城ではなく三上山城であったいうことなら納得できるのだが…。
さて、室町時代の史料などによれば巨濃郡岩井庄は、室町幕府奉公衆である三上氏と
吉見氏とが所領を有していたことが知られる。岩井庄の海側を
三上氏が領して新村道竹城に拠り、山側を延興寺に拠る吉見氏が領していた。『因幡民談記』の「古城部」には
巨濃郡の城主として三上兵庫、吉見宮内大輔・同兵部が記され「山名代」と注記してある。
巨濃郡は但馬に近いこともあって、三上氏、吉見氏らは但馬山名氏に通じていたのかも知れない。
岩井庄の三上氏は近江国三上郷から出た武家で、三上大祝胤盛の子で清和源氏賀茂二郎義綱の猶子になった盛実に始まるという。三上氏は近江守護に任じられた佐々木氏に仕え、御上神社周辺に館を構え、また佐々木氏の居城である観音寺山城にも曲輪を構えて重臣の一人になったという。そして、一族から足利将軍家の奉公衆に取り立てられる者も出て、「永享(1390〜)以来御番帳」には、五番に三上近江入道、三郎、美濃入道ら、御供衆に三上入道周通がみえ、「義政公東山へお移以後の御供衆」に三上兵庫助、「文安年中(1444〜1448)御番帳」にも三上近江入道、美濃入道、右京亮らがみえる。さらに、応仁の乱のころに成ったという「見聞諸家紋(東山殿御紋帳)」には五番三上と注記して「釘抜」紋が記載されている。
康安二年(1456)、三上周通が内裏造営の段銭十貫文を「因州岩井庄」から納入しており、
室町時代の中ごろには三上氏が岩井庄を所領としていたことが知られる。この周通は永享以来御番帳にみえる
三上入道周通と同一人物と思われる。ついで、文明十二年(1480)、「政所賦銘引付」に三上政実がみえ、
政実は将軍義尚が佐々木六角攻めの陣を起こしたとき、三上千代菊・弾正忠らとともに義尚にしたがって
近江に出陣した。このとき、近江の三上一族は佐々木六角氏に属しており一族が双方に分かれて戦った。
奉公衆として将軍に仕えた三上氏が、因幡国岩井庄に下向した正確な時期は分からない。ただ、奉公衆は
幕府直轄領である御料所の管理に任じ、あるいは在国して守護権力を牽制する楔の役もつとめた。
因幡国岩井庄は但馬山名氏と因幡山名氏の国境に位置しており、三上氏は御所に出仕するかたわら、
将軍の意を受けて所領に下向して両山名氏の動向を監察したものと思われる。おそらく、室町時代のはじめのころと思われ、延興寺城による吉見氏と連携していた可能性もある。
・右図 :
巨濃・二方城址分布図
あまりにも儚い三上氏の足跡
戦国時代、因幡では守護山名氏が尼子氏の勢力伸張と、それに対抗する本家の但馬山名氏の間に挟まれて
苦闘していた。大永七年(1527)、将軍足利義晴が因幡守護山名誠通(のち久通)と但馬守護山名祐豊の
和議を斡旋したとき、吉見氏・三上氏ら奉公衆の系譜を引く領主たちも何らかの役割を担ったものと思われる。
そのような状況下の天文七年(1538)、三上経実が守護山名誠通による岩井庄押領の停止と所領の保全を幕府に
求めている。しかし、経実の要求は叶わなかったようで、但馬守護山名祐豊への傾斜を強めるようになる。
一説によれば経実は但馬山名氏の代官であったといい、民談の古城部にみえる道竹城主三上兵庫に「山名代」とある
注記は三上氏が山名氏の下風に立っていたことを指したものかもしれない。
やがて、但馬山名祐豊と山名誠通が武力衝突を起こすようになると国境に位置する巨濃郡は戦場となり、天文十年(1541)、岩井口において大規模な戦いが行なわれた。経実が天文十年の道竹城の戦いで討死したというのは、この岩井口の戦に参戦したものであり、おそらく山名祐豊方として行動していたのではなかろうか。経実の死後、経実と親交のあった幕臣大館常興らの支援で伯耆山名氏から養子が入り、三上兵庫頭輝房となのって三上氏を継承した。
山名祐豊と山名誠通の抗争は、天文十七年、但馬山名勢の天神山城攻めによって誠通が討死したことで決着がつき、
祐豊は弟の豊定を因幡の守護として送り込んだ。このとき、出石宝鏡寺の住職をつとめるもう一人の弟東楊蔵主を
還俗させて二上山城主とし、東楊蔵主は三上庫頭豊範(豊弘とも)を名乗ったという話は冒頭に記したとおりである。
この東楊蔵主こと三上庫頭の話は、『因幡民談記』を著した小泉友賢が、わずかに残った経実と東揚の伝承、
さらに伯耆山名氏から養子が入ったことなどをもとに作り上げたフィクションであろうという説が受け入れられつつある。
おそらく、その通りであろうと思われ、輝房が継いだのちの三上氏の動向は史料上から知られなくなる。
近世に系が残っていないことから推して、羽柴秀吉の因幡攻めのときに滅亡したものと想像される。
・2011年02月12日
【参考資料:三上氏の風景・鳥取県史・日本城郭体系・守護/戦国大名事典 ほか】
■参考略系図
・初期の部分は「群書類従系図部集」「古代氏族系譜集成」より作成したが、室町期から戦国期の詳細系図不詳。系図をご存知の方、ご教示ください。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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