井伊氏
橘/細平井桁
(藤原氏冬嗣流) |
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井伊氏は江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』に「藤原氏良門流」とあり、藤原北家良門の三男利世に始まる
系図が収録されている。そして、利世五代の孫備中守共資が遠江国敷智郡村櫛に住し、その子共保が井伊谷に移り住んで
井伊氏を称したとある。さらに、共保の出生に関する奇瑞譚が記されている。
すなわち、寛弘七年(1010)、正月元旦、遠江国井伊谷八幡の神主が社頭に参ったとき、
瑞垣の側の御手洗井のところに、いま生まれたばかりのような男子を見つけた。その容貌は美しく晴れ晴れとした眼差し
に、ただの赤子ではないと思った神主は家に連れ帰ると我が子のようにして育てた。その子が七歳になったとき、
その存在を知った備中守共資が養子としてもらいうけ、成長ののちに娘と娶わせ共保と名乗らせた。
共保は器量人にすぐれ、武勇も絶倫で、たちまちのうちに一帯を打ち従えると出生の地である井伊谷に本拠を移した。
…というものである。また、共保出生のとき、井のかたわらに橘が一果あり、ゆえに橘をもって共保が産衣の紋とした。以後、井伊氏では橘を衣類の紋とするようになったのだという。
共保の出生に関する奇瑞譚は到底信じられるものではなく、おそらく備中守共資が井伊八幡の神主らと共謀して、
みずからの子に神秘性をもたせ、みずからの家の発展を画策したものであろう。あるいは、男子のなかった共保が橘姓の家から養子を迎え、不思議譚を創出して家系を飾ろうとしたのかも知れない。
出自を探る
さて、井伊氏の出自であるが、新井白石が著した『藩翰譜』では、「藤氏系図には、良門の子として
記載されているのは利基・高藤の二人のみで、利世の名は見えない」として、井伊氏の出自に関しては名言を避けている。
また、中世の系図書として比較的信憑性の高い『尊卑分脈』にも、良門の子に利世の名は記されていない。どうも、
井伊氏を藤原氏の後裔とするには、確たる根拠に欠けているというしかないようだ。
では、井伊氏はどのような出自を有する武家なのだろうか。宝賀寿男氏が編纂された『古代氏族系譜集成』に収録された三国真人系図のなかに、井伊氏の祖にあたる共資・共保
父子の名がみえている。三国真人は継体天皇の子で三国に残った椀子王を祖とする氏族で、越前の坂井郡を本拠地として
勢力があった。一方、さきの『藩翰譜』に「井伊介は武智麿の後遠江権守為憲が末葉にて、工藤・伊藤などと同じ流にて、
南家の藤氏なり」とあり、『古代氏族系譜集成』に藤原為憲を祖とする「井伊氏略系」が紹介されている。
いずれが真を伝えたものか、にわかには特定できないが、『保元物語』には「井八郎」という武士が後三年の役のとき
源義朝に従軍して出陣したことが記されている。「井八郎」は遠江国の武士で、井伊氏の祖と思われる。
「井伊」は「井」を「イー」と発音していたものが転じた結果と思われ、井伊氏が井伊谷を本拠とする武士として
平安時代には相当の勢力を有していたことは間違いない。さらに、井伊氏は鎌倉から南北朝時代「井伊介」あるいは
「井介」とよばれていたことが当時の記録から知られる。
「介」とは国司の次官であり、国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多かった。在庁官人は地方の豪族から出仕するものが多かったが、中央から赴任してきた役人が土着=在庁官人化するケースも少なくなかった。井伊氏の共保伝説は、中央の役人が地方豪族と縁を結んだことを示したものだったのかも知れない。
他方、安芸国賀茂郡高屋保に拠った国人領主平賀氏が、井伊氏と同じく藤原利世を祖とする系図を有している。
共保の子共宗から七代の孫松葉資宗が源頼朝に仕えて出羽国平賀郡を賜り、子孫は平賀を名乗り、元寇に際して安芸の
所領に下ったというのだ。『古代氏族系譜集成』の三国真人系図にも井伊氏と松葉氏とは同族としてみえ、
両家は三国真人の流れを引いた武家とすることの方が違和感がないように思われる。
ところで、秋田城介、三浦介、千葉介、上総介、狩野介、富樫介、大内介、そして井伊介を「八介」とよびならわされていた。
秋田城介・上総介は正式職名だが、それ以外は武士が言い習わした通称であった。三浦・千葉・富樫など錚々たる
地方豪族であり、井伊介を称する井伊氏は出自のことはともかくとして遠江国における有力在地領主だったのである。
井伊谷を本拠とした井伊氏は、井伊谷城を常の居館にして、詰めの城として三岳城を築いたようだ。そして、
井伊氏を惣領家として多くの庶子家を分出している。盛直の子からは赤佐氏、貫名氏が出たが、赤佐氏からは井伊家を
凌ぐ勢いを見せた奥山氏が分かれ、貫名氏からは日蓮宗の宗祖となった日蓮が出ている。弥直の子からは田中・伊平・
谷津・石岡氏、さらに田中氏からは田沢・松田氏らが分出した。これらの庶子家の名字を地図上においてみれば、
浜名湖の東方一帯が井伊氏の勢力範囲であったことが浮かび上がってくる。
南北朝の争乱
後醍醐天皇の画策による元弘の乱で鎌倉幕府が滅亡、建武の新政が開始されたが、足利尊氏の謀反によって世のなかは南北朝時代となった。井伊氏は南朝方に属したようで、建武四年(1337)、井伊一族は三方ヶ原において今川範国と戦ったことが知られる。
井伊氏の所領とその周辺には南朝方(大覚寺統)の荘園・御厨が集中していたことが、井伊氏を南朝方に走らせた要因であったと考えられる。さらに遠江の荘園の存在に着目した後醍醐天皇は、そこに南朝方の拠点を作ろうとして皇子の一人を派遣した。そうして遠江に入部してきたのが宗良親王で、井伊氏は居城三岳に親王を迎え入れたのである。当時の井伊介は道政というのが通説だが、現在では後世の南朝史観によって創り出された人物で、井伊行直ではなかったかとする説が受け入れられつつあるようだ。
さて、宗良親王を迎えた井伊氏は、三岳城を修築し、支城群を整備して、北朝方の今川氏の攻撃に備えた。暦応二年(1339)、高氏、仁木氏らの軍勢が井伊谷に押し寄せてきた。支城群は次々と陥落し、ついに三岳城が攻撃にさらされた。井伊勢はよく戦ったが、翌三年の正月、宗良親王は三岳城を逃れて大平城に入り、そこも支えきれず信濃へと奔ったのであった。
その間、道政の娘が親王に仕えて尹良親王が生まれた。尹良親王は長じて南朝再起のために戦ったが、信濃の浪合に
おいて討死したという。いまも、遠江・信濃・三河の国境あたりで「ユキヨシ(尹良)様信仰」がさかんに行われて
いるが、尹良親王の存在はそのものが伝説的であり、道政のことも後世の創作と思われるだけに史実としては受け入れられないものであろう。
宗良親王が信濃に居を移されたのちの井伊氏は、北朝方に帰服する者、南朝に節を通す者に分かれたようだ。
応安三年(1370)、九州探題に任じられた今川了俊は遠江の武士を引き連れて任地へ赴いた。その軍勢のなかには
「遠江・駿河の人々、横地・勝間田・奥山・井伊・早田・河田」とみえ、井伊氏惣領家と庶子家の奥山・早田氏らが
従軍していたことが知られる。それ以前の貞治六年(1367)に、了俊が井伊奥山直朝に宛てた文書も残っている。
南北朝時代のなかごろには、井伊氏一族の主だった家は武家方に属するようになっていたようだ。
ところで、当時の文書には彦根藩主井伊氏に繋がる井伊谷井伊氏とは別に、渋川村を本拠とした渋川井伊氏が存在していた。寺院の造営や仏像の制作などから相当の力を持っていたことがうかがえ、可能性として井伊谷井伊氏に代わって惣領家であったようにも思われる。この渋川井伊氏は遠江守護職をめぐる斯波氏と今川氏の戦いに際して斯波氏に味方したため、今川氏が遠江守護職になったのちは甲斐に移住していった。その結果、井伊谷の井伊氏が押しも押されもせぬ井伊氏の惣領家となったのである。
定めなき乱世
応仁元年(1467)、京で応仁の乱が勃発した。乱は十余年にわたって続き、その余波は日本全国に広がっていった。世の中は下剋上の横行する戦国時代へと推移したのである。応仁の乱当時の遠江守護職は幕府管領家の斯波氏であった。応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』を見ると、井伊氏も取り上げられて筆勢の豊かな「井の字」の紋が掲載されている。おそらく守護斯波氏に従って上洛したときのものであろう。
遠江守護職をめぐって斯波義達と今川氏親が争うようになると、井伊氏は斯波氏に属して今川氏と戦った。永正七年
(1510)、三岳城は今川軍の攻撃にさらされた。井伊氏は引馬城の大河内氏と結んで抗戦、戦いは三年以上にわたって
続いたが、永正十年三月、三岳城は今川軍の総攻撃によって陥落し井伊氏は没落した。井伊氏が落去した
のちの三岳城は、今川氏の属城となり三河国作手の奥平貞昌が城番として入った。
今川氏に抗戦して敗れた井伊氏は直平とされているが、直平はそののちも今川氏の家臣としてみえている。降伏して
許されたとも考えられるが、引佐町史では先の渋川系井伊氏が三岳城に籠っていたものであろうと推測されている。
おそらく、その通りであろうと思われる。
ところで、井伊直平には『井伊直平公一代記』という史料があり、それによれば直平は家老の飯尾氏によって
毒殺されたことになっている。しかし、一代記の内容は誤謬が多く、史実としては受け入れられないものである。
直平の墓碑によれば、永禄六年(1563)、今川氏真の命を受けて八城山の天野氏を攻めたが、
その最中に陣没したとあり、それが事実であろうと思われる。直平は享年八十五歳という高齢で、系図によれば
男子五人、女子一人がいたことが知られる。直平のあとは嫡男の直宗が継いだが、直宗は天文十一年(1542)の田原の戦いで討死してしまった。その没年に関しては異説もあるが、父直平に先立って世を去ったことは間違いないことであった。
直宗の子直盛は若年だったため、二男の直満が家督を継承する運びとなった。ところが、それを不服とした直盛の
家臣小野和泉守が今川義元に直満・直義兄弟が謀反の計画をたくらんでいると讒言した。これを信じた義元は、兄弟を
駿府に呼びつけると殺害してしまった。乱暴な話であるが、『井伊家伝記』には井伊氏が甲斐武田氏に誼を通じようと
したことが発覚して義元に成敗されたとある。井伊氏の領地は三河との国境にあり、常に今川軍の先鋒として大きな
犠牲を強いら続けていた。武田氏通謀のことはともかくとしても、直満・直義兄弟が今川氏から離れる道を模索していた可能性はある。ともあれ、直宗、直満・直義の子らを失った直平は孫の直盛を後見して井伊氏の家政を総攬したのである。
………
・見聞諸家紋の「井の字」紋
時代に翻弄される
駿河・遠江に加えて三河を領国化した今川義元は、永禄三年(1560)、尾張に向けて出陣した。その先鋒を承ったのは井伊直盛であった。今川軍は着々と尾張に兵を進め、五月十九日、桶狭間山で休憩をとった。直盛もその近くに兵を休め、義元の警固につとめた。突然、予想もしなかった織田信長の兵があらわれ、義元は討ち取られ、先手にあった直盛も配下の兵たちとともにあえなく討ち取られてしまった。今川軍は総崩れとなり、思い思いに戦場から退却していった。直盛のあとは養子に迎えられていた直満の子直親が継ぐことになった。
義元のあとを継いだ氏真は凡庸な人物で、弱肉強食の乱世を乗り切る器量は持ち合わせていなかった。まず、三河の
松平元康が自立の動きを示し、ついには今川氏と絶交して織田信長と結んでしまった。元康の事件は三河に近い
井伊谷の井伊直盛、引馬の飯尾連龍らを動揺させた。さらには、今川家氏真を疑心暗鬼とし、「遠州?(そう)劇」と
よばれる一大騒乱をもたらした。
そのようなおり、井伊氏の重臣小野但馬守が駿府の氏真のもとに行って、直親は松平元康と結んで謀反を起こそうと
していると讒言した。聞いた氏真はただちに井伊谷を攻めようとしたが、まずは真偽を確かめるべきだとの意見もあって、
直親を駿府に呼びつけた。ところが、駿府に向かう直親一行が掛川城下に入ると、朝比奈泰朝が井伊氏一行を取り囲み、
あろうことか直親らを殺害してしまった。老年の直平にすれば息子や孫らがつぎつぎと戦死、
あるいは不慮の死を遂げるところを見ることになってしまった。まことに井伊氏は不幸の連続であった。
井伊直親が殺されたあと、嫡男の虎松(のちの直政)はわずか二歳の幼児であったが、氏真は万千代も殺害しようとした。
それを匿ったのは直親の同僚で井伊氏と縁戚でもあった新野左馬助であった。しかし、左馬助は永禄七年の引馬城攻めで
戦死したため龍潭寺に入ったが、井伊氏の獅子身中の虫ともいうべき小野但馬守の追求は執念深く、さらに三河の
鳳来寺に入ったという。しかし、そこも安全ではなくなり、万千代の母は松下源太郎に再嫁し万千代はその養子に
おさまったのであった。
直親の嫡男虎松が身を隠してしまったため、井伊氏の家督を継いだのは井伊直盛の子次郎法師であった。
次郎法師とはいうものの、実は娘で虎松には叔母にあたる女性であった。次郎法師は、のちに直虎を名乗り
女性国人領主として多難続きの井伊氏をよく切り盛りした。
井伊直政の登場
不遇をかこつ虎松が徳川家康に見出されたのは、天正三年、十五歳のときのことであった。鷹狩の途中で姿貌いやしからぬ虎松に目をとめた家康が、その生い立ちを聞いて召しだしたというが、『井伊家伝記』には松下源太郎が世話をして家康に謁見、御意にかなって仕えるようになったとある。そして、虎松は万千代と改め、翌四年、家康が武田勝頼軍と戦った遠江芝原の合戦に初陣を飾った。
以後、井伊万千代は本多忠勝、榊原康政らとともに徳川軍の先陣をつとめ、天正十年、元服して直政を名乗った。天正十年といえば、織田信長が甲斐武田氏を滅ぼした年で、武田氏の遺臣たちは家康に起請文を出して従属することを誓った。そして、その一部の者が井伊直政に付けられ、有名な井伊の「赤備え」が誕生するのである。また、この年、女性国人領主として井伊氏を守ってきた直虎が亡くなったが、彼女は虎松が家康に召しだされたとき衣装を誂えてその門出を祝っている。
井伊直政を名乗ったのちは、「井伊の赤備え」を従えて、天正十二年の小牧・長久手の戦で秀吉軍をひるませ
「赤鬼」の異名を残した。驚かされるのはそのスピード出世で、先輩の忠勝に先立って修理大夫に任じられ、
天正十八年に家康が関東に移封されると上野国箕輪十二万石を与えられた。十二万石という数字は、当時の家康家臣団のなかで最高の石高であった。
この直政の出世ぶりを評して「家康の寵童」であった、元服が遅かったのもそれがあったからだとする説がある。一方、先に紹介した『井伊直平一代記』にみえる「直平娘は築山御前と申候」とある一節に着目して、家康と井伊氏は築山御前を介して姻戚関係であり、信長の命で不本意にも生害させてしまった信康と従兄弟になる直政を取り立てたのだとする新説も出ている。直政の異常な出世に対して家康家臣団から不満の声が出ていないのも、家臣は信康と直政のことを理解していたからだというのだ。魅力的な説だが、実際のところは不詳というしかない。いずれにしろ、直政の出世の背景には彼自身が具えた抜群の器量、武勇があったことはいうまでもないだろう。
………
・井伊直政肖像 (東京大学史料編纂所所蔵肖像画模本DBより)
乱世を生き抜く
関ヶ原合戦後、石田三成のいた近江佐和山十八万石に加封され徳川譜代筆頭の大名となった。
その後、上野佐野・武蔵世田谷などを増封され、併せて三十万石の身代となったが、
慶長七年(1602)、佐和山において没した。享年四十二歳、関ヶ原で受けた鉄砲傷が原因だったという。
なお、兄の直勝は、旧縁の高崎に近い安中において三万石を領し、井伊家は宗支入れ替えの格好となった。
幕末に出た直弼はなかなかの傑物で、幕末の難しい時代に大老となり混迷する政局にあたった。
しかし、多くの志士たちを死においやった安政の大獄を起こし、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。
井伊氏が代々居城した近江彦根城は国宝に指定され、数少ない戦国時代の名残をとどめた城として有名なものだ。
最近ではユルキャラの奔りとして人気者の「ヒコニャン」でも注目を集めている。
・2010年07月23日
内濠の鉢巻と腰巻石垣 ・天秤櫓 ・井伊氏の旗印 ・太鼓門櫓
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彦根城天守閣 ・踊るヒコニャン ・天守から佐和山城址を見る ・土塁と石垣
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●橘紋の意匠の違い
・一般的な橘紋 ・『大名家の家紋(高橋賢一著)』に記載された井伊家の橘紋
【参考資料:引佐町史・浜北市史・静岡県史・寛政重修諸家譜・姓氏家系大辞典 など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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