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伊庭氏
●四つ目結/三つ盛洲浜*
●宇多源氏佐々木氏族
・『見聞諸家紋』にみえる伊庭氏の紋。
 


 伊庭氏は近江源氏佐々木氏の一族で、建久年間(1189〜98)、観音寺城主佐々木行実の四男高実が、伊庭の地を領して居館を築いたことに始まる。JR能登川駅の近傍地である伊庭は能登川、安楽寺、須田とともに伊庭荘の地であった。伊庭荘は元皇室の御領で、保元元年(1156)崇徳上皇が源為義を召して伊庭荘を賜ったことが『平家物語』にみえている。
 伊庭の地は近江佐々木氏の居城観音寺城のあった轍山の北側に広がる田園地帯で、中世においては伊庭集落西端にある金毘羅神社のあたりまで、琵琶湖の内海が迫っていた。伊庭の地は、琵琶湖海運の拠点のひとつとして機能し、おおいに賑わったことは疑いない。そのことは、中世において伊庭の地が「伊庭」千軒と称されていたことからもうかがわれる。
 現在、内海は第二次大戦後に始まった干拓によって埋め立てられ、大中の湖干拓地と呼ばれる広大な農地に変身した。そこには、かつて水をたたえていた内海の風情を偲ぶすべはないが、伊庭の集落内を縦横に走る川や水路が「水郷」の趣をいまに伝えている。
伊庭内湖のサイト

伊庭氏の登場

 養和元年(1181)、源氏の軍勢に参加した伊庭家忠・重親なる名があらわれるが、伊庭氏系譜上における位置付けは不明である。鎌倉時代の伊庭氏は伊庭を本拠として、目加田氏・小倉氏ら近江の諸武士と並び伊庭郷の領主として自立した存在であった。やがて、元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅び、建武の新政を経て南北朝の動乱期を迎えると、伊庭氏は佐々木六角氏頼に属して活躍するようになる。そして、近江守護代に任じられ、佐々木六角氏の重臣として進退するとともに、伊庭内湖や琵琶湖の湖上権を背景とした経済基盤により勢力を拡大していったのである。
 ところで、伊庭氏のはじめについて『源行真申詞書』という文書がある。鳥羽院政期の永治二年(1142)京都で新六郎友員という武者が殺され、友員の伯父源行真が容疑者として取り調べを受けたときの陳述書である。友員は崇徳院の御願寺成勝寺領伊庭庄下司であり、行真は友員と敵対関係にあったことから司直の取り調べを受けたのであった。そして、その背景には新院崇徳院派と本院鳥羽院派の対立があった。
 行真は鳥羽院派であり、一族間で内部抗争があり、友員一族は没落した。その結果、三男宗真(実高→高実)が伊庭権守を称して伊庭庄下司職を獲得したようだ。平安時代、開発領主とよばれた武士たちは、自らが開発した荘園を院や摂関家に寄進し、官位を獲得するとともに自己の権益を維持したのである。佐々木一族の友員、行実(行真)らもそれぞれ自らが開発した土地を院に寄進して、立場の強化に努めた。そして、内訌のすえに行実(行真)一族が生き残ったのである。
 ちなみに勝者である行実(行真)一族は、『尊卑分脈』や『沙々貴神社所蔵佐々木系図』などにみえる人物と比定することができる。しかし、敗れた友員一族の系譜はようとして知ることはできない。このことは、系図成立の背景にある「何事か」に対して一つの示唆を与えてくれるものといえよう。
・『源行真申詞書』の部分は、佐々木哲学校さんのサイトを参考にさせていただきました。

近江守護佐々木氏

 そもそも、近江国は鎌倉時代はじめより佐々木氏が守護職をつとめ、一族が国内に繁衍した。鎌倉時代末期、後醍醐天皇による正中の変(1324)、元弘の変(1331)が相次ぎ、元弘三年、鎌倉幕府は瓦解した。天皇親政による建武の新政が開始されたが、その政治は倒幕に活躍した武士たちの失望を招き、武士たちの輿望をになった足利尊氏の謀反によって新政もあえなく崩壊、以後、半世紀にわたる南北朝の動乱が続くことになるのである。
 足利尊氏が開いた室町幕府の重臣として活躍したのが、佐々木京極高氏(道誉)で、その勢力は宗家である佐々木六角氏を凌ぐものがあった。そして建武五年(1338)、道誉が近江守護職に任じられたのである。これに対して、佐々木六角氏らの抵抗があり、道誉の守護職在任は半年間で終わり、六角氏頼がふたたび近江守護職に任じられた。やがて、観応の擾乱が勃発すると、政治情勢は混乱を極め、進退に窮した氏頼は突如出家すると高野山に上ってしまった。
 六角氏は幼い千寿丸を当主に戴き、氏頼の弟山内定詮が後見人となって擾乱に翻弄される六角氏の舵取りをした。擾乱は直義の死によって終息、出家していた氏頼が還俗して六角氏の当主となり、近江守護職に復帰した。以後、佐々木六角氏は安泰の時代を迎えた。しかし、嫡男の義信(千寿丸)が早世、京極氏より高秀の子高詮が養子に迎えられた。ところが、氏頼に男子(亀寿丸)が生まれたことで、にわかに波乱含みとなった。そのようななか、氏頼が死去、後継者問題が生じた。
 当時、幕府内部では細川氏と斯波氏の間で権力闘争が行われており、それは六角氏の家督争いにも影響、結局、高詮は実家に戻され亀寿丸(満高)が家督を継承した。しかし、満高は将軍足利義満の守護抑圧政策によって、領内統治は思うように行えず、ついに応永十七年(1410)には守護職を解任されるという憂き目を味わった。
 その後、満高は近江守護職に再任され、家督は満綱が継承した。満綱は領国支配を強化し、山門領・寺社本所領を蚕食していった。しかし、満綱の強引な所領侵略は嘉吉の土一揆の蜂起を招き、京から近江に落去という結果となった。そして、近江守護職も解任されてしまったのである。
【佐々木六角氏の四つ目結紋】

佐々木六角氏の内訌

 満綱の引退後、家督は嫡男持綱が継いだが、文安元年(1444)、持綱の弟時綱を担ぐ被官らの持綱排斥運動が起こった。父満綱の支援を得た持綱は、持綱と被官らと戦ったが敗れて父とともに自害した。この六角氏の内紛に対して幕府は、相国寺の僧になっていた時綱の弟久頼を還俗させて六角家の家督を継がせるという挙に出た。兵力を持たない久頼は京極持清に助けられて近江に入り、時綱を自害に追い込み六角氏の家督を継承したのであった。
 一連の六角氏の内紛は、一族を失っただけではなく、被官との関係も破綻をきたし、さらには京極氏の内政介入を招く結果となったのである。このように、文安年間(1444〜48)の内紛を鎮圧した六角久頼であったが、その前途には多くの課題が山積していた。まず、久頼が解決すべき課題は、乱れた領国支配体制を建て直すため、分裂した被官人をまとめあげることであった。
 久頼は被官人をまとめあげるため、伊庭満隆の協力を求め、以前は書下によって在地に直接下されていた守護の命令を、満隆を通さなければ効力を持たないという命令形態に改めた。しかし、これが伊庭氏の台頭を促す結果となるのである。他方で久頼は京極家の介入を排除するために苦闘したが、京極氏をおさえることはできず、ついに康正二年(1456)、久頼は自害してしまった。あとには幼い嫡男亀寿丸が残され、山内政綱が後見人に任じられ亀寿丸は無事近江守護職に補された。ところが、長禄二年(1458)、亀寿丸は突然近江守護職を解任され、文安の内紛で自害した時綱の子政尭が六角家の当主に就いた。
 このように六角氏が当主問題で揺れている間、伊庭満隆は守護代として六角氏の諸政に尽力していたようだ。室町時代、守護は京にあって将軍に奉仕し、代わって守護代が国元の政治をみるという体制が一般的であった。その結果、守護代の権勢が強まり、ついには守護を追って戦国大名に飛躍するという例がみられるようになるのである。
 六角氏の当主となった政尭は、長禄四年、守護代伊庭満隆の子を殺害するという事件を起こす。近江国内で実権を握る伊庭氏の力を削ごうとしたのであろう。しかし、守護代は将軍に任じられた職であり、政尭は将軍足利義政の勘気を蒙り、京都大原にて剃髪し出奔してしまった。これにより、亀寿丸がふたたび六角家の家督を継ぐことになり行高(高頼)と名乗った。

伊庭氏の乱

 やがて、将軍家の後継問題に端を発して応仁の乱が勃発すると、六角氏は西軍に属し、東軍の京極氏と抗争を繰り返した。そして、乱が終わるころになると、高頼は近江における覇権を確固たるものにしたのである。そして、寺社本所領を蚕食、さらには将軍直属の奉公衆の所領まで侵略して、勢力を着々と拡大していった。 これに対して、幕府将軍足利義尚は六角氏討伐を決し、長享元年(1487)、義尚率いる六角討伐軍が発せられたのである。六角家では当主高頼のもと山内・伊庭の両氏が家臣団を統率して難局にあたったが、第二次六角征伐で山内政綱が戦死してからは伊庭氏に権力が集中することになった。その結果、伊庭貞隆は高頼に匹敵する権勢を有した危険な存在となったのである。
 文亀二年(1502)十月、第一次伊庭の乱が勃発する。「伊庭連々不義の子細共候間」として高頼が貞隆の排除を決行したのである。戦闘に敗れ湖西に脱出した貞隆であったが、幕府との強いつながりを持つ貞隆は管領細川政元の後援を得て反撃に転じ形勢は逆転する。青地城・馬淵城・永原城と次々に落とされた高頼は、観音寺城を捨てて蒲生貞秀の音羽城に落ち延びることになる。
 永正四年(1507)管領細川政元が暗殺され、中央政局が大きく混乱する。これにより政元の後継者争いが起こり、その混乱をついて永正五年には以前政元に追放された前将軍足利義材が大内氏の援護を受けて上洛、将軍職に返り咲いた。逆に庇護者を失った足利義澄は近江に落ち延びることになる。この義澄を保護したのが伊庭貞隆であった。この政変により義材派である高頼と義澄を保護する貞隆の対立が再燃することになった。永正八年(1511)に岡山城で義澄が死没すると、翌月には貞隆の家臣岡山城主九里備前守が高頼に討たれた。そして、永正十一年(1514)二月、第二次伊庭の乱が始まったのである。
 伊庭貞隆・貞説父子は湖北に出奔すると、江北の有力大名にのしあがっていた浅井亮政の支援を受けた。これにより戦乱は長期化し、実に足掛け六年にも及んだ。しかし貞隆には第一次反乱のように細川氏の援護はなく、ついに永正十七年(1520)八月、岡山城が陥落して内乱は終結した。『近畿内兵乱記』によれば、永正十一年二月伊庭貞説父子没落とある。いずれにしろ、伊庭氏宗家は没落の運命となったのである。

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伊庭氏興亡の地を歩く





伊庭城は、建久年間、観音寺城主佐々木行実の四男高実が築いたことに始まる。高実の子孫は伊庭氏を称して勢力を築き、伊庭の乱で滅ぶまでこの地に割拠した。環濠が残る伊庭の集落を歩くと伊庭氏の菩提寺であったという大徳寺、大浜神社、金毘羅神社などが散在している。往時、金毘羅神社のところが琵琶湖との境目であったといい、いまも、金毘羅神社のすぐ先が琵琶湖との水際となっている。伊庭氏の勢力拡大の背景には琵琶湖水運を握ったことがあったといわれるが、そのことは伊庭集落を歩くとよく理解できる。



その後の伊庭氏

 江戸時代、幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』に伊庭氏二家が記されている。一つは儒者として幕府に仕え食禄五百俵を給された伊庭氏、もう一つは御徒として召されのちに御勘定役となった伊庭氏である。いずれも、中世の伊庭氏との系譜関係は不明であり、六角氏に抗した伊庭氏の権勢にはほど遠い存在であった。
 一方、戦国時代の末に蒲生郡桐原郷に身をよせ、伯太藩渡辺氏に仕えた伊庭家がある。渡辺吉綱に仕えた伊庭氏は、江州における伯太藩の飛び地(西宿、虫生、峰前、竹村等五ヵ村三千石)を支配する代官に挙げられ、代々、代官職を世襲した。その家系しに生まれた伊庭貞剛は、住友財閥の基礎を築いた人物として有名である。・2008年3月20日

参考資料:神埼郡志/蒲生郡誌/能登川町史/八日市市史 ほか】

■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』の編者である宝賀寿男氏から送付いただいた「伊庭氏系図(二本)」から作成。宝賀氏によれば、伊庭貞剛の家の系図という。伊庭の乱の当事者である貞隆・貞説父子をはじめ、記録にあらわれる人物こそ見えないが、貴重な資料であることは間違いない。  


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