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北原氏
●尻合せ三つ雁*
●伴氏肝付氏庶流
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戦国時代、日向国真幸院を中心に一大勢力を築いた北原氏は肝付氏の庶流である。肝付氏は冷泉天皇の代の安和元年(968)に河内守伴兼行が薩摩掾に任じられ、翌二年薩摩国に下向し、鹿児島郡神食村に居住したことに始まるという。
北原氏が拠った日向真幸院は、平安時代より鎌倉時代末期まで日下部氏が統治していた。日下部氏は日向国一宮都満神社の宮司を兼任し、郡司などの要職をつとめて日向国の豪族に成長し勢力を誇った。そして、永暦元年(1160)に日下部氏の一族重貞が真幸院司に就任したのだという。日下部氏は鎌倉時代を通じて、北条氏と深い関係を持ったことから、元弘三年(1331)の鎌倉幕府の滅亡とともに没落の運命となった。
日下部氏が没落したあとの真幸院には、肝付氏の一族で三俣院高城に拠る肝付兼重の勢力が伸張し、真幸院は肝付氏が支配するところとなった。肝付兼重は伊東祐広とともに南朝方の中心人物であったため、北朝方勢力との抗争が続いた。建武三年(1336)、真幸院には武家方の相良氏が攻め入り、肝付方の諸城が後略された。さらに、暦応二年(1339)になると、武家方の大将畠山直顕の軍が兼重の拠る高城を総攻撃し、ついに高城は陥落して兼重は肝付氏の本城である大隅肝属郡高山城に敗退した。
肝属兼重が敗走したあとの真幸院、三俣院は畠山直顕の支配下に置かれ、日向の諸将士は畠山氏に帰順した。康永二年(1343)日向守護に補任された畠山直顕は、真幸院にある細川氏領百町を守護領として押領した。これに対して、細川氏領を管理している吉田郷の坂周覚が抵抗を示したため、直顕は土持宣栄を大将に坂一族を攻撃した。これが吉田合戦と呼ばれる戦いで、坂一族は没落し、坂周覚が地頭代として管理していた真幸院のうち六分の一は直顕に従った北原兼命に与えられた。これがきっかけとなって、北原氏の勢力が真幸院に入部することになるのである。
二人の北原兼幸
ところで、北原氏の出自については前述のように伴氏の後裔とされている。そして、肝付氏の系図によれば、伴兼行の曾孫にあたる肝付新大夫兼俊の子兼幸が肝属郡串良院に入って北原氏を称したとみえている。すなわち、兼幸は長寛二年(1164)に串良院の弁済使に就任し、串良郷の木田原(北原)に城を築いて串良院北原氏の初代になったというのである。一方、北原兼命が畠山直顕から真幸院のうち六分の一を与えられてのち、康永四年(1345)に北原兼幸が真幸院司初代として飯野城に入部するのである。
串良院初代の北原兼幸、真幸院司初代北原兼幸はともに同姓同名ながら、二人の生きた時代には百八十年余の隔たりがあり、同一人物とは思われない。『東串良郷土誌』に北原氏の出自が考察されているが、それによれば、真幸院北原氏の初代となった兼幸は安楽兼貞の子兼幸で、救仁郷兼持の子で北原を称した兼延の養子になった人物となっている。救仁郷兼延には「号北原、右馬頭」とあり、さらに別系図には「為安楽兼貞二男婿取』とあることから、兼延の婿として安楽兼幸が迎えられたとみていいだろう。
さきに真幸院のうち六分の一を与えられた兼命は「かねのぶ」とよみ、兼延と同一人物と思われる。兼延は肝付氏の一族ながら肝付兼重には従わず、畠山直顕に属して真幸院司に抜擢され、飯野城に居城して日向真幸院北原氏の基礎を築くことができたのである。
以後、逐次勢力を拡大し、範兼の庶子は馬関田に進出し、戦国期に至った貴兼の代より兼守の時代の初めには、真幸院五ケ郷はもとより、東は高原・高崎・山田・志和池・西岳・財部辺まで、西は吉松・栗野・横川・踊・日当山辺まで領有し、島津・伊東・土持の三大豪族につぐ日向の大勢力に成長したのである。さらに、北原氏は伊東氏と婚姻を重ね、範兼、貴兼の室は伊東の女であり、兼守の室も伊東義祐の二女であった。
三州の動乱
明徳三年(1392)、南北朝の動乱が終息すると、鎮西探題として辣腕を振るった今川了俊が解任され、了俊と対立関係にあった島津氏に内紛が生じた。すなわち、それまで一致して了俊にあたっていた総州家(伊久)と奥州家(元久)の間に、主導権をめぐる対立、抗争が起ったのである。この島津氏の内紛に日向・大隅・薩摩の三州の諸豪族がそれぞれの思惑で加担したため、三州では戦いが繰り返されるようになった。
事態は奥州家が日向・薩摩・大隅守護に任じられたことで一段落したが、今度は奥州家の家督となった久豊と伊集院頼久の対立が起り、頼久に総州家久世が加担した。久豊は久世を討ち、久世の子久林は居城を脱出して真幸院の北原氏を頼った。北原氏は久林を徳満城に匿ったが、これを察知した奥州家は徳満城を攻撃、敗れた久林は自害して総州家は滅亡した。
こうして、久豊によって島津家中は統一され、島津氏は守護領国の安泰を実現した。しかし、久豊のあとを継いだ忠国は日向伊東氏と抗争を繰り返すようになり、加えて、島津氏一族に分裂が生じ、島津氏の威勢にも次第に翳りが見えるようになった。
さて、真幸院北原氏八代の領主貴兼には四人の男子があり、寛兼・兼門・立兼・兼珍といった。寛兼・兼門は父に先立って卒し、兼門には男子茂兼がいたが幼児であったため、三男の立兼が北原氏の家督を継承した。
このころ、島津氏と対立関係にある日向の伊東祐国は北原立兼を誘い、文明六年(1474)、弟伊東祐邑とともに出陣した。これに伊作久逸が加わり飫肥城を攻撃したが、北郷氏らの救援を得た飫肥城を攻略するには至らなかった。これが飫肥をめぐる島津氏と伊東氏の抗争のはじめで、「第一次飫肥役」と称される。
ついで文明十七年(1485)、祐国はふたたび飫肥城を攻撃、北原立兼もこれに加わり出陣した。伊東軍の攻撃に飫肥城は落城寸前にまで追い込まれたが、島津忠昌らの援軍が到着し両軍激戦となった。「第二次飫肥役」と称され、戦いは伊東氏の本陣をついた島津軍の奮戦によって、伊東軍は大将祐国をはじめ北原立兼ら多くの武将が討死し惨澹たる敗北となった。
立兼が戦死したことで茂兼が家督を継いだが、叔父兼珍は茂兼の幼少なのに乗じて、北原氏の家督を奪って真幸院を領した。これを不服とした茂兼は長享二年(1488)二月、球磨に奔り、母方の実家相良氏を頼った。以後、真幸院の北原氏は久兼、祐兼と相継ぎ、兼守に至った。
伊東氏との合従
第二次飫肥役で戦死した伊東祐国の子伊祐の島津氏に対する報復の念は強く、山之口城に兵を入れ都城を攻める勢いを示した。ところが、豊後の大友氏が仲介に立ち、島津氏が三股一千町を伊東氏に割譲したことで両氏の和睦がなった。伊東氏は飫肥地方の獲得はできなかったが、三股一千町を得たことで、島津氏との境域に迫る形勢となった。さらに、伊祐は真幸院の北原氏、球磨の相良氏、島津忠治、志布志の新納氏に女を嫁がせ、声望はいよいよ高まり、伊東氏の威勢はますます伸張した。これに対して、都城の北郷忠相は三股一千町を取り戻さんとして、伊東方と都城盆地の各所で戦いを繰り返した。
大永三年(1523)十一月、伊東・北原二氏は連合して北郷尚久の拠る庄内野々美谷城を攻めた。城主尚久は力戦したが戦死し、城は落ちたが、この日伊東伊祐はにわかに陣中に没し、十二月には弟の祐梁が死去するという事態となった。伊東勢は城を落としたものの、主将を失い、空しく兵を帰すにいたった。
大永年代における日向の状況をみると、都城には北郷氏がおり、都於郡を本拠とする伊東氏が一万六千という兵を擁し、北原氏は一万余人の兵を擁していた。他方、新納氏は八千余の兵力、それに清水城を領する本田氏が勢力を有して、諸氏、北郷氏の領地を脅かさんとする形勢にあった。都城の北郷氏は、飫肥の島津氏と盟約してこれらの敵に当っていた。
そのころ、島津本宗家では若年の当主が相次ぎ、それを補佐する臣にも恵まれず、国内諸氏の抵抗に悩まされていた。そのような大永六年七月、球磨の相良氏に内訌が生じた。四隣に勢力を伸ばそうとしていた北原氏は好機到来とばかりに、相良氏の本城人吉城に押し寄せ包囲攻撃を行った。相良勢は城を打って出て、両軍は中河原で激突し、相良勢の名ある武士が多く討死した。北原勢も少なからぬ損害を出し兵を引いたが、なお相良城包囲の手はゆるめなかったため緊張関係が続いた。
相良勢は一計を案じ、皆越の地頭安芸貞学に作戦を伝え、貞岳はただちに兵を発した。すなわち、兵百余人に松明をもたせて行軍させ、城内からは「伊東氏の援軍がきた」と呼ばわった。これにより、北原勢は動揺し夜が明けると城外の北原勢は一兵もいなくなっていた。北原勢は優勢にありながら、安芸貞学の率いるわずか百人余の兵を伊東氏の大軍と見過って退陣したのであった。
打ち続く動乱
やがて、日向では伊東祐充の勢力が拡張し、北郷忠相・島津忠朝らは伊東氏の隆盛をみて心は穏やかではなく、天文元年(1534)北原氏と盟約して、十一月、三連合軍は三俣院に兵を出した。そして、島津忠朝の兵六千が高城に向かい、北郷忠相の兵四千は梶山に、北原兼孝の兵八千は野々美谷に向かった。二十七日、連合軍は並進して高城城下に迫った。伊東方の三俣八城の諸城は兵を挙げて高城の救援に駆け付け、両軍は不動寺馬場において大会戦となった。伊東方は防戦につとめ、ついには戦死者七百三十余人を出し、わずかに全滅は逃れたものの大敗を喫した。
翌年、伊東祐充が死去すると家督をめぐる内訌が起り、祐充の弟義祐が家督を継承した。伊東氏の内紛に際して北原氏は、援兵と称して綾に布陣し、伊東氏に綾城または高城を割譲するように迫っている。ところが、高城には北郷氏が入ったため、三俣八城は北郷氏の領有となり、三俣千町も島津氏領に帰した。
●三州諸豪族割拠図-天文四年(1535)
・肝付兼守とあるのが北原兼守である。
その後、島津氏に内訌が起こった。すなわち、島津氏の藩屏として日向にあった北郷氏、島津氏、新納氏のうち新納氏が本宗島津氏の命を奉じなくなった。これをみた伊東氏と北原氏は、それぞれ利を得ようと図って画策した。天文四年八月、島津氏の内訌は爆発し、島津忠朝と北郷忠相が新納氏の領邑を攻めた。伊東・北原両氏は新納氏を援け、都城付近に兵を出して北郷氏を脅かした。忠相は兵を帰して北原氏に備え、十一月、兵を出して北原氏を攻撃した。翌天文五年、北原兼孝は安永に侵攻したが忠相の兵に敗れた。
このころの島津氏の当主は勝久で、内政は治まらず、重臣は勝久を諌めたが用いられることはなかった。さらに、勝久の姉婿である薩州家の実久が宗家乗っ取りを図ったため、勝久は北原・肝付・祁答院の三氏に援を求めた。三氏は兵を出し勝久を救援したが、実久に加担する者が多く、祁答院氏は敗れ実久が鹿児島に入った。勝久は祁答院氏を頼り、のち真幸院に走って北原氏を頼った。
その後、勝久は北郷氏を頼り、さらに豊後大友氏の庇護を頼り同地で死去した。そして、島津家の内訌は勝久の養子に迎えられていた貴久が、父忠良の後援を得て実久を破り、島津本宗家の家督を継承した。そして、子義久・義弘・歳久・家久の四兄弟をもうけ、島津氏の勢力は九州を併呑する勢いを示すにいたるが、それはまだまだ先のことである。
島津氏との抗争
北原氏は日向南部を舞台として北郷氏と戦いを繰り返し、天文十一年(1542)八月、伊東氏と連合して北郷忠相の拠る高城を攻めた。忠相は子の忠親と図って連合軍を挟撃し、連合軍を打ち破った。この戦で、北原氏は白坂下総守、澁谷兵庫など重臣以下七百余人を失った。
北原氏と北郷氏の抗争は、本拠に近い北郷氏が地の利を得て優勢にあり、北原氏は球磨の相良氏にも備えねばならず、兵を挙げて北郷氏に当ることができなかった。北原氏は伊東氏に来援を望んだが、伊東氏は飫肥攻略に力を用いていたため、北原氏に応じる状況ではなかった。その結果、北郷氏の勢力は高まり、着々と北諸県地方を固めていった。第四次飫肥役が起こると北郷氏は援軍に赴き、伊東氏を大いに破り武名を挙げた。
天文十七年(1548)八月、北原兼守は日当山を陥れた。しかし、間もなく日当山は樺山幸久や伊集院忠朗らに攻められ、平尾尾張守・白坂助左衛門ら百余人が戦死した。天文二十三年七月、祁答院良重・入来院重嗣・蒲生範清らが連合して島津氏に叛すると、北原兼守は菱刈隆秋とともにこれに与した。以後、島津貴久は子の義久・義弘、弟尚久らを指揮して北原・蒲生らの連合軍と戦った。
島津軍は逐次軍を進めて、九月、祁答院良重が取る岩剣城を囲んだ。城は三方を絶壁に囲まれた要害にあり、連日攻城野戦が行われたが城は容易に落ちなかった。この戦で島津氏、対する籠城方の双方ともに鉄砲を用い、鉄砲による最初の攻防戦と伝えられている。岩剣城の危機を聞いた蒲生氏は攻撃中の加治木城を退いて、救援に駆け付けてきた。そして、連合軍と島津軍の間で野戦が行われ、連合軍は敗走し岩剣城は陥落した。
北原氏の没落
永禄三年(1560)、北原兼守は三山城内で没した。兼守には男子が無かったため、女子に叔父兼孝の男子を配して北原家を継がせるように遺言した。しかし、女子も夭折してしまったため、一族・重臣らは協議して兼孝を立てようとした。ところが、伊東義祐の横槍が入り、兼守の未亡人に馬関田右衛門佐を配してこれを三山城においた。これに対して、北原氏の重臣らは兼孝を後継者にすることを強く主張したため、義祐は兼孝を殺害し、反対党を掃滅した。そして、北原氏の領地真幸院をはじめ、栗野・横川・高原などを自らの版図に加えてしまったのである。
伊東氏の勢力拡大を危惧した島津氏の家臣樺山幸久は、島津貴久に図って、以前球磨に奔っていた茂兼の孫兼親を北原氏の家督に迎える謀議を行った。かくして、相良頼房のもとにあった北原兼親が相良氏の援兵をもって東福寺(馬関田)城を攻略し、飯野城に入って真幸院を回復した。とはいえ、三山城には馬関田右衛門佐がおり、栗野城、横川城にも伊東氏の勢力があったため、貴久は義弘・歳久、新納忠元などを派遣して横川城を陥落させた。しかし、伊東氏はなお健在であり、島津氏、相良氏らは兵を飯野城に送って兼親を援けた。
こうして、飯野城主として兼親も安泰をみたが、叔父の左衛門尉が伊東氏に内通して飯野城攻略を目論んでいることが発覚、左衛門尉は逃走した。これに関連して、兼親の一族で徳満城主の北原八右衛門尉、白坂下総介らも真幸を去ったため、兼親は頼る一族を失い、孤立無援のまま、相良氏、菱刈氏、伊東氏らの包囲にさらされることになった。
兼親の窮状をみた貴久は、永禄七年(1564)、伊集院神殿村のうち三十町を兼親に与え、真幸院から移住させたのであった。ここに、康永四年に北原兼幸が入部して以来、二百年余にわたった北原氏の日向真幸院支配は終わった。北原氏が去った真幸院には、貴久の二男義弘が入部し、飯野城主として伊東氏、菱刈氏らに対峙した。・2004年12月21日
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●掲載家紋
北原氏の「三つ雁」の意匠は、頭合せとするものもある。ちなみに、戦国時代における北原氏の家紋は不詳だが、宗家肝付氏の定紋である「鶴の丸」を用いた可能性も捨て難い。
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【参考資料:小林市史/えびの市史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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