波々伯部氏
対い鶴丸
(清和源氏義国流?)

 現在の兵庫県篠山市の東部に「波々伯部」と称されてきた古い集落がある。「波々伯部」とは、古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ」の木を献上する部民が、小集団を形成して居住していたところから、「波々伯部」と呼ばれるようになったものである。
 この「波々伯部」を名字としたのが波々伯部氏である。波々伯部氏については、下司職家・盛里系、淀山城・東山城・南山城等に拠った為光系、そして綾部系、越前系などがあるが、盛里系が宗家と考えられている。
 十一世紀(1090)の末頃、波々伯部保の有力農民が、京都の八坂神社へ田を寄進してから、約五百年間、荘園の下司職として、波々伯部氏が相伝し、南北朝時代には、宮田荘にいた為光が波々伯部氏を称し、淀山城を築城したと思われるのである。以後、八坂神社文書に為光系の人物が現われないのは、為光が淀山築城後、武士化したためと思われる。

●武家方に尽くす

 為光系波々伯部氏は、建武四年(1337)足利尊氏から、為光の戦功によって、伯耆国稲光保の地頭職に任じられ、波々伯部保を賜わり、淀山城を築城した。ところで、為光系波々伯部氏は、伝によれば、源義家の四男義国の三男義安(尊卑分脈には見えない)の孫房光の裔という。房光は宇治川の合戦に討死し、一子が丹波国に住し、丹波国多紀郡波々伯部郷地頭職に任ぜられたとするものである。
 さて、為光は元弘三年五月、丹波篠村に至って、足利尊氏に仕えた。このとき、丹波国人では、久下弥三郎時重が一番に到着。以下、長澤、酒井、波々伯部、波賀野、小山。志宇知、山内、葦田。余田らの近国の武士が馳せ集まった。都合、二万三千余騎であったという。
 尊氏は丹波の兵を率いて京都に攻め入り、六波羅を落し、鎌倉幕府は滅亡した。建武二年(1335)十二月、為光は久下弥三郎・中澤三郎入道らと丹波守護碓井氏の館へ押し寄せ、碓井を打ち負かした。翌年正月、久下・酒井らと二条大納言が陣した西山に攻め寄せこれを追い落し、大江山に陣をおいた。しかし、江田兵部少輔らの三千の兵が押し寄せてきて、為光らは利なく兵を退いた。以後、仁木兵部少輔の麾下に属して各地を転戦、度々戦功を挙げたが討死をした。

●室町期から戦国時代へ

 為光の子光朝は、山名氏清・満乗らが謀叛を起こした「明徳の乱」に際して、丹波の諸豪とともに味方に馳せ集まった。内野の陣で、斯波・細川・畠山・一色・今川以下の人々は、天晴大剛の兵とはやされたと伝える。
 波々伯部光則は、足利義政に仕え、国人奉行を務め、長禄二年(1458)より殿中の年中行事に出仕した。このころ、成立したと思われる『見聞諸家紋』をみると、波々伯部氏の家紋【右図】が収録されている。光則の弟元則は細川右京大夫政元に仕え、血気盛んな勇士として知られた。永正四年(1507)六月、政元が戸倉次郎、香西又六らに弑殺されると、三好筑前守に属して香西らと京都嵐山で戦い、元則は戸倉を討ち取った。
 
淀山城址に登る




デカンショ街道(京街道・篠山街道)沿いにある波々伯部神社は、祇園社の末で中世波々伯部氏と関係の深かった神社である。本殿にめぐらされた幕には、波々伯部氏の家紋でもある「松喰い鶴」 が据えられている。波々伯部神社の東方にある小山に波々伯部氏宗家の居城である淀山城址がある。道なき道をブッシュをかき分けながら登っていくと、堀切り、曲輪の跡があらわれる。さらに登ると、主郭には子孫によって明治十三年に立てられた石碑があり、そこが本丸であったことが知られる。城址の東方には溜め池があり、そこから用水が山麓をめぐっているが、往時の壕跡であったのか否かは知ることができなかった。

 その後、足利幕府に衰えがみえ、丹波国は三好氏の領するところとなり、守護代内藤氏を支援して、松永久頼が勢力を振るった。しかし、永禄九年(1566)、波々伯部光政は波多野氏らとともに松永を討ち、ついには松永氏を亡ぼした。
 天正五年(1577)、織田信長の命により明智光秀の丹波攻略が始まる。光秀は波多野氏の居城八上城を攻略、この時、波々伯部光吉も八上城篭城の一人であった。八上城は明智光秀の攻撃をよく防いだが、翌年に至って、食糧も尽き城中は困窮、ついには城主を捕えて降参せんとする者らも出てきた。光吉はその企てに同ぜず、妻の兄荒木山城守らの説得もあり、荒木氏らとともに八上城を落ちることに決め、荒木氏の居所に退いた。
 そして、八上城は落ち、波多野兄弟は信長に殺害された。波々伯部光吉は荒木氏とともに八上々町に移り、さらに新町に移り、農業と酒造業を営み、子孫相続いたと伝える。

参考資料:中野 卓郎氏の論文 など】

■参考略系図