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波々伯部氏
対い鶴丸
(清和源氏義国流?)


 かつて、丹波国多紀郡であった現在の兵庫県篠山市の東部に、「波々伯部(ははかべ・ほうかべ)」と称されてきた古い集落がある。「波々伯部」とは、古代朝廷で亀卜に用いる「ハハカ」の木を献上する部民が、小集団を形成して居住していたところから、「波々伯部」と呼ばれるようになったものである。
 承徳二年(1098)、波々伯部村の田堵(有力農民)十三名は、拓いた二十五町八反余の田地を京都の八坂神社(祇園社感神院)に寄進した。ここに波々伯部村は祇園社領となり、波々伯部保とよばれるようになった。
 波々伯部保の領所となり荘園の権限を掌握した感神院執行の行円は、下地に下司職をおき、年貢の徴収などの荘園経営に当たらせた。下司職は在地の者が任じられたのか、行円の縁者が京から下ってきた者かは分からないが、鎌倉時代には波々伯部氏が下司職にあったことが知られる。すなわち、承久三年(1221)の関東御教書より、地頭の濫妨を訴えた下司職波々伯部盛経が職の安堵を受けている。そして、この記録が波々伯部氏の名が史上にあらわれる最初である。

波々伯部保下司職、波々伯部氏の足跡

 盛経のあと波々伯部氏代々は下司職を相伝し、信盛の代に南北朝時代を迎える。その間、波々伯部氏は鎌倉御家人につらなり、信盛は源氏を称している。鎌倉時代末期、祇園社と波々伯部氏との間に土地(全丸名)をめぐる争いが起こった。南北朝時代、祇園社執行顕詮は南朝に通じたため、波々伯部信盛は足利尊氏に味方して対立、宮田庄の波々伯部為光とともに波々伯部保を押領し、足利尊氏より安堵されたと主張した。しかし、左京亮盛義は義満から濫妨の停止を命じられ、全丸名は祇園社領となった。
 以後、下司波々伯部氏の消息は不明となり、応仁の乱後に祇園社代官として兵庫助盛郷があらわれる。盛郷は武士として将軍義材の奏者をつとめる一方、三条西実隆や蔭涼軒主に丹波の産物を贈り、「新撰筑波集」に一句が収録されるなど、戦乱の時代にあって京文化に親しんでいたことが知られる。盛郷のあとを継いだ正盛も三条西家との関係を保ったが、細川高国と細川晴元の対立によって京畿が争乱に揺れると、武家として否応なく争乱に巻き込まれていった。享禄四年(1531)、細川高国と細川晴元を擁する三好元長との間で摂津天王寺の戦いが起こると、正盛は高国方の丹波守護代内藤国貞に従って出陣、神呪寺において戦死した。
 正盛のあと、元長・公盛と続いたようだが、公盛の身上に異変が起こったものか(戦死カ)、天正二年(1574)、新造が波々伯部氏の代表として祇園社に書状を送り、翌年には神供米を納めている。そして、天正三年をもって、波々伯部保の下司、代官をつとめた波々伯部氏の名は記録に現われなくなる。時代は戦国末期、丹波は明智光秀の侵攻にさらされようとしていた。
 波々伯部氏については、波々伯部保下司職を世襲した盛経系のほかに、宮田庄の為光系、さらに綾部系などがあった。祇園社との関係などから、波々伯部氏の宗家は盛経系と思われる。そして、淀山城を築城したという為光系波々伯部氏が、宗家に次ぐ存在であったようだ。

淀山城主、為光系波々伯部氏

 為光系波々伯部氏は、元弘三年(1333)五月、足利尊氏が丹波篠村の篠八幡宮で倒幕の旗を揚げたとき、為光はその檄に応じて尊氏の陣に加わった。このとき、丹波国人久下弥三郎時重が一番に到着。以下、長澤、酒井、波賀野、小山、志宇知、山内、葦田、余田、そして波々伯部氏ら馳せ集まり、その軍勢は、二万三千余騎であったという。丹波の兵を率いた尊氏は京都に攻め入ると六波羅を攻略、同じころ関東では新田義貞が鎌倉に攻め入り、百五十年つづいた鎌倉幕府は滅亡した。
 かくして、建武の新政がなったが、その時代錯誤な施策と偏った論功行賞は武士たちの失望を招き、かれらの期待は新政から冷や飯を食わされたかたちの尊氏に集まった。 建武二年に起こった中先代の乱をきっかけとして、鎌倉に居座った尊氏は新政に叛旗を翻した。十二月、新田義貞を大将とした討伐軍を箱根竹ノ下で破った尊氏は、逃げる官軍を追撃して翌年の正月、京都を制圧した。
 このとき、為光は久下弥三郎・中澤三郎入道らとともに尊氏に加担して、宮方の丹波守護碓井盛景の館へ押し寄せ、碓井を打ち負かし摂津国に追い払った。さらに、翌年正月には久下・酒井らと京に進撃、西山法華山寺に布陣する二条大納言を追い落し、大江山に陣をおいた。しかし、江田兵部少輔らの三千の兵が押し寄せてくると、為光らは利なくその日のうちに兵を退いた。一方、尊氏も官軍の反撃に敗れ、京を脱出、丹波を経て九州に逃走した。 以後、世の中は南北朝の争乱時代となり、為光は丹波守護に任じられた仁木頼章の麾下に属して各地を転戦、度々戦功を挙げたがついに戦死をしたようだ。
 ところで、為光系波々伯部氏は、伝によれば源義家の四男義国の三男義安(尊卑分脈には見えない)の孫房光の裔という。房光は宇治川の合戦に討死し、一子某が丹波国に住し、丹波国多紀郡波々伯部郷地頭職に任ぜられたというのである。その真偽は分からないが、下司職波々伯部氏の存在を考えれば、伝承の域を出ないものというしかない。

南北朝〜戦国時代へ

 南北朝の動乱期、丹波守護は仁木氏、ついで山名時氏が任じられた。その後、時氏は南朝方に通じるということもあったが、丹波の他に、因幡・伯耆・丹後・美作の五ヶ国守護職を兼帯するに至った。さらに、時氏の子の代になると、山名氏は一族で十一ヶ国を守護領国とする大勢力となった。やがて、山名一族の間で家督をめぐる内訌が生じると、守護大名の弱体化を狙う将軍義満が介入、一族は分裂した。そして、明徳二年(1391)、山名氏清・満幸らが幕府に叛旗を翻し「明徳の乱」を惹き起こしたのである。
 為光の子光朝は久下氏ら丹波の国人とともに、氏清の守護代小林修理亮に属して京都に出撃した。山名軍と幕府軍は内野で激突、丹波勢は、斯波・細川・畠山ら幕府勢から天晴大剛の兵とはやされたと伝えられる。しかし、丹波軍は乱戦のなかで幕府軍に寝返ったため、敗れた氏清は戦死、満幸は没落となった。戦後の論功行賞で、丹波の守護職には細川氏が補任され、以後、戦国時代まで細川氏が世襲した。
 以後、波々伯部氏は幕府に出仕したようで、光朝の曾孫波々伯部光則は、足利義政に仕え、国人奉行を務め、長禄二年(1458)より殿中の年中行事に出仕したという。また、このころに成立したと思われる『見聞諸家紋』をみると、波々伯部氏の家紋「松喰い鶴【右図】」が収録されている。
 光朝の生きた時代は、応仁の乱が勃発、世の中は下剋上が横行する乱世のへ推移するころであった。 幕府体制は大きく動揺し、将軍の権威も大きく下落しようとしていた。明応二年(1493)、将軍義材と管領畠山政長が 河内に出陣した留守をついた細川政元のクーデタが起こった。いわゆる「明応の政変」で、将軍義材は廃され、 細川政元が幕府の最高実力者にのしあがったのである。光則の弟元則は政元に仕え、血気盛んな勇士として知られた。
・右:「見聞諸家紋」に見える波々伯部氏の紋

淀山城址に登る



デカンショ街道(京街道・篠山街道)沿いにある波々伯部神社は、祇園社の末で中世波々伯部氏と関係の深かった神社である。本殿にめぐらされた幕には、波々伯部氏の家紋でもある「松喰い鶴」 が据えられている。波々伯部神社の東方にある小山に波々伯部氏宗家の居城である淀山城址がある。道なき道をブッシュをかき分けながら登っていくと、堀切り、曲輪の跡があらわれる。さらに登ると、主郭には子孫によって明治十三年に立てられた石碑があり、そこが本丸であったことが知られる。城址の東方には溜め池があり、 そこから用水が山麓をめぐっているが、往時の壕跡であったのか否かは知ることができなかった。

→篠山の山城探索


動乱の丹波

 「半将軍」と呼ばれる専制体制を確立した政元であったが、子がなかったため澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えていた。三人の養子の存在は家中に派閥を作る結果となり、永正四年(1507)六月、政元は澄之を擁する香西元長・薬師寺長忠らによって弑殺されてしまった。対する澄元派の高国・三好筑前守らは香西元長の拠る嵐山城を攻撃、この戦いで、元則は香西方の戸倉次郎を討ち取る活躍を見せた。
 かくして、細川氏の家督は晴元が継いだが、事態はそれで一件落着とはいかなかった。以後、細川氏宗家の家督をめぐる対立は、将軍・有力大名らを巻き込み、京畿を争乱の坩堝に叩き込んだのである。当然、細川氏の守護領国である丹波への影響は甚大であった。
 澄之に対して共同戦線をはった澄元と高国であったが、周防の大名大内義興が将軍義材を擁して上洛の軍を起こすと、高国は義材に味方して澄元と対立するようになった。このとき、丹波守護代内藤貞正をはじめ波多野元清、波々伯部氏らは高国に味方し、中沢・酒井氏らは澄元に味方した。永正五年、波多野氏に属した波々伯部大和守・民部丞らは福徳貴寺の合戦で中沢元綱を討ち取り、高国から感状を受けている。一方、この戦いで波多野氏は多紀郡を制圧することになり、丹波群雄のなかで一頭抽んでる勢力となったのである。
 細川二流の乱によって、幕府体制は崩壊、将軍は近江に流浪する有様となっていた。そして、細川氏の重臣であった三好長慶が幕府の実権を掌握、丹波国は三好氏の領するところとなった。松永久秀の弟長頼(内藤宗勝)が波多野氏を討つなど勢力を振るったが、永禄八年(1565)、赤井直正に敗れた長頼は戦死。翌年、八上城を奪回した波多野秀治は、三好氏と対抗して丹波の戦国大名へと駆け上った。波々伯部光政は波多野氏に属して活躍、淀山城をはじめ、東山城、 南山城を築いて、八上城の東口守備の任をになった。

戦国時代の終焉

 やがて天正三年(1575)、天正五年(1577)、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻略が始まる。波多野氏をはじめとする丹波国人衆は果敢に戦い、明智軍をおおいに悩ました。手を焼いた光秀は八上城を包囲して兵糧攻めの作戦をとった。ついに、天正七年に至って、食糧も尽き城中は困窮、城主を捕えて降参せんとする者らも出てきた。波々伯部光吉も八上城籠城の一人であったが、光吉はその企てに同ぜず、妻の兄荒木山城守らの説得もあり、八上城を落ちることに決め、荒木氏の居所に退いた。
 その後、光秀に降伏した波多野兄弟は安土城下に送られ、そこで信長によって殺害された。八上城も落ち、丹波の戦国時代にも幕が下ろされた。波々伯部光吉は荒木氏とともに八上々町に移り、さらに新町に移って農業と酒造業を営み繁盛した。江戸時代の寛文四年(1664)に庄屋となり、ついで元禄六年(1694)に大庄屋となった。さらに享保十六年(1731)には名字帯刀を許され、波々伯部の姓を短 くして「波部」と改めたと伝えられている。いま、雑木におおわれた淀山城址に登ると、かつて本丸であった削平地の一角に子孫の手になる波々伯部氏の顕彰碑が立っている。・2008年10月03日

参考資料:中野卓郎氏・細見末雄氏の論文、兵庫県史 など】


■参考略系図

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