堀内氏
五三の桐
(清和源氏行家流/熊野別当後裔?) |
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紀州熊野の豪族。はじめ佐野に住んだが 長禄の頃に全龍寺の地に館を構えたという。館の回り五町余り、四方に堀を設けて城となし、堀の東にも屋敷を構えた、東西一丁の外にも砦があった。この城搆えから人呼んで掘の内殿といい、やがて堀内を名字にしたと伝える。
家伝によると「左大臣実頼公の苗裔、実方中将の末葉教真を堀内と称す。後白河院の御宇に、はじめて熊野別当職に補せらる。教真、源為義の娘立田原姫を娶り、その後、為義、教真と対面の時、蛛切と云う剣を教真に与う。その後、治承年中に教真の嫡子 別当堪増、この剣を源義経に返し与う。氏虎は、その的裔なり(寛永系図)」とある。
また、清和源氏新宮氏説もある。すなわち、源為義の子備前守行家の子孫が堀内氏を名乗ったというものだ。
新宮社地を領し、南北朝期は熊野水軍として南朝方に属し、室町期には畠山氏の被官となる。熊野は背後の紀伊山地から良質の船材を産し、天然の良港にも恵まれて早くから水軍が発達し、南北朝期より瀬戸内海に進出したともいわれる。
熊野の一大勢力に飛躍
戦国時代、氏虎が出た。氏虎は畠山氏の衰退に乗じて熊野地方に勢力を伸張。一説には、伊勢国司北畠氏の
被官となって熊野を安堵されたとする説もある。
永禄の頃には近隣の土豪有馬氏らを併呑して熊野方面に進出した。その子氏善(氏虎の弟ともいい、はじめ木本浦
有馬氏の養子となっていたが、氏虎が死んだあと嗣子がなく、氏善は新宮に帰って堀内氏を継いだ)は、三木浦の
三鬼氏を大和北山に遂い、天正年中には毛利氏らからも誘われたが、信長方に属して、紀伊のうちに二万石を与えられた。
天正十年(1582)、本能寺の変後の山崎の合戦で軍功があり、七千石を加増されたが、天険を頼んで秀吉に属さず自立、
同十一年、豊臣秀吉の紀州征伐にも新宮城に拠って抵抗した。しかし、ついに氏善は帰降して、秀吉から本領を
安堵された。同十八年の小田原攻めにも従軍、文禄の役では水軍として出動、竹島の先陣争いなどに功があった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の役には石田三成の西軍に与し、伊勢口の守りにつき、鳥羽城主の岳父九鬼嘉隆と協力して
新宮城に籠城したが、関ヶ原の敗報を聞いて逐電。家康より領地は没収された。しかし神職の故赦免されて肥後熊本の
加藤清正に預けられ、元和元年(あるいは四年)に同地で没したと伝えられている。
堀内氏没落後、氏善の嫡男若狭守行朝(氏弘)は浅野紀伊守に仕えたが、慶長十九年(1614)大坂冬の陣が
起こると弟主膳(氏時)・主水(氏久)とともに大坂方の招きの応じて大坂城に入った。若狭守は旧臣、
紀伊・大和の浪人衆を率いて大和口を固め、翌年の夏の陣で豊臣家が敗れると弟ら一族とともに大坂城から退去した。
退去のとき千姫一行と遭遇した若狭守は、一行を護衛して家康の本陣に送り届けるという奇功をあげた。戦後、
罪を許された若狭守は片桐氏の客分となり、弟の主膳・主水らは旗本に取り立てられたという。一方、氏善の庶子
右衛門兵衛は藤堂大学頭の娘婿であった関係で藤堂家に仕えて知行二千石(千五百石とも)を賜り、子孫は藤堂藩士として続いたという。
・家紋:藤堂家に仕えた堀内家が用いたという「丸の内打ち違い釘抜」紋
【参考資料:和歌山県史・新宮市史・熊野市史・那智勝浦町史・堀内氏家系考 ほか】
■参考略系図
・新宮市誌 ・和歌山市立図書館蔵 系図集 ・堀内氏家系考 などを参考にして作成。
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