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堀 氏
釘貫/三つ盛亀甲
(藤原北家利仁流)


 堀氏は藤原利仁流で、利仁八世の孫季高がはじめて堀氏を称し、その後裔利秀が美濃国に住して斎藤道三に仕え、茜部を領したとされる、もっともこれは堀氏の系図にある説である。『美濃国諸国記』には「堀・前田の両家も、斎藤氏の諸流なるゆえに、すなわち梅花又梅鉢をもって家紋とす」とあり、「堀氏は池田郡堀村に住して」堀氏となったとある。もっとも家紋の「梅鉢」は、後世親良のころから使用している。それ以前は「三つ亀甲」を用い、のちに「釘抜」を定紋としている。

信長に仕えて出頭

 信長に取り立てられた秀政は、利秀の曾孫で茜部に生まれた。秀政は通称久太郎で知られている。信長に属したのは、斎藤氏滅亡の前後と考えられる。信長に近侍して奏者番をつとめ、またしばしば信長の朱印状などに添状をだしている。その一方、越前一向一揆討伐などでも戦功を挙げている。
 本能寺の変に際しては、信長援軍の先発隊として備中に出陣しており、豊臣秀吉に属して山崎の合戦に参加した。以後、秀吉の配下に入り、賤ケ岳の戦いによって近江佐和山城九万石を与えられた。ついで小牧の陣に活躍し、天正三年(1585)侍従となり、羽柴の姓を授けられ、同年越前北ノ庄城十八万余石に移封された。秀吉のもとで信長時代に培われた才能が花開き、「名人久太郎」と称されてとんとん拍子に出世していった。しかし、小田原の陣に出陣中に病を得て、わずか三十八歳で死去した。「惜しい人を死なせた」と人々は嘆いたと伝えられる。
 嫡子秀治も通称久太郎、秀吉のもとで数々の手柄を挙げ、侍従に任じられ、慶長三年(1598)、越後春日山城三十万石へ栄転した。関ヶ原の合戦では東軍に属して本領を安堵されたが、秀治も三十一歳で病死した。堀氏はどうも若死のようである。そのあと、忠俊の時代、家老堀直清、直寄の紛争にまきこまれ、せっかく維持した所領は慶長十五年に改易されてしまった。しかし、幸い秀政の次男親良とその子孫が、大名として存続し堀氏の名跡を伝えた。
 先の御家騒動に名のでた堀直寄は、その父直政が堀秀重の娘(秀政の叔母)を娶り、堀を称したもので、元来は足利一族斯波氏の庶流奥田氏の出である。直寄は主家の没落を横目に十万石の大名となったが、その跡を継いだ孫直定がわずか七歳で死去したために改易。その名跡は、次男直時が越後村松に三万石を与えられ大名として伝えた。


■参考略系図
・『美濃国諸家系譜』所収の「堀氏系図」を底本に作成  
  

Ver.1 系図


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