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本間氏
●十六目結
●武蔵七党横山氏流
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相模国海老名氏の一族。一般的には村上源氏とされ、源有兼が小野盛兼の子季兼を養子に迎え、その孫義忠(能忠)に至って本間氏を称したことに始まるという。しかし、これは相模守を務めた有兼に結び付けようとした潤色と思われる。おそらく、当初から武蔵七党のひとつ横山党の分かれで武蔵小野郷を本貫とした族であろう。
能忠の子のうち忠家は遠州系本間氏の祖となり、能(義)久が佐渡本間氏の祖になった。すなわち、能久のとき初めて佐渡守護代になったといい、以後島内各地に一族が広がって佐渡最大の武士団に成長し、嫡流は雑太本間氏という。
佐渡本間氏の誕生
本間氏が直接佐渡と関係をもつようになったのは「承久の変」を契機としてである。承久の変に幕府が勝利したことで、佐渡はようやく幕府の支配下に移り大仏北条氏が佐渡守護となった。本間氏は大仏氏の被官であった関係から、佐渡守護代として佐渡に渡ることになったのである。本間系図の一本にみえる忠綱の注記に「順徳上皇供奉の一人にて入国し、石田に住す」とあり、また別本系図の助久の注記に「佐渡院御下向の時、任佐渡守、奉供奉故也」とあるあたりが、本間氏が佐渡へ渡ることになった実情を述べたものと思われる。
鎌倉中期の佐渡守護代であった本間六郎左衛門重連の邸は相模国依智にあって、年に一度佐渡に渡っていたようである。僧日蓮が佐渡へ配流された際、これを預ったのも重連であった。そのことは日蓮遺文によって明らかだが、重連については日蓮遺文以外には史料がなく、本間系図の記すところも一様ではない。
雑太系の系図に見える本間泰宣は、系図の注記によれば「兵衛太郎、山城兵衛尉、左衛門佐、国府地頭、正慶元年六月十日死」とみえる。記録では延慶元年(1308)本間兵衛太郎が飛鳥井雅敦より蹴鞠の鴨沓を許されたこと、元亨三年(1323)北条高時より本間兵衛太郎と本間九郎入道に佐渡国十社神事に関する教書が下されたことなどがみられる。そして、正中二年(1325)に佐渡へ流された日野資朝を預った本間山城入道も泰宣であったろう。また『太平記』に見える元弘三年(1333)の鎌倉極楽寺坂の戦いで奮戦し自刃した本間山城左衛門も泰宣のことといわれるが、系図の没年月日と違っていることから実際のところは不明である。
本間氏が佐渡に定着するようになった時期は、文永・弘安の「蒙古の役」が終わったころからであったようである。本間氏は佐渡支配のため、島内各地へ一族庶子を代官として配置した。石田郷・波多郷・羽茂郷・久知郷・木野浦郷・大浦郷などである。そして、これら庶子家は鎌倉幕府の滅亡と、それに続く南北朝の争乱期のなかで惣領家に対抗して代官地に独立し、足利幕府の安堵状を得て郷地頭となるなど、庶子家の独立化が進んでいくのである。
佐渡に勢力を拡大する
本間氏が鎌倉時代より佐渡島に勢力を築いたことは紛れもない事実だが、中世における佐渡本間氏の動向に関しては不詳な部分が多く、いまに伝わる本間氏の記録なども、江戸時代の筆跡であることが明々白々なものが多い。また、本間氏は佐渡守護大仏北条氏の守護代として佐渡に勢力を築いたとするのが定説であるが、信用できる古文書などからは守護代というよりは地頭代であったことがうかがわれる。
たとえば、弘安八年(1285)の佐渡国守護北条宣時の裁許状は、本間重久と宣定の兄弟の間で行われた所領相論に対する判決(裁許状)である。この文書は北条宣時が守護代職本間氏に与えたものだが、幕府の裁定ではなく守護の裁定であることが注目される。すなわち、本間氏は幕府直臣の地頭あるいは御家人という立場にはなく、北条宣時の被官という立場にあることを示している。
元弘の乱で鎌倉幕府が滅びたのち佐渡六ケ郷が足利尊氏領に、羽持郡・吉岡が直義領になったことが『比志島文書』から知られるが、それはいずれも北条氏の旧領地であった。本間氏は北条氏の被官として、これら佐渡の北条氏領の地頭代を掌握していた。もっといえば、佐渡国の国衙領の多くは北条氏の所領(地頭職)となり、本間氏が地頭代として所領経営を行っていたのである。幕府の滅亡によって、それら佐渡国の地頭職の多くは足利尊氏・直義兄弟に配分され、寺院に寄進された地頭職もあった。
鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政の発足そして崩壊、それにつづく南北朝の内乱から足利幕府の成立と事態が急変していくなか、佐渡支配は再編成され、佐渡国には地頭職はもとより新たに足利幕府体制下の守護が補任された。佐渡本間氏もこの激動の時代に揉まれながら、刻々と変化する政治局面に対処していくことを求められた。
康永二年(1343)の吉良貞家の下知状から佐渡国の守護として小椋刑部少輔成長が知られるが、足利幕府下の守護は足利一門に集中していたことから、素性の知れない小椋刑部少輔なる人物が佐渡守護であったとは考えにくい。おそらく、守護代であったと思われるが、「守護人小椋」と記した文書もあり、いずれとも結論を出し難いのが実状である。その後、観応三年(1352)には渋川直頼、永徳元年(1381)には畠山国照、ついで一色詮範が佐渡守護にあったことが知られる。いずれも、足利氏の一門に連なる人物たちであった。
幕府奉公衆、本間氏
この間、本間氏は沢根地頭職を有する吉良貞家から本間宣久が地頭代職を宛行われている。鎌倉時代における本間氏は、守護代職と地頭代職とを一体のものとして掌握していた。しかし、室町時代の守護は将軍の全国支配の一端を担う者として位置付けられ、鎌倉時代の守護とはその職責が大きく変化していた。加えて、室町守護は在京が原則となっていたため、国元の政治はみずからの重臣を守護代に任じてあたらせることが多かった。そして、命令系統は将軍→管領→守護→守護代という順に伝達され、さらに小守護代→在国奉行へと伝えられた。本間氏は佐渡に在国する武士であり、室町的秩序のもとでは守護代につける存在ではなかったといえよう。
ところが、永徳元年(1381)に本間泰直に宛てられた幕府管領斯波義将の施行状は、将軍→管領を経て本間氏に所領の沙汰付が行われ、その所領が「地頭職」と明記されているのである。本間氏を地頭職とする文書は他にも二通が伝えられており、さらに、御判御教書と称される文書が本間氏に与えられている。御判御教書とは、将軍が発給する格式の高い文書で、軍勢催促や感状、武士・公家・寺社に対する所領安堵などに使われたものである。本間氏がこの文書を持っているということは、将軍による安堵を受け、室町幕府御家人としての地位を確実にしていたことがうかがえる。
他方、室町幕府奉公衆の名簿に「本間孫左衛門」が見え、室町時代の武家の家紋を知る史料として名高い『見聞諸家紋(東山殿御紋帳)』には、「十六目結佐渡の本間」と佐渡本間氏の家紋が記されている。佐渡本間氏は幕府御家人として、将軍に直属する存在である奉公衆の一員であったことが知られる。ちなみに、相模の本間氏は鎌倉府の奉公衆に名を連ねていた。
本間氏は佐渡守護の下で地頭代職を掌握しながら、奉公衆の一員として室町将軍に直結していた。おそらく、佐渡にある将軍御料所の管理も任されていたと思われ、それらを背景として勢力を拡大していった。一方、佐渡国では守護による領国支配体制は確立せず、奉公衆本間氏が一国支配の体制を築いていったのである。しかし、応仁の乱(1467))を経て室町体制が徐々に崩壊し、同時に将軍の権力も凋落するようになると、幕府権力と結ぶ本間氏もその力を衰退させることになった。
佐渡の戦国時代
本間氏惣領家の権勢が後退すると、庶子家の台頭、独立という惣領制の崩壊が加速し、本間氏内部でも一族間の対立が深まっていったのである。そして、ともに庶子家である河原田本間氏と羽茂本間氏の抗争へと事態は動いていくのである。
越後の戦国時代は、長尾為景が守護上杉房能を下剋上で倒した「永正の乱」に始まったとするのが定説である。為景に殺害された房能の実兄は関東管領の顕定で、顕定は弟の仇と越後の領地を確保するために、永正六年(1509)、越後に進攻した。顕定軍と戦って敗北した為景と新守護定実は越中に逃れ、さらに佐渡へと渡ってきた。佐渡に渡った為景らは長尾氏と姻戚関係にある羽茂本間氏を頼ったらしく、赤泊村の徳和部落にその遺跡がある。佐渡で態勢を立て直した為景は、越後蒲原津に押し渡ると、上杉顕定と再戦して勝利し、関東に逃れようとする顕定を追撃して長森原で討ち取った。以後、定実を守護に擁した為景が事実上の越後の国主となった。
羽茂本間氏は長尾氏に近い立場をとり、佐渡の戦国時代は羽茂本間氏を軸に展開したと考えられる。大永七年(1527)頃から、羽茂本間氏と宮浦城主久知本間氏との間で争いが起こり、これを契機として佐渡は戦国乱世の様相を深めていったのである。
一方、越後でも実質的国主の座にある長尾為景と、為景打倒を目論む守護方との間で対立、抗争が続いていた。やがて、天文五年(1536)、為景は晴景に家督を譲って隠退したものの内乱は続き、晴景が弟の景虎に家督を譲ったことで、ようやく越後一国は長尾景虎のもとに統一されていった。その間、佐渡の戦乱状態も止むことなく繰り返され、長尾改め上杉氏の名跡を継いだ謙信はしばしばその仲介にのりだしている。
元亀四年(1573)、謙信は越中で一向一揆と戦っていたが、越中の一揆に呼応して佐渡でも激しい一揆が起こり、佐渡に駐在していた上杉氏の代官蓼沼右京が殺害されてしまった。やがて一揆は鎮定され、そのあと謙信に従った武士として、羽茂の本間高信、吉田城の三川氏、雑太城の本間山城守、太田城の本間秀氏、久知城の本間与十郎、沢根の沢根高秀、潟上に潟上秀光らがいた。
佐渡本間氏の終焉とその後
天正六年(1578)、謙信の死後に起こった「御館の乱」に勝利した景勝が上杉氏の家督を継ぎ、新発田氏の乱を平定して越後統一をなした。かくして景勝は、本間一党の群小豪族が乱立し、混乱がつづく佐渡の平定に乗り出したのである。
景勝は新発田氏が叛いたとき、潟上本間秀高と音信を通じ佐渡を掌握しようとしているが、景勝と佐渡の本間諸家とはきわめて緩やかな支配関係にあったようだ。そして、羽茂本間氏など南佐渡の諸豪族は景勝に通じ、北佐渡の諸本間氏は反景勝的であった。ところが、新発田氏が征伐されると、北佐渡の本間一党は一転して景勝にくみし、逆に会津葦名氏の誘いにのった羽茂本間氏は景勝に反旗を翻した。
天正十七年(1589)六月、景勝は自ら軍をひきいて佐渡に襲来した。もっとも強い抵抗をしたのは羽茂の本間高茂(高季、高貞とも)であった。六月、上陸した景勝軍は高茂を追い詰め、やがて、その抵抗を完全に鎮圧した。高茂は佐渡を逃れて出羽をさして落ちのびようとしたが、上杉軍に捕らえられ殺害された。こうして短時日のうちに佐渡を平定した景勝は、抵抗しなかった本間一党の所領も没収して佐渡一国を直轄地とし、家臣の給地に再編した。一方、佐渡の旧領主らは越後へ移され佐渡の戦国時代は終わりをつげた。
景勝侵攻のとき、潟上地頭であった本間秀高(帰本斎)は、沢根地頭本間永州とともに越後側にたち越後軍の先鋒として佐渡勢と戦った。戦後、その功を賞され沢根永州とともに越府に移り本間姓を改め潟上姓として景勝に仕えた。
帰本斎の本間氏は、始め「葉梨」姓であったというから佐渡本間氏の一族ではなく、郷村のなかで勢力を伸ばした村殿であったと思われる。そして、戦国期になると領内の潟上銀山をバックに成長し、上杉氏と結びつき二十二地頭の一人に数えられるようになったものであろう。その後、帰本斎は故郷の佐渡潟上に帰り、同所で卒したという。帰本斎の子弥太郎は景勝の会津移封に従い、さらに米沢に移り、子孫は代々五百石をもって米沢藩上杉家に召し抱えられた。・2004年12月10日
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