|
合志氏
●四つ目結
●宇多源氏佐々木氏流
|
肥後の戦国時代における国人領主のひとりとして知られる合志氏は、宇多源氏佐々木氏流と伝えられている。しかし、合志氏の場合、藤原姓菊池氏流合志氏、中原姓竹迫氏流合志氏、そして佐々木氏流合志氏の三つの系統があったと『合志川芥』に記されている。菊池系図によれば、「経隆−経明(合志五郎)−高明(菊池四郎、又は合志四郎)」とみえているが、南北朝の早い段階に断絶したようだ。
ところで、佐々木合志氏は系図によれば、佐々木四郎高綱の子重綱の後裔ということになっている。すなわち、重綱の後裔四郎左衛門長綱は、正応三年(1290)三月の浅原八郎為頼の乱に与して比叡山に逃れた。比叡山座主法燈僧正は密かに長綱を匿って、延暦寺領の肥後合志郡に遣わし寺領奉行とした。そして、長綱は現地に赴き、合志郡真木村に住んで合志と称したというのである。
一方、『肥後国志』によれば「佐々木四郎左衛門尉長綱、大友氏の裁許によりて当国に下向し、合志半国の地頭職となり、真木村に住し、氏を合志と改号す」と出ている。いずれにしても、四郎左衛門長綱が合志氏の祖ということになる。
ちなみに、佐々木氏流合志氏を下合志といい、中原姓竹迫氏系の合志氏は地合志を称したと伝えられている。
合志氏の歴史への登場
さて合志氏として歴史に登場してくる人物は、南北朝時代に合志城を拠点として活動した合志幸隆である。合志幸隆の出自は詳らかではないが、足利尊氏の執事をつとめた高師直の命を受けて行動しており、荒尾野原荘の小代氏は幸隆の指揮下にあった。合志幸隆は肥後の武家方として、建武三年(1336)、小代重峯らを指揮して筑後国豊福原、六段河原で戦っているのである。小代氏は鎌倉時代以来の野原荘地頭であり、幸隆が小代氏を指揮下においていることは相当の実力を有していたことをうかがわせる。
ところで、肥後国は九州南朝方の中心勢力である菊池氏の本拠があり、貞和二年(1346)、幸隆は高師直の命を受けて詫磨宗直とともに筑後国高樋(桶?)庄の警固をつとめている。このように、合志氏は肥後の武家方の中心として菊池氏と対峙し、正平四年(1349)には菊池武士を菊池城から逐い、菊池城に立て籠った。しかし翌五年、菊池武光、恵良惟澄らの反撃によって、幸隆は菊池城を逃れ去った。以後、合志幸隆の動向は不明となる。
おそらく、征西宮懐良親王を擁する菊池武光らによる九州南朝方の隆盛により、合志氏は逼塞を余儀なくされたものであろう。とはいえ、一定の勢力は維持していたようだ。九州探題として赴任してきた今川了俊は、永和二年(1376)、北朝方の阿蘇大宮司惟村に対して、三池・合志氏らを味方につけるように命じている。とくに合志氏には力を入れて当たるように念を押していることから、合志氏は肥後の有力者として一目置かれていたことが分かるのである。
さて、南北朝期の肥後で活躍した合志幸隆を、合志氏の祖という佐々木四郎左衛門尉長綱と同一人物だとする説がある。南北朝時代、佐々木氏は武家方として行動しており、同じく武家方の豊後守護大友氏が、肥後の長綱を支援したことは想像できる。しかし、そのことを裏付ける史料があるわけではない。一方、延文五年(1360)十一月に長綱の孫という定実は、鞍嶽で菊池武光と戦い敗れて武光に降ったという。
合志幸隆後の合志氏の動向は明確ではないが、征西府の勢力が優勢になるとその麾下に属し、今川了俊によって九州南朝方が衰退するにつれ、幕府方に転じたものとみてまず間違いないだろう。
菊池氏の重臣に成長
半世紀にわたって続いた南北朝の争乱は、明徳三年(1392)、室町幕府三代将軍足利義満の調停により、終止符が打たれて南北朝合一がなった。しかし、九州では南朝方菊池氏の奮戦により数年おくれることになったが、幕府は菊池氏の実力を認めて肥後守護に任じ、九州の南北朝争乱も終息した。
かくして、合志氏は肥後守護菊池氏の支配下に入った。嘉吉三年(1443)の菊池持朝侍帳をみると「合志太郎重澄、合志蔵人助隆門、合志丹波守武忠、合志丹波守重遠」らの名がみえている。そして、隆門のときに飛隈館を建て、隈屋形といい真木城から移り住んだ。弟の重隆は古閑池上城を築き、そこに移り住み住吉城と称した。
文明十三年(1481)、菊池重朝の「万句連歌発句」が、隈府に居住する城・隈部などの館において挙行された。この催しに肥後北部七郡の武士たちが参加したが、そのなかで城為冬邸において合志太郎重隆が、早岐邦政邸で合志蔵人佐隆門らの合志氏がみられる。先述のように、隆門と重隆は兄弟であり、それぞれ合志氏の重鎮として菊池氏の配下にあった。
「万句連歌発句」が催されたとき、京都では応仁の乱の戦いが繰り返されており、世の中は戦国時代へと移行しつつあった。肥後菊池氏の健在ぶりがうかがわれるが、菊池氏は重朝の晩年より衰退の色を見せるようになる。明応二年(1493)、重朝が死去すると、そのあとは若冠十二歳の能運(武運)が継いだ。能運を若年と侮った重臣隈部氏が、相良氏と結んで謀叛を起したが、能運はこれを征圧した、しかし、家中の動揺は続き、文亀元年(1501)には叔父で宇土氏を継いでいた宇土為光が守護職を狙って叛旗を翻した。
隈府城を攻略された能運は肥前有馬氏のもとに逃れて再起を期し、文亀三年、城氏・有馬氏らの支援を得て為光を討つと隈府城を奪還した。ところが、このときの戦傷によって、翌永正元年(1504)、能運は二十三歳の若さで急逝し、一族から政隆(政朝)が守護職として迎えられた。以後、肥後守護菊池氏は当主の交代が相次ぎ、大友氏の干渉などもあっていよいよ衰退の色を深めていくことになる。
ところで、永正元年の菊池政隆侍帳には「合志蔵人少輔隆岑、合志掃部助隆直、合志遠江守重郷」らが記され、同二年の連署には「合志蔵人少輔隆岑、合志掃部助隆直」らの名が確認できる。合志氏は菊池氏麾下に属しつつ、次第に有力国人領主へと成長していった。そして永正二年(1505)十二月、隈部・赤星氏らの菊池重臣が守護政隆を逐って阿蘇惟長を迎えて菊池家の家督とした。このときに連署した重臣五十四人のなかに、為宗・隆峯・重宗・隆直の合志一族の名がみられる。合志氏は有力国人領主の一人として、菊池氏当主の改替に加担するまでになっていた。
守護菊池氏の没落
永正七年(1510)、竹迫城の竹迫公種が大友氏に従って豊後に移ると、合志蔵人少輔隆岑は公種の譲りを受けて竹迫城に移った。以後、合志氏は武迫城を本拠にして、隆岑から隆房・高久・親為・高重とつづき、天正年間の島津氏の肥後侵攻に際し、肥後軍勢として戦い敗北、滅亡していくことになる。
その後、菊池氏は阿蘇惟長改め武経が守護職となったが、武経は家臣を統率することができず、阿蘇へと帰っていった。そのあとには、菊池氏一族の詫磨氏から武包が迎えられたが、武包も菊池氏重臣によって守護の座から逐われた。菊池氏重臣の背後には、肥後支配を目論む大友氏の存在があり、ついに大友義鑑の弟重治(義宗・義武)が菊池氏の後継となり肥後守護を継いだ。義武は隈部・城・赤星ら菊池氏の重臣が勢力を有する菊池を嫌って、鹿子木氏の拠る隈本城に入った。
やがて、義武は大友宗家からの自立を図るようになり、大内氏と通じて兄の義鑑と対立するようになった。しかし、菊池氏の重臣らは義武に同調せず、追いつめられた義武は肥前の有馬氏を頼って肥後から逃れ去った。肥後守護職は義鑑が補任されたが、その後も義武は相良氏や島津氏を恃んで、義鑑との対立を続け隈本への復帰を画策した。そのようななかの天文十九年(1547)、義鑑が二階崩れの変で横死すると、義武は鹿子木氏・田島氏らの協力を得て隈本城に復帰した。一方、義鑑のあとを継いだ義鎮は、大軍を肥後に投入して義武を隈本城から追い出した。
このとき、合志氏は鹿子木氏・田島氏らとともに義武に味方して、豊後勢と戦い、一万田・志賀氏らを討ち取る勝利をえた。しかし、義武が没落したことで大友氏に降った。鹿子木氏・田島氏らは義武とともに没落の運命となったが、合志氏は許されて相良氏や名和氏、城氏らに準じる勢力を維持したようだ。そして、このころの合志氏の当主は合志親為であった。
戦乱に翻弄される
その後、菊池義武は義鎮に殺害され、肥後守護は義鎮が任じられた。義鎮は肥後一国の政事は肥後の有力国人らにまかせ、みずからはそのうえに存在するという方法をとった。こうして肥後は大友氏の支配するところとなり、隈部・城・赤星・小代、そして合志氏らの国人領主が割拠する状態となった。
大友氏は義鎮の代に六ヶ国の守護職を兼帯する大勢力になったが、一方、薩摩・大隅を統一した島津氏が北上作戦を開始するようになり、肥後・日向は両勢力の係争地帯となっていった。天正六年(1578)、大友宗麟(義鎮改め)は島津氏に逐われた日向の伊東義祐の要請をいれて日向に出陣した。出陣に際して宗麟は、肥後国が攻撃、撹乱されることを恐れ、豊後国の西四郡の国人衆を肥後に派兵するとともに日向方面軍に対する遊軍とした。しかし、大友氏本軍は日向高城の戦いで大敗、さらに追撃を受けて耳川において潰滅的敗北を喫した。大友義統は大友勢を豊後国へ撤退させたが、このとき合志親為やその一族が協力をしている。
耳川合戦の敗北によって大友氏の威勢は一気に地に堕ち、以後、守勢に立たされることになる。この情勢をみた隈本城主城親賢は大友氏より離反して島津氏に服属し、名和氏・小代氏らも大友氏から離反していった。一方、合志氏は赤星・隈部氏らとともに龍造寺隆信に誼を通じて勢力を維持しようとした。そのような天正八年(1580)、島津氏は城親賢の要請に応じて肥後国に侵攻し隈本城に入った。そして同年十一月、城氏は薩摩軍とともに合志表に出陣して久保田合戦があり、親為の嫡男隆重はよく奮戦しこれを斥けた。しかし、親為は合志氏の存続のために心を砕き、ついに島津氏に降る道を選ぶに至った。
翌天正九年(1581)になると、龍造寺隆信の肥後侵略が本格化し、城・甲斐・志岐・赤星・隈部・合志らの肥後北部諸氏は龍造寺氏に服属の起請文を差し出して帰服した。ところが、同年の島津氏の肥後侵攻に際して親為は、甲斐宗運とともに島津氏側となって龍造寺氏方の隈部氏を攻撃した。天正十二年(1584)二月、龍造寺隆信は合志城を包囲、攻撃した。一方、島津義久は島津勢に出兵を命じ合志勢を救わんとしたが、龍造寺の大軍の前に親為は降伏せざるを得なかった。
肥後を征圧した龍造寺隆信は、島津氏と結ぶ有馬氏を討つため島原半島に出陣した。隆信率いる龍造寺軍と島津・有馬連合軍は、肥前沖田畷において激突、結果は大軍に奢った龍造寺軍の敗北となり、大将隆信もまさかの討死をとげてしまった。天正十二年三月のことで、城・甲斐・志岐・赤星・隈部・合志の諸氏はなだれをうって島津氏に降り、肥後国は島津一色となった。
合志氏の滅亡
ところが、翌天正十三年、親為の嫡男隆重(高重)が合志竹迫城において島津氏に叛旗を翻した。このとき、津森城主光永宗甫、高森城主高森惟居らも島津氏に叛いた。肥後一国が島津氏の支配下にあるなかで、何故、叛旗を翻したのかは不明だが、おそらく島津氏からの厳しい要求に汲々とするよりも、あえて玉砕を選んだものであろうか。結果は、合志隆重・光永宗甫・高森惟居らはことごとく滅亡した。
隆重が島津氏の軍と戦う前、親為は孫の千代松丸を伴って島津氏のもとに赴いて帰順を申し出て許され、合志天台宗寺院に帰された。親為は家名存続のため、主戦論の嫡男隆重とは袂を分かって島津氏に降ったのである。その後、豊臣秀吉の九州征伐が起ると、島津氏は敗れて薩摩に逼塞し、九州の戦国時代も終わりを告げた。
九州が平定されたのち、合志千代松丸は秀吉から所領安堵の朱印状を受けている。そして、天正十一年十一月付の千代松丸の竹迫山王社への寄進状が残されており、合志氏が命脈を保ったことが知られる。『肥後国誌』には、高重の甥吉兵衛が加藤清正に五百石で仕えたことが記されている。他方、囚われて薩摩に送られた合志親重と一族は、薩摩大口の羽月においてひとり残らず討ち果たされたとする記録もある。
いずれが真実を伝えたものかは、にわかに判断しがたいが、それぞれ背景となる事象があったものであろう。しかし、中世の肥後において一勢力を誇示した、国人領主合志氏の歴史が幕を閉じたことには変わりない。・2005年4月11日
【参考資料:合志町史・西合志町史 ほか】
■参考略系図
|
■中原系合志氏
鎌倉時代、源頼朝に合志郡地頭職を任じられた中原師員が、中原系合志氏の初代とされる。師員以後竹迫氏は三百三十年にわたって竹迫城(合志城、上庄城、蛇の尾城とも呼ばれる)に割拠した。そして、戦国時代に至って、合志竹迫公種のとき、豊後に去り中原系合志氏の肥後における歴史は終わったのであった。
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|