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江戸崎土岐氏
桔 梗
(清和源氏土岐氏一族)


 戦国時代、常陸国の南部江戸崎に勢力を振るった土岐氏は、清和源氏頼光流で美濃守護として有名な土岐氏の一族である。すなわち、土岐光定の子蜂屋定親の子師親は原孫次郎を名乗り、その流れが土岐原氏を称したものである。ちなみに定親の兄弟頼定の流れが美濃守護土岐氏となった。
 原師親の次男師秀の子左馬助秀成のときに、関東管領上杉憲方に従って遠く関東に下向し、常陸信太荘に入部した。この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代である。

常陸への土着

 秀成の子憲秀は、応永三十年(1423)、足利持氏の小栗討伐に際し、行方郡の鳥名木国義らを率いて出陣した。憲秀の「憲」の字は主君である上杉氏から偏諱を受けたものであろう。
 正長元年(1428)の山入祐義の乱に際しては、憲秀の嫡子景秀が、やはり鳥名木国義らを指揮して野口城へ出陣し、大いに戦功に励んだ。このとき、景秀は父憲秀から家督を譲り受けていたようである。土岐原氏の領地は霞ヶ浦(内海)に近く、内海は商戦が多く往来し、その商戦を狙う海賊がしばしば出現していた。そして、その取り締まりに土岐原氏が当たっていたことが知られている。土岐原氏は元来、美濃の山奥から発しただけに、水軍とは縁がなかった、しかし信太荘に入部して三十〜四十年の間に海の領主としての側面も身に付けていたのである。
 永享十年(1438)に起こった永享の乱ののち、下総結城城の結城氏朝は、足利持氏の遺児春王丸・安王丸を擁立して、幕府と結ぶ上杉氏に合戦を挑んだ。世にいう「結城合戦」である。結城城での攻防戦は永亨十二年から嘉吉元年(1441)までの一年余りに及ぶものであった。このとき、景秀は長尾・大石・長井氏ら錚々たる武士たちとともに、関東管領上杉清方に従って結城城を攻めたて、目覚ましい手柄を立てたのである。この戦いは、景秀らの善戦によって幕府・上杉連合軍の完全な勝利に終わり、常陸南部における土岐原氏の立場も確固たるものとなった。
 文明八年七月、土岐原修理亮景成は、信太郡の一の宮である楯縫神社の社殿造営に着手している。この社殿造営は、関東に古河公方成氏の出現以来、争乱の渦中におかれた常陸南部の人心の把握を願うとともに、関東管領上杉氏の被官としての土岐原氏の存在を信太郡内に示すものであった。
 信太地方は、反成氏方の勢力下にあり、その主導的役割を担っていたのが土岐原氏であった。その後、文明十四年には、幕府と成氏との間に和睦が成立し、長かった亨徳の乱もようやく収まった。ところが、長永亨元年、今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏との間に対立が起こり、ふたたび東国を争乱の渦中へと引き込んでしまう。このような状況下、明応六年(1497)五月、景成は没してしまった。景成には男子がなかたため、土岐原氏は美濃守護である土岐惣領家より養子を迎えた。

美濃惣領家より養子を迎える

 このとき、養子となって家督を継いだのが土岐政房の三男治頼さといわれる。しかし、治頼の生年は文亀二年(1502)であり、景成から治頼への家督継承までには若干の空白が生じるのである。この空白期間を埋める史料はいまのところ存在しない。
 いずれにしても、景成の没した明応六年から十数年後に治頼が家督を継承したことは間違いない。そして、治頼は、江戸崎周辺に勢力拡大を企図していた小田氏との対応を迫られるのである。大永五年(1525)治頼は久野郷の観音寺の十一面観音の再興を行った。これは、治頼にとって、西方の勢力小田氏との境界線を呈示するという意味を持ったものであった。
 このころ、美濃の土岐氏では政房が没し、政頼が家督を継いだ。しかし、美濃における実権は守護代斎藤氏および小守護代長井氏に握られていた。そして、政頼を補佐する斎藤氏に対して、長井氏は頼芸を擁するなど土岐氏内部における対立が激化していた。大永七年(1527)頼芸は兄政頼を革手城に遂い、兄に代わって美濃守護となり、やがて革手城に入った。頼芸をしてこのような行動にかりたてたのは、のちの斎藤道三であった。その後、天文十一年、稲葉山城に本拠をおき美濃国の実権を掌握していた道三は、頼芸が居城とする大桑城を攻め、頼芸を美濃国より追放、美濃国を押領してしまったのである。頼芸は、尾張の織田信秀のもとへ逃れるが、その後、美濃国を回復することはできなかった。
 頼芸は常陸に一勢力を形成していた弟治頼を頼ろうとしたこともあったようだ。これに対し、治頼は兄頼芸に時々便りや特産物を届けたようで、両者の間に交流があったことは残された史料からうかがわれるのである。そして、頼芸は、治頼の子治英に対し、「当家継図一書送之候」という内容の書状を送っている。これは、土岐氏の惣領としての立場を治英に認めた行為とも受け取れるものだ。
 美濃における土岐惣領家の権威は、失われてしまった。しかし、頼芸の弟治頼は南常陸の地で土岐氏の面目を維持し、その跡を継いだ治英が勢力拡大に努めるとともに、土岐氏の再興をと自負の念を抱いていたことは疑いない。このような状況下にあて、土岐原氏は土岐氏を称するようになったものと考えられる。
 そして、治英以後の関連史料から、事実、土岐原氏の文字は消えてしまうのである。

常陸土岐氏の勢力拡大

 永正初年頃、土岐原氏の家督を若年の当主が継承したことを好機とみた小田氏は、臼田弥次郎や原内匠助らと内通し、信太庄山内衆とよばれた協力な上杉勢力を内部から崩そうと謀った。しかし、臼田氏の惣領左衛門尉と土岐原源次郎の連携は強く、小田氏の謀略は失敗に終わった。この源次郎は景成の跡を継いだ治頼と考えられる。
 その後、小田氏では成治が没し、政治へと世代が変わるが、土岐原氏との対立は続いた。大永三年(1523)土岐原治頼、近藤勝秀、臼田河内守らの上杉勢力が結集して、小田政治方の屋代城を攻め落とした。そこへ、屋代城救援の小田政治、麻生淡路守らの軍勢が到着し、屋代城の周辺において激しい戦闘が展開された。この合戦の結果、小田政治は屋代城を失い、重臣の信太氏や味方として参陣した多賀谷淡路守をはじめ、広瀬・青木・石崎氏等多くの討死者を出し、土岐原氏方の勝利であった。
 このころ小田政治は、古河公方高基の弟義明と結び付いていた。義明は永正十四年に下総小弓城の原氏を遂ってのちに小弓御所と称し、兄高基が小田原北条氏と接近すると、兄に対抗して天文七年第一次国府台合戦を引き起こす人物である。このようなことから、屋代合戦は、単に境を接する土岐原氏と小田氏の争いにとどまらず、成長過程にある小田原北条氏によって引き起こされつつある東国社会の変動のなかで起こった戦とも考えられる。
 そして、土岐原氏は主家上杉氏の衰退とともに、天文から永禄にかけて上杉氏からの自立をはかり、先に述べたような理由もあって土岐原氏から土岐氏へと改称したようだ。治英の代になると、小田氏も政治から氏治の世代となった。そして、上杉憲政が北条氏に敗れて越後に逃れたことから、土岐氏は上杉氏の下から離れて自立した勢力となったのである。
 十六世紀半ばは、東国における戦国の大きな転換期であり、土岐氏の前途も極めて多難な状況にあった。つまり、小田原北条氏の勢力が一段と拡大し、古河公方や山内上杉氏に代わって東国の中心勢力となったのである。さらに、低迷の時代を脱した佐竹氏が常陸中南部への進出を開始し、土岐氏と勢力を接する小田氏との対立を引き起こし始めた。とりわけ、佐竹氏への対応は土岐氏にとって最重要課題であった。
 佐竹氏にとって、常陸南部最大の勢力に成長しつつあった土岐氏の存在は、小田氏攻略上、極めて重要な戦力となるものであった。それは、小田氏にとっても同様であり、小田氏治は治英との友好関係を築こうとしていた。

時代の転変

 治英が、佐竹・小田の両氏から綱引きされながら次第に小田氏の陣営に傾きつつあったころ、関東の政情は大きな転換期を迎えた。永禄三年(1561)秋、上杉謙信が関東に出陣してきたのである。謙信の関東出陣は、北条氏の圧迫を受けた関東の領主たちの要請によるものであり、かれらは謙信の実力によって北条氏の圧力を跳ね返そうとしていたのである。謙信は関東の諸将に参陣を求め、関東各地の大名・領主たちは謙信の旗の下に続々と参集した。しかし、そのなかに土岐治英の名を見い出すことはできない。
 しかし、上杉氏対北条氏という対立・抗争の枠組みができ上がってくると土岐氏も新たな対応を迫られたことは確かで、治英は土岐領を分割して江戸崎城を中心とした地域と、龍ケ崎城を中心とした二つの行政単位を設定し、土岐領の安定的な支配を目論んだのである。そして、このころ家督を治綱に譲ったようだ。
 治綱の代になると土岐氏は北条氏の傘下に入り、北条重臣の松田氏から諸々の局面で指示を受けるようになっている。そして、北条氏を後ろ楯として佐竹・多賀谷氏らと対峙していたのであった。ところが、このような状況下で、土岐治綱と弟で龍ケ崎城主の胤倫との対立・不和が顕在化したのである。
 土岐氏は、この対立の解決への糸口が見い出せないまま、土岐氏は豊臣秀吉の関東侵攻を迎えることになる。
 天正十八年(1590)五月、江戸崎・龍ケ崎両城は、豊臣方の軍勢によって攻め落とされた。このとき、江戸崎城主は治綱の子頼英で二〜三歳の幼子であった。そして、叔父にあたる胤倫に養育されていたと伝える。いずれにしても、土岐氏の両城は陥落し、頼英は寛永七年に病死している。そして、ここに土岐氏は事実上断絶した。
 一方、胤倫は落城後、龍ケ崎の在に引き篭り、慶長四年に死去した。胤倫の子頼房は慶長十六年徳川家康に拝謁し、駿河国内で知行を与えられた。そして、名字を土岐から豊島に改め、紀州藩主の徳川頼宣に附属された。大坂の陣には、頼宣に従って出陣した。その後、朝治の代に土岐に復し、その子朝澄は徳川吉宗に従って幕臣となった。

参考資料:江戸崎町史/竜ヶ崎市史  ほか】


■参考略系図
 
  


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