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鏑木氏
十曜/月星
(桓武平氏千葉氏流)


 鏑木氏は千葉一族で、「かぶらぎ」と読む。千葉宗家のなかでももっとも重用された家柄で、原氏・円城寺氏・木内氏とならんで「千葉四天王」とよばれた。鏑木氏の始まりは、千葉介胤正の八男白井八郎胤時の子九郎胤定が下総国鏑木郷を領して鏑木を称したことに求められる。
 鎌倉時代の『吾妻鏡』には、嘉禎三年(1237)四月、鎌倉の大倉新御堂上棟式に際し、夜まで続けられた足利義氏邸での酒宴から将軍頼経が御所へ帰還するにあたり、千葉八郎が隨兵十騎の中にあった。翌嘉禎四年六月、将軍家の春日社御参における隨兵一番として、三浦光村・梶原景俊と並んで千葉八郎胤時の名が見える。以後、仁治元年(1240)、寛元元年(1243)に千葉八郎が見え、寛元四年(1246)八月の放生会の後陣の隨兵として千葉八郎胤時の名が見える。鎌倉幕府御家人として、千葉白井八郎胤時が将軍に近侍していたことが知られる。
 その後、胤時は上総介秀胤の謀叛嫌疑に連座して白井庄を没収されたが、千葉宗家の庇護を受け、鏑木郷を領することができたのであった。そして、胤定の養子となった胤泰が鏑木孫八郎を称したのである。
 胤泰から五代の孫にあたる駿河守公永は、千葉宗家に白井胤時の代の遺領を返還されるよう願い出て許され、白井庄は公永に渡され、公永は白井氏に復したのであった。とはいえ、公永の嫡男十郎胤元は鏑木氏の家督を継ぎ、公永の甥真壁幹成が白井氏を継承した。

鏑木氏、乱世を生きる

 『千葉氏実伝』によれば、鏑木公永のあとを継いだ胤元は臼井持胤の二男であったという。胤元は千葉家死天の家老として千葉介勝胤を補佐し、永正十年(1603)、勝胤が北条早雲と戦うため武蔵に出陣したとき、そもに出陣している。胤元のあとは胤義が継ぎ、千葉介利胤の側近として仕えた。利胤の死後、千葉介を継いだ親胤が幼少だったために、その後見職を務めて軍勢を支配した。親胤亡きあとは千葉介胤富に従属していたようだ。
 天文二十二年(1553)、越後の長尾景虎が古河公方足利晴氏を支援して関東に軍を進めたとき、千葉介親胤は景虎軍を迎かえ撃たんとしたが、胤義は原・椎名・押田氏らとともに武蔵村岡河原に陣を布いたが、千葉勢は敗れさった。翌年、北条氏康は古河公方晴氏を攻めたが、胤義は千葉介親胤の陣代として北条軍に加勢して出陣している。
 胤義のあとを継いだ胤定は、永禄元年(1558)、香取郡新里領主池内氏の楯城を攻撃し、池内氏を配下におさめた。同三年ごろから、安房里見氏の重臣正木氏が上総・下総への侵攻を繰り返すようになり、胤定は八日市場台において正木軍と戦ったが敗れ、正木勢は木内氏の米ノ井城、国分氏の矢作城を攻略した。この事態に対して、胤定は大須賀氏、木内氏、矢作氏らの諸将とともに米ノ井城に向かい、山田台において正木軍と合戦、正木軍を敗った。さらに永禄八年、原・園城寺・大須賀・木内氏らとともに海上郡飯岡において正木軍と戦い、ふたたび正木軍を敗っている。ところが、翌年胤定は病死したようで、ふたたび胤義が家政をになった。
 天正元年(1573)、胤家が祖父胤義から家督を継いだ。胤家は千葉介胤富・邦胤・重胤の三代に仕えた。胤家の代になると織田信長による天下統一の動きが急となっていたが、天正十年、信長が本能寺の変で横死すると、さらに時代の動きは急となった。信長の事業は豊臣(羽柴)秀吉が継ぐかたちとなり、秀吉は信長にまさる勢いで天下統一を進めて行った。西日本を平定した秀吉は関東・奥州にその鉾先を向けてきた。そして、秀吉は小田原北条氏に上洛するように命じてきたのであった。これに対して、北条氏政は拒絶の姿勢を示したため、ついに天正十八年(1590)、秀吉は小田原征伐の軍を起こしたのである。いえゆる小田原の役に際して千葉介重胤は小田原城に籠城し、鏑木胤家は嫡子成胤とともに鏑木城を守った。
 秀吉軍の攻撃に小田原城はよく籠城戦を続けたが、七月、ついに降伏、開城ということになった。その結果、後北条氏に味方した諸将の居城は豊臣軍に接収され、鏑木胤家も鏑木城を開いて野に下ったのである。このとき、嫡子の成胤も父とともに陰棲の身となった。ここに、鎌倉時代以来、千葉氏の重臣として乱世を生き抜いてきた鏑木氏も武将としての歴史に幕を閉じたのである。

鏑木氏余聞

 千葉介邦胤の次男粟飯原俊胤は兄千葉介重胤のあとを継いで千葉宗家の家督を相続し、子の胤正・正胤がともに鏑木を称した。胤正は浅草鳥越神社の神主となり、正胤はおなじく浅草第六天神の神主家として江戸時代、代々続いた。
 千葉介昌胤の孫胤次は下総古河に住み、弟で胤次の養子となっていた権太郎長胤は古河で兇刃に倒れた。胤次の跡は弟胤幹の子胤利が継いだが、寛文二年(1662)に亡くなり、庶兄胤房が家督を継いだ。ところが、胤房も寛文五年に亡くなり、彼らの父胤幹が鏑木家を相続した。胤幹は江戸へ出て神田に住み、その子氏胤は千葉氏の客将だった押田三左衛門に寄食し、やがて館林藩に仕えた。
 その後、館林藩主徳川綱吉が将軍となって江戸城西ノ丸に入ると、氏胤は綱吉に従って江戸城にはいって旗本に列し、百五十俵を賜った。鏑木氏は代々、嗣子に恵まれず養子が続き、結局、延享二年(1745)家督を相続した養子盛胤が宝暦三年(1753)に出奔して旗本鏑木氏は断絶した。

参考資料:論集-千葉氏研究の諸問題 など】

・お奨めサイト…●千葉氏の一族



■参考略系図


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