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井田氏
九曜(月星か)
(桓武平氏千葉氏流)


 井田氏は千葉一族とみられるが、その出自・系譜に関しては曖昧なところが多い。井田氏の歴史への登場は、刑部大輔の代であった。すなわち、文安年間(1444−48)、井田刑部大輔は上総国山辺庄小池郷を領し、飯櫃城の山室氏に仕えて勢力を拡大するようになたのである。そして、戦国末期の天正年間には坂田城を本拠として、栗山川流域一帯を勢力下におくに至った。

山室氏に属して勢力拡大

 永正二年(1505)、刑部大輔の嫡男美濃守胤俊は千葉妙見社における千葉昌胤の元服式に際して礼酒の儀をつとめ、馬一疋・太刀一腰を奉納した人物の筆頭に名を連ねている。胤俊は嫡子友胤の妻に飯櫃城主山室常隆の娘を迎え、山室氏との関係を強化しながら、その一方で、千葉介勝胤から信頼を得て重く用いられるようになっていた。
 永正十五年(1518)、小田原北条氏と小弓御所足利義明との間に不穏な空気が漂うようになり、胤俊は義明の弟足利基頼から千葉介勝胤を義明方に味方するように働くよう命じられた。しかし、千葉介勝胤は前年に足利義明に小弓城を乗っ取られたことへの遺恨もあって、小弓御所の働きかけには応じなかった。
 やがて、天文元年(1532)、井田友胤は山室氏から独立が認められ、千葉介昌胤の直臣に組み込まれた。このとき、昌胤から「刑部大輔」の官途名を与えられ、さらに「鳥目二千疋被遣之候」といった経済的援助も得ている。とはいえ、軍事上は山室軍団の一翼を担い、天文四年(1535)には、山室治部少輔勝信から所領を宛行われている。

小田原北条氏に属す

 小弓御所足利義明は、房総の里見氏、武田氏らの支援を得て、次第に勢力を拡大し千葉氏の勢力圏とその境を接するようになってきた。そして、天文七年(1538)、小田原北条氏と小弓御所とが合戦におよび、井田友胤は千葉介昌胤とともに後北条氏方に加担した。この戦いが「第一次国府台の合戦」で、戦いは小弓御所の完敗に終わり義明は戦死、里見氏らは自領に逃げ帰った。
 天文十七(1548)、友胤は大台城を築いて一族とともに移住した。まもなく、隣接する坂田郷の領主三谷氏の内訌に介入し、弘治元年(1555)、山室氏を後ろ盾として小堤城を攻撃して三谷大膳亮を討取り、三谷氏旧領を横領した。
 弘治二年(1556)、友胤の子平三郎胤徳が居城大台城を修復し、永禄年間(1558〜69)における正木氏の東総侵攻に際してはこれに激しく抗戦した。このころになると小田原北条氏の勢力が関東を席巻するようになり、千葉介胤富は、嫡子邦胤の妻に北条氏政の娘を迎え、後北条氏との関係強化につとめていた。そして、この婚姻は井田胤徳が邦胤の命を受けて奔走したようで、胤徳の働きに対して氏政が「一合一樽」を贈ったことが『北条氏政書状写』から知られる。
 千葉氏が小田原北条氏と縁戚になったことで、北条氏の勢力が下総国にも浸透し、井田氏は原氏・酒井氏・大須賀氏・高城氏・相馬氏ら下総の諸領主とともに北条氏から独立した一領主として認められた。しかし、それは後北条氏に対する従属を深めることにもつながり、後北条氏に鋭く抵抗する佐竹氏の領国と接する、いわゆる最前線の後北条氏方の城である岩槻城番・牛久城番などに動員されるなど、後北条氏の命による軍役を担うに至った。天正十五年(1587)には小田原への参陣が命じられ、十六年の正月には小田原へ到着する旨の判物を北条氏政から発給されている。

戦国時代の終焉

 天正十六年になると九州征伐を終えた豊臣秀吉が、関東・奥羽地方に目を向けるようになり、関東・奥羽の諸大名に対して「惣無事令」を発したのである。一方、関東・奥州では佐竹義重や伊達政宗、北条氏直らが合戦を繰り広げていた。井田胤徳は牛久在番の将として佐竹勢と対峙し、同年八月には佐竹方の多賀谷重経が牛久城に押し寄せ、胤徳は防戦にはげみ多賀谷勢を退却させる活躍をみせている。
 豊臣秀吉は小田原北条氏に上洛を命じたが、北条氏政はこれに応じなかったため、天正十八年(1590)、秀吉は小田原北条氏征伐の軍を発したのである。北条氏は領内の諸将士に小田原へ参陣することを命じ、胤徳も三百名を率いて小田原城に入城した。胤徳は湯本口を守ったが、七月、後北条氏が降服・開城したため、下総へ逃れ隠れた。
 その後、佐倉城主となった武田信吉に仕え、二百石を知行して佐倉領の代官となった。関ヶ原の戦いの後に信吉が水戸転封となるとこれに従い、信吉が亡くなって弟徳川頼房が水戸藩主になると頼房に仕え、子孫は水戸徳川藩士として続いた。

参考資料: 論集-千葉氏研究の諸問題/房総戦国土豪の終焉/房総の名城と名門名家をさぐる など】

・お奨めサイト…千葉氏の一族坂田城


■参考略系図



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