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臼井氏
月星(九曜)?*
(桓武平氏千葉氏族)
*家紋不詳。千葉一族の代表紋を掲載。


 臼井氏は、千葉一族のなかで最も古い一族で平安時代後期に千葉氏から分かれた。すなわち、下総権介平常兼の子常康が印旛郡臼井郷の開発のために同地に赴任して、のちに臼井氏を称したことに始まったのである。このように、臼井氏は千葉氏の有力支族である椎名氏・相馬氏・大須賀氏などよりも古い歴史を有し、白井・匝瑳・海上氏らが勢力を衰えさせたのちも、印旛郡臼井庄の臼井城を拠点として栄えた。臼井城は、志津城・岩戸城・師戸城などの支城を持ち、臼井氏は一族や重臣を派遣して守らせていた。
 頼朝の挙兵時、臼井常忠は房総平氏の惣領である上総氏に従い、上総介広常の軍勢の筆頭に、常忠の子、成常・久常が名を連ねている。しかし、のちに上総介広常は頼朝から謀叛の疑いをかけられ、頼朝の命を受けた梶原景時によって暗殺され、広常の弟である天羽直胤・相馬常清らの所領は没収。臼井氏もおそらく臼井庄を没収されたと思われる。替わって千葉介常胤が臼井庄を領掌し、常忠はその支配下にはいることとなった。
 『吾妻鏡』建久二年(1191)正月一日、千葉介常胤が年始の椀飯の儀をつとめたとき、臼井常忠・天羽直常が千葉胤正らとともに年賀の馬を曳いたとの記述がみえ、千葉常胤の麾下にあったことが知られる。

臼井氏の内訌

 十一代、臼井興胤(初名は行胤)は父・祐胤が二十五歳の若さで没し、わずか三歳で叔父・志津胤氏の後見を受けて家督を継いだ。しかし、叔父胤氏は臼井氏惣領の座を狙い、竹若丸(興胤)の暗殺を謀った。この事を察知した岩戸城主の岩戸五郎胤安は、修験者に身を変え、その笈のなかに竹若丸を隠して臼井城を脱出、印旛沼を渡って居城・岩戸城にかくまった。しかし、岩戸城は臼井城に近く、興胤を匿ったことが発覚することを恐れ、鎌倉建長寺の仏国禅師に竹若丸の身を預けることにした。
 この岩戸胤安の行動を知った志津胤氏は、胤安・胤親父子の籠る岩戸城を攻めて岩戸氏を滅ぼし、臼井氏を乗っ取ってしまった。その後、建長寺で成長した竹若丸は元服して行胤と名乗ったが、叔父胤氏が下総臼井城を押領しているため、行胤の拠る場所はなかった。建長寺は、この行胤のことを執権北条貞時に訴え出たが、退けられてしまった。
 やがて、元弘の乱が起こると行胤は新田義貞に属して鎌倉攻めに加わった。その後、建武二年(1335)の「中先代の乱」をきっかけに、建武の新政が崩壊すると尊氏に従った行胤は、臼井氏の惣領と認められ、暦応元年(1338)、臼井城を安堵された。尊氏の推挙によって、従五位下・左近将監に就任、命によって「興胤」と改名した。
 興胤は臼井氏の惣領になったとはいえ、臼井城は叔父の志津胤氏によって押領されたままであった。尊氏は越前で足利方に降伏した千葉介貞胤に命じて、志津胤氏の臼井城明け渡しを指示した。さすがの胤氏も尊氏・貞胤の命には逆らうことができず、二十年に渡って押領していた臼井城をついに興胤に引き渡したのであった。

関東争乱と臼井氏

 胤氏は志津城から臼井城に出頭して興胤に臣下の礼をとったものの、その後も興胤を侮った態度を改めなかったため、興胤は暦応三年(1340)志津城を攻め落として胤氏一族を滅ぼした。以降、臼井氏の権力は惣領家に集中することとなり、臼井氏の勢力は次第に大きくなっていくことになる。このため、興胤は「臼井家中興の祖」とよばれている。
 下って教胤の代の永享十年(1438)、関東公方足利持氏が嫡子・義氏の元服に際して将軍の偏諱を賜る「慣例」を破ろうとしたため、これを諌める関東管領・上杉憲実と対立した。これが関東の大乱の引鉄となった「永享の乱」で、乱は翌十一年に持氏の自害によって一応の収束を見た。しかし、その翌年、下総結城城主・結城氏朝が持氏の遺児春王丸・安王丸を奉じて挙兵した。この「結城合戦」に、千葉介胤直は幕府軍の一角をになって出陣したが、教胤の一族と思われる臼井五郎が結城城に籠って討死にしている。
 その後、持氏の遺児永寿王丸が許され、成氏と名乗り関東公方家が再興された。ところが、公方家の勢力挽回を企図する成氏は親幕府派の管領上杉氏と対立し、享徳三年(1454)十二月、上杉憲実の子憲忠を暗殺した。これにより、ふたたび関東は戦乱に巻き込まれることになる。この「享徳の乱」で、臼井教胤は馬加康胤・原胤房らとともに足利成氏方に加担した。一方、千葉介胤直は上杉方=幕府側に加担した。
 こうして千葉介胤直と馬加康胤の間で戦いが起こり、康正元年(1455)八月、敗れた胤直は香取郡志摩城において自害した。ここに千葉家嫡流は滅亡、代わって馬加康胤が足利成氏の認可によって千葉介を継承した。このとき教胤は臼井郷に城郭を築いたと伝えられている。
 文明十年(1478)、扇谷上杉定正は、家宰の江戸城主太田道灌と赤塚城主千葉自胤らを下総国府台に向けて出陣させた。対する千葉介孝胤は原景弘・円城寺図書之助・臼井俊胤らを従えて境根原で迎え撃った。しかし、敗れて原・木内ら多くの兵が討死し、千葉方は臼井城に敗退した。翌年正月、道灌は弟の図書助資忠、武蔵千葉自胤をして臼井城を攻撃させ、太田資忠は臼井城を攻略したが自身は討死したと伝えられている。
 その後、臼井城には自胤が城代をおいて武蔵に帰り、敗れた千葉孝胤は寺崎城に帰ったが、間もなく臼井城を攻めて回復した。太田資忠によって落城した当時の臼井城主は臼井備前守持胤で、持胤は千葉介孝胤の二男で子のなかった臼井教胤の養子となった人物であった。境根原の戦いに敗れた孝胤が臼井城に入ったのは、太田勢を迎え撃つのに寺崎城よりも臼井城の方が要害堅固であったことに加えて、二男の持胤が城主であったことも一因となったようだ。
 ところで、持胤が養子になったあと、教胤に実子俊胤が生まれたため、持胤は俊胤に家督を譲った。このことから臼井城攻防のときの城主を持胤あるいは俊胤とする二説がなされるようになった。持胤が俊胤を後見する立場にあったとも考えられるが、合戦の当時は持胤が城主であったとみていいだろう。

時代に翻弄される

 文明十八年(1486)、義兄持胤の子幸胤が元服したため、俊胤は家督を幸胤へ譲って剃髪。「玄光」と号して幸胤を後見する立場に身を退けた。延徳元年(1489)六月、扇谷定正と山内顕定の戦いでは、千葉介孝胤の名代として玄光が出陣した。
 その後、当主幸胤が十九歳の若さで没したため、俊胤入道玄光が法体のままふたたび家督を継いだ。そして永正十一年(1514)正月、嫡男景胤に家督を譲って隠居。同十四年五月、五十九歳で没した。家督を継承した景胤は、四十四年間にわたって千葉宗家の一門として絶大な権力を振るった。一説に俊胤が家督を譲ったのは、両上杉氏の和睦条件として臼井氏に養子に入った守胤であったとする説もある。
   景胤の死後は久胤がわずか十四歳で臼井家家督を継いだ。父の遺言に「小弓城の原胤貞を臼井城に招いて、土地を守れ」とあったとことから、久胤はそれに従って原胤貞を招いて後見役を依頼した。胤貞もこれに快く応じ、臼井城に入り胤貞と久胤は親密な関係を保った。しかし、胤貞の善政は次第に領民の支持を得、さらに若い久胤を侮っていた臼井家の重臣たちも原胤貞になびき、久胤は城内で孤立した存在となってしまった。
 永禄四年(1561)、安房の正木時茂の軍勢が臼井城に来攻。正木軍の猛攻によって城内は混乱し、久胤はこの隙をついて下総国結城城の結城晴朝のもとへ脱出。晴朝も久胤の話を聞いて彼を憐れみ、「十二人円判衆」という重臣の列に加え、下館城主の水谷正村に久胤を預け、正村も久胤を厚遇したと伝えられる。
 永禄九年(1566)、上杉謙信が長尾顕長を将とする軍勢を臼井城に向けたとき、久胤も結城晴朝のもとで臼井城攻撃に加わった。しかし、臼井城には原胤貞とともに名軍師・白井胤治が采配を振るっており、落城寸前にまで追い詰められたが、よく上杉勢の攻撃を防いだ。久胤の臼井城奪還は夢と終わり、以後、水谷氏の重臣として下館に住した。こうして、臼井氏は水谷氏に仕えたが、秀胤の代に水谷家を見限って藩を辞し浪人となって江戸で生活をはじめた。 のちに、間部清定に三百石の知行で招かれ、間部家の家老に抜擢を受け子孫は間部家の重臣として続いた。

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■参考略系図


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