下総原氏
月星(九曜に半月)
(桓武平氏千葉氏族) |
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千葉介満胤の四男・高胤(四郎)が、下総国香取郡原郷(千葉県香取郡多古町原)を領して原を称したといわれ、千葉介兼胤の後見人となって以降は千葉宗家の筆頭家老として宗家を支え、小田原北条氏からも「他国衆」として独立した勢力を認められていた。千葉氏が滅ぶと原氏も滅亡している。
しかし、原胤高(四郎)が領したと思われる下総国千田庄・八幡庄・臼井庄はいずれも九州千葉氏の所領であり、九州千葉氏の流れというのが事実とおもわれる。
原氏の台頭
高胤の孫胤房は、応永二十年(1413)、家督を継承し、千葉介満胤の老臣となった。満胤亡きあとは兼胤、胤直に仕え、円城寺尚任とならんで千葉家両執権となっている。そして、胤房は武勇の将として知られており、古河公方・足利成氏は彼を「頻りに御頼り」にされていたという。
その後、古河公方と京都の将軍家との争いがエスカレートし、康正元年(1455)、足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺すということがあり、将軍義政は怒って駿河守護職・今川範忠を派遣。これに対して千葉介胤直は成氏を諌め、将軍に許しを請うよう説得したが、成氏はこれを聞かず軍を集めたため、胤直は幕府側に寝返った。
しかし、胤房は成氏との関係からか、馬加胤康とともに成氏方に残り、成氏の命を受け胤房・馬加康胤は、胤直が籠る千葉郷亥鼻城に攻め寄せ、胤直・胤宣は香取郡千田庄志摩城へと逃がれていった。胤房は胤直を追撃し、ついには城落、胤直は自害し、ここに千葉氏の嫡流は滅亡した。その後の千葉氏は、馬加康胤が足利成氏から「千葉介」に任じられたことによって続いていくことになる。
胤房はこの功績によって家宰となる。しかし、康胤・胤房の天下は続かず、同年中、足利義政は東常縁を下総に下して印旛郡佐倉城を攻め落とし、康胤・胤房らの防戦もむなしく敗れて千葉城に逃がれた。そしてその翌年、常縁の千葉城総攻撃によって城は陥落。胤房は逃亡し、康胤は上総・下総の国境である村田川で自刃して果てた。
あとを継いだ胤隆は、永正十三年(1516)ころから上総武田氏争うようになり、胤隆は武田信保の軍勢を一族や千葉介勝胤とともに防いでる。しかし、武田信保は足利義明を擁立して翌年十月、小弓に攻め込んできた。 この戦いで胤隆は、義明軍を迎え撃ったものの、敗れて小弓城は陥落、胤隆らは家老の高城胤吉の居城・根木内城に逃れた。このとき、一族の原友胤父子は甲斐国に逃れて守護・武田信昌に仕えたという。
戦国時代の終焉
天文七年(1538)十月六日に起こった国府台の合戦で、千葉介昌胤・原胤清らは足利晴氏側として出陣した。そして翌七日、氏綱は相模台を攻略し、あわてて北上してきた足利義明の軍勢と矢作台で激戦となり、「小弓衆打負、御曹司様、上様、御舎弟基頼御討死」とあるように、足利義明・基頼・頼純はすべて討死した。こうして小弓城は十月九日、北条氏綱の手によって落とされ、原胤清に返還された。
永禄四年(1561)、長尾景虎が小田原城に向かって出陣したため、原氏は下総の守備のために軍勢を戻さねばならなくなり、代わって正木時茂が北上して上総を制圧し、長尾景虎の小田原包囲網の一翼を担った。翌年には北条氏康の攻勢となり、古河城に猛攻をかける。このため、古河公方・足利藤氏と兄弟は里見氏を頼って上総へ逃れ、上杉憲政・近衛前久も越後の上杉政虎を頼っって落ちていった。
こうして古河を逃れていた足利義氏が北条氏に擁立され、原胤貞も生実城に猛攻をかけてこれを奪還している。さらに 胤貞は、正木時茂の手にあった臼井城を攻め落とし、旧領を奪還した。
天正十三年(1585)、千葉氏は北条氏の麾下となったようで、原胤栄も北条氏政の指揮下に入り、下総衆の一人に加えられている。その後、豊臣秀吉の小田原征伐にあたり、千葉氏とともに小田原城に籠城したが、北条氏敗戦後、千葉氏の没落とともに原氏も没落した。
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