若林氏
丸に蔦/蛇目
(橘姓)
・若林氏の戦国期における家紋は不明である。 |
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若林氏は本姓橘氏で、本貫地は下野国桐生と伝える。進んで大友氏の臣となったというが、大友氏に仕えた時代は不祥。戦国時代、大友氏の水軍として名を馳せた。
若林氏相伝文書のなかで最も古いものは、若林源六あて大友持直知行領ケ状である。ほかに、若林弾正忠あて大友親重発給のものなど合計89点の文書が伝わっている。そして、若林氏の水軍関係を示す文書の最も古いもんは、若林上総介源六あて大友政親書状で、所望した魚の到来を喜ぶとともに、蛎を少々所望したいとあるものである。
この文書から、若林氏が海辺近くに居を構えていたことが知られる。
若林氏の所領は、佐賀郷一尺屋浦であったようで、さきの政親の文書にも「佐賀郷内一尺屋残分」等の代所として野津院内十五貫を安堵されている。このことから、一尺屋のほとんどを知行してたことも考えられる。天文十九年(1550)の大友ニか階崩れの変後、その代替地として津久見村・臼杵荘などで所領を安堵されている。このことについて、若林仲秀は「一人津久見海辺の事に候条、下され候はば、居屋敷として水居船などを覚悟仕り、海上御用等をも涯分馳走致すべく候」と、水軍としての奉公に意欲をみせている。
若林氏の水軍としての行動は、一尺屋浦の警固に若林四郎・同藤六が当たったことを喜び、また、海賊襲来に際しては即時駆け付けた若林弾正忠(四郎)に感状が与えられていることから確認できる。
若林氏が大友水軍として名を馳せるのは鎮興の代である。鎮興は佐賀郷一尺屋浦に生まれ、幼名は塩菊、大友義鎮の名乗りの一字を賜って鎮興を名乗った。
戦国動乱期の若林氏
永禄十一年、大友宗麟(義鎮)の部将の筑前国立花城主立花鑑載が毛利元就に通じて宗麟に反した。鑑載は大友軍によって攻め殺されるが、翌十二年には鑑載のあとに入った立花親続を毛利方の吉川元春・小早川隆景らが攻めて降した。これより、大友氏と毛利氏との間で筑前で激戦が続くことになる。
一方、毛利氏の宿敵尼子氏が手薄になった毛利領内に攻め入り、次々に毛利方の城を陥れた。宗麟もこれに呼応して、大友家を頼って亡命していた大内輝弘に兵を授け、毛利氏の虚を突かせた。このとき、輝弘の警固船大将に任じられたのが若林鎮興であった。鎮興は周防合尾浦に攻めかかり、自から頚市を討ち取る功を挙げている。また、宗麟感状によれば、数十人を討ち果たし、敵船一艘を切り取ったとある。参陣した一族は、若林弾正忠・藤兵衛尉・大炊介・九郎らで、それぞれ宗麟から感状を与えられている。しかし、大内輝弘が戦死したことから、大内家の再興はならなかった。
以後、元亀三年(1572)の伊予西園寺攻略、天正六年(1578)の日向侵攻、同七年の島津水軍との日振島沖合戦、同八年の国東沖合戦などで大功をあげた。天正十四年の豊薩合戦後の加増をみると、高田荘内・野津院内・佐賀郷内などに合計八十七貫分がみえる。これより先、佐賀郷多聞院・筑前国内野間口・同国博多内宝光寺が、宗麟と入魂という理由で安堵されている。十六年には、佐賀関の管理を若林氏に委ねる十一ケ条が義統から発せられている。
鎮興はこのころ剃髪したらしく、八朔の修礼の文書に若林中務入道殿と記されている。文禄元年(1592)の朝鮮出兵には水軍として参戦しているが、義統の豊後除国により浪人。同年八月伊予国二間津で病死した。
鎮興の子は統昌で、強弓をひき、剣術は柳生流の免許皆伝の腕前であったという。天正十四年(1586)島津氏の臼杵侵入の際、父とともに一尺屋丸尾砦に篭った。文禄元年、朝鮮出陣。同二年、義統堪忍衆の一人として山口表へ赴く。慶長四年(1599)義統の大坂御格護衆の一人ともなった。のち、松平定勝に仕えて二百石を食む。老後は肥前長崎に遊び、寛永十四年三月、同地で死去した。
■参考略系図
・詳細系図不詳。
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