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清水氏
三つ盛り三つ巴
(田使首難波氏族/平氏後裔とも?)
*宗治の子孫で毛利氏に仕えた清水氏の紋。


 清水氏の出自等については不詳である。『古代氏族系譜集成』に紹介された清水氏系図によれば田使首の後裔で、 源平時代に平清盛に使えた難波三郎経遠の裔とするものもある。萩藩清水氏の書上には、 宗治以前は不相知とある。 清水氏の名をあげたのは宗治で、天文六年(1537)、備中南部の清水城主清水宗則の二男として生まれた。 通称を長左衛門といい、はじめ三村氏に仕え、のちに高松城主石川左衛門佐久孝に属した。
 石川左衛門佐久孝は、備中守護代をつとめた幸山城主石川氏の一族で、備中国南部の国人連合の旗頭であった。 その麾下には、長谷川・鳥越・生石・上原・中島・林ら一郡半郡を領する国人衆がいた。 清水宗治は久孝に見込まれてその娘婿となり、幸山(高山)城を居城にしていたといわれている。

高松城主となる

 高松城主石川久孝には男子がなく、船山城主須々木某の末子筑前なるものを養子にしていた。 久孝が他界したのち、ほどなくして筑前も早世してしまった。 筑前にも男子がなかったため、石川氏の跡目をめぐって家臣たの間に争論が起こった。 長谷川氏らの諸将は須々木氏から新たに養子を迎えようとしたが、 久孝の娘婿である宗治は反対してみずから城主になることを望んだ。 永禄八年(1565)、高松城内の寄り合いの席上、宗治は長谷川を誅殺し、 諸将から人質をとって盟主となり高松城主となったのであった。しかし、須々木氏らの有力国人領主らは宗治が城主になったことに反発、宗治は対抗勢力に対して 謀略を尽くしたようである。戦国武将らしく、なかなかの下剋上の人物であった。
 天正二年(1574)、三村氏を見限って毛利氏に転じ、小早川隆景の麾下に属して数々の戦功をあげている。 同六年、毛利氏の上月城攻めが起こると隆景に属して出陣、城が落ちた後、隆景から奥郡の攻略を命じられた。 以後、備中奥郡の攻略に努め、やがて備中一国は毛利氏の支配するとことなった。そして、 奥郡のおさえとして毛利元清が猿掛城に入った。かくして宗治は、宮地山・冠山・鴨庄・日幡・松島・庭瀬の諸城 と並んで毛利氏領の東端備中境の守備に任じたのである。
 天正十年、小早川隆景は宗治ら備中境七城の城主を三原城に呼び、 織田信長が中国平定のため部将羽柴秀吉、蜂須賀正勝、黒田孝高らが備前まで進出、宇喜多直家が 先鋒になるであろうと語った。そして、織田方に内通を考えている者は、いまのうちに信長に帰伏したらよかろう と言い渡した。対して清水宗治ら七人の城主は、一命を捨てても城を死守することを誓った。  三月、備前岡山に出向した秀吉は、高松城と相対した。高松城には、 宗治ほか兄宗知(月清入道)、中島、林、荒木、湯浅、新倉などの諸将が籠城していた。 かうして秀吉は、高松城をはじめとした毛利方七城の攻撃を開始した。 鴨庄・日幡・宮地山城はあっけなく秀吉の軍門に降り、冠山城は激戦のすえに落城、高松城と庭瀬城は 秀吉軍の猛攻撃に果敢に抵抗を続けた。
 高松城の抵抗に手を焼いた秀吉は、後世に名高い「水攻め」によって城を包囲し、高松城は湖に浮かぶ孤城となった。 毛利氏は安国寺恵慶の仲介により、秀吉との講和をすすめることとなった。そして、 本能寺の変を機に秀吉から毛利氏に講和条約が出され、宗治の切腹をもって講和の証と決まった。 宗治は、城兵の命を救う為、1582年6月、湖上に舟を浮かべ自刃した。享年四十六歳であったという。 この時、兄である月清入道、難波伝兵衛、毛利の軍監査末近らも宗治とともに自刃した。こうして高松城は開城され、 城中の諸氏は備後へ退出、宗治の妻子は備中川辺へ退いた。

清水氏、近世へ

 秀吉が天下をとってのちに、宗治の嫡子景治を大名にとりたてようとしたことがあったが、景治はそれを断わり毛利氏方に残えた。以後、小早川隆景に属して各地に転戦し、秀吉の朝鮮出兵にも小早川軍として参加、碧蹄館の戦いでは前線で活躍し、隆景から感状を受けている。隆景が養子の秀秋に筑前・筑後を譲った際、景治は秀秋に仕え、のちに秀秋が秀吉の怒りをかって領地没収となったあと毛利氏に復している。
 関ヶ原の戦いで毛利氏が八ケ国から二ケ国に領地を削られ、萩に転封となったとき、景治は窮迫した毛利氏の 財政立て直しに腕を振るった永代家老益田元祥の財政改革を補助しその実現に尽力したという。 のちには江戸家老職に任じられている。萩藩における清水氏は、毛利一門、永代家老家に次ぐ「寄組」の一家として 続いた。

【主な参考資料:備前軍記・岡山県史・日本城郭体系13 など】

お奨めサイト:清水宗治 -中世備中の武士-


■参考略系図
・『古代氏族系譜集成』に紹介された清水氏系図から作成。  
  


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