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海部氏
●藤丸に藤文字
●藤原姓/鷲住王後裔  
 


 平安時代に成立した『和名類聚抄』のなかの阿波の南部に、「加伊布郷」がみえている。加伊布とは海部のことで、大里古墳ならびに和奈佐意富曾神社を中心とする下灘地方であったと推測されている。そして、平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域は「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。そして、中世の阿波南部海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。海部氏の出自に関してはは藤原姓ともいうが、古代豪族の後裔とする説もあり、いまだ定説がないというのが実状である。
 そのようななか、海部氏の起りに関する説として、海部郡司の後裔とするものがある。海部川にのぞむ吉田山には、むかし、海部郡司が築いた吉田城があったと伝えられている。そして、吉田城主である海部郡司は海部川流域の農業地帯を支配していたという。その後、海部郡司は海部川流域の支配地を地頭や庄官などに横取りされないように、武力をたくわえるようになり武士団海部氏へと成長していったというのである。
 他方、『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。それによれば、鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。
 鷲住王とは、履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物である。鷲住王のことはともかくとして、阿波南部の荒野を開拓した海部氏の先祖を中心として、海部武士団が成立したことは疑いのないことと思われる。

海部氏の勢力拡大

 さて、宍咋庄は木材が主産物で、切り出した木材は宍咋湊から都に積み出していた。阿波南部に勢力を築いた海部氏も、はじめは木材の積出湊として栄えた宍喰に拠点をおいていたものと思われる。そして、十六世紀のはじめの永正年間(1504〜20)、藤原之親が吉野に本城を築き、海部川下流一円の農業地帯を支配するようになった。
 ところで、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいに勢力を伸張したものと思われる。記録によれば、享徳年間(1452〜54)から天文年間(1532〜54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
 まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。
 応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、足利幕府の威信は地におち、全国的に下剋上が蔓延する戦国時代となった。各地に新興勢力が割拠し、かれらによって荘園は押領され、領地の一円支配を行う戦国領主が登場してきた。それは海南地方も例外ではなく、鷲住王の子孫を称する各氏が城を築き、それぞれの地域の支配者となり、互いに勢力を競い合った。
 海部氏は、それら諸勢力と拮抗しながら、経済力を強大化し、海部川流域の名主たちを支配下に収めていった。そして、永正八年(1511)、海部吉野城主の藤原持共は覚成寺を建立、ついで享禄三年(1530)には藤原持定が杉尾神社を建立したことが、残された棟札から知られる。海部氏は吉野城を本拠として、海部川流域に確固たる勢力を築きあげていったのである。

阿波南方の強豪に成長

 かくして海部川流域を中心として阿波南部の実力者に成長した海部氏は、さらにその勢力を確固たるものにするため、阿波の実権を掌握する勝端城の三好氏と姻戚関係を結び、隣国土佐の豪族安芸国虎とも親しい関係を結んだ。さらに、一族を領内の要所に封じて、領国体制を整備したのである。
 之親のあとを継いだ左近将監友光は、吉野城は海部川河口からみてかなり山側に位置しており、土佐からの侵入に対する防衛という点から、海部川河口にある靹浦を見下ろす岡に新たに城を築いた。これが海部城で、靹浦にあることから靹城とも呼ばれた。残された記録などから、永禄年間(1558〜69)に築かれたものと思われる。
 友光は『阿波誌』に「藤原友光、また海部左近将監と称す。釈服して宗寿と号す。源元長の女婿、吉清の父也、河内高屋に至り、三好山城守を援く云々」とある。そして、友光の嫡子吉清は「永禄・元亀の間、靹城に拠る、海部七城を領す」とみえている。海部友光・吉清父子が靹城を主城として勢力を誇っていたことがうかがわれる。
 やがて、隣国の土佐では岡豊城主の長宗我部元親が安芸氏、一条氏らの対抗勢力を没落させて一国の統一をなし、四国統一を目指して虎視眈々たるものがあった。このような情勢にあって、勝端城の三好氏は昔日の勢いはなく落ち目になりつつあった。三好氏に属していた阿波の国人らのなかには、長宗我部元親に気脈を通じるものもあり、情勢はさらに不安定の度を増していた。海部城主の友光は、三好方にあって土佐に対する最前線の防衛につとめていた。
 元亀二年(1571)、元親の弟島弥九郎が有馬温泉へ湯治に行く途中に靹浦に寄港した。これを知った友光は、ただちに弥九郎を討ちとった。これが引鉄となって、長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、天正三年(1575)、元親は大軍を率いて海部城を包囲、攻撃した。このとき、吉清は三好氏の要請を受けて讃岐に出陣し、寒川氏の昼寝城を攻撃していた。そこへ、長宗我部軍が阿波に侵攻したとの知らせがあり、阿波軍は取るもの取りあえず兵を引き上げた。

海部氏の没落

 一方、長宗我部軍の攻撃を受けた海部城では、友光が鉄砲の名手である栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦につとめたが、衆寡敵せず海部城は落城し海部氏は没落した。城を逃れた友光は、紀州の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるが、その最後は不明である。一方、讃岐に出陣していた吉清は、海部城も落ちたため、帰るところを失い阿波の西方美馬三好に落ちていったという。
 三好氏が阿波南部の押えとしてもっとも頼りにしていた海部城が落ちたことで、牟岐・日和佐・由岐・桑野などの諸城も次々に落城していった。海部氏が没落したのち、海部城には香宗我部親泰が入り、長宗我部氏の阿波侵攻の拠点となった。そして、天正十年(1582)には三好氏のあとを継承した十河氏が長宗我部軍に敗れ、阿波は長宗我部氏が支配するところとなったのである。・2005年03月12日

参考資料:宍喰町史/海南町史/海部町史 ほか】


■参考略系図
・『海部町史』『海南町史』より作成。  


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