安中氏
三つ巴/桐*
(後嵯峨天皇後裔/桓武平氏城氏流)
*安中誌に「巴桐」とあるが、巴と桐を用いたのであろう。 |
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戦国時代、安中・松井田の両城を拠点とした安中氏の出自については二説がある。
一つは、後嵯峨天皇より出るとするもので、三位少納言惟基が、建治元年(1275)原市簗瀬に城を築いて居住した。その後中納言重国の代、康永のころ(1343)越後国新発田に移住した。その際新発田の奥原五郎入道を退け、越後に居住すること二十二代安中出羽守忠親におよんで、ふたたび上野国碓氷郡松井田に移り小屋城を築いてこれによった。長享元年(1487)のことであるという。そして、惟基を惟康親王の嫡子としているが、『本朝皇胤紹録』などに惟基の名は見えない。もう一つは、平維茂より出るとする説である。世に上州八家の一と目され、安中越前守忠政の代から知られるようになり、その子忠成に及んだとする。また、忠政ではなく春綱で、その嫡子を左近大夫広盛として春綱が安中城を広盛に譲り松井田城に隠居したという説もある。こちらの説は越後の城氏と祖先が同じということになる。
いずれにしろ、安中氏の出自に関する諸説はいずれも信ずべき史料に欠けている。そして、安中氏が越後の新発田に住したという事績、それを物語る史料は存在しない。のみならず、佐々木盛綱が源頼朝から越後加治庄を賜り、その二男盛秀が新発田に分家し、以後、戦国時代の重家に至るまで、連綿と新発田には佐々木流新発田氏が割拠していた。安中氏に関する所伝は疑わしいと思わざるをえない。
安中氏の上州土着
安中忠親が松井田へ移住したのは、長享元年(1487)であることは、いずれの史料も一致している。
『安中記』には「長享元年丁未四月、上野国碓氷郡松井田小屋城ヲ建テ越後国新発田ヨリ引移ル」とあり、『上野志』には「越後国新発田より長享元未四月、上野国碓氷郡松井田西城小屋へ引移り住居す」とある。
忠親が松井田に城郭を築いて住んだのか、既にあった城を修理して住んだのか、また移住に際して地方土豪との摩擦はなかったのかは知るべくもないが、忠親が松井田城を築いたときあるいは移住してきたとき、おそらく先住領主との抗争があったであろう。実際、忠政が安中へ築城したとき、庭窪図書を退けている。庭窪氏はのちに安中氏の家臣となり、安中氏の家臣団の中核である秋間七騎の雄となっている。また、秋間七騎のうちの奥原新左衛門は、一説に安中氏の祖といわれる重国が越後新発田に移住のとき、退けたと伝わる奥原五郎入道の後裔であろうと推定され、安中氏の前身がどこにあったかをうかがわせる。忠親は永正三年(1506)に九十三歳で死去したが、当時において長寿の人物であった。
忠親のあとは榎下城を設けてそこに居住していた弟の忠清が継いだ。忠清は従三位を称して、榎下城で病死したという。そのあとは子の忠政が継ぎ榎下城を守っていたが、碓氷郡野尻郷に改めて城を築き、永禄二年(1559)四月、榎下城より新城に引き移った。この時野尻を改めて安中にしたと伝え、新城も安中城と呼ばれるようになったという。
安中氏が上州の戦国大名の一人として台頭すると、いち早くこれに着目したのが箕輪城主長野業政であった。業政は沼田城主の沼田顕泰の女松尾姫を忠政に媒酌し、自分の女を忠政の子忠成に配して女婿とした。安中氏としても上州の名門長野氏と姻戚関係を結ぶことで、さらに発展を図ろうとしたのである。
ちなみに、最盛期の安中氏の領国は碓氷郡一円に及んでいた。『安中記』の記述によれば、八万千四百石余とみえ、江戸時代の碓氷郡の総石高が三万七千四百石で、安中記にみえる石高をそのままに受取ることはできないが、立派な戦国大名であったことは間違いない。とはいえ、安中氏は全盛期といえどもその支配権は碓氷郡全域には及んでいなかったようだ。のみならず、長野氏の幕下にあた事情からみても、戦国大名として自立していたか否かの判断は難しいともいえそうだ。
永禄六年、忠政は安中城を子の忠成に守らせて、自らは松井田小屋に移った。この処置は、信濃における武田信玄の活動が激しく、隣接する新田(後閑)・小幡の両氏が甲斐に去ったこともあって防備を再整備する必要に迫られた。加えて信玄が上州箕輪城主長野業政の死去を聞き、兵二万を率いて来攻するという事態に備えるためであった。
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・写真:安中城祉
武田氏との攻防
『甲陽軍鑑』によれば、信玄が碓氷峠を越え愛宕山城に駐留させていた浅利・小宮山らが、天文十六年(1547)、松井田(松枝)衆と競り合ったことが記されている。このときの戦闘で松井田衆は三十二人討ち取られたとあることから、松井田城はこのときすでに存在し、松井田を本拠とする数百人からなる武士団があったと考えられる。
天文十八年、忠政を大将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦ったという「三尾寺合戦」があったというが、その場所も詳細も不明である。また『上野志』には翌十九年三月、信玄が松井田城を攻撃したというが、これも詳細不明である。同二十一年、関東を逃れた山内上杉憲政を庇護した長尾景虎(のちの上杉謙信)は、平子・庄田・宇佐美氏らを将として兵を出し平井城を奪還したが、このとき忠政が長尾軍を先導したという。
その後、武田信玄の西上野に対する出兵はやむことなく、弘治三年(1557)、忠政らの上州諸将は、箕輪城主の長野業政を大将として瓶尻において武田勢と戦ったが、瓶尻は松井田城の南にある人見原であろうといわれる。永禄四年(1561)十一月、信玄は梅原明神に西牧・高田・諏訪の三城の攻略を祈願して兵を進め、高田城を降した信玄は、安中・松井田間に楔を打ち込むカタチで八幡平に陣を築き、永禄五・六年に碓氷の麦作を刈り取り、苗代を薙ぎ払い、安中氏の戦力低下をはかりつつ、永禄七年の夏、安中・松井田両城に攻撃をかけた。
忠成は武田氏に降って安中氏の存続をまっとうしたが、父忠政は松井田城を守って頑強に抵抗した。しかし、衆寡敵せず二の郭までも押し破られ、さらに内応者も出てついに力尽きて開城、信玄は忠成の勇武を惜しみつつも自刃を命じた。信玄は小宮山・原の両将に松井田城を受け取らせ、市川国貞を城代として戦後処理を終えた。一方で箕輪城は武田軍を引き受け、手強く戦ったが、ついには落城して、城主長野業盛以下一族ことごとく自刃して果てた。
武田氏、麾下に属す
武田氏に降った忠成は甘利晴吉の妹婿とされて、以後、武田氏の旗下となった。この忠成を『上野志』では広盛に作って左近将監とあり「騎馬高百十八騎、武田信玄へ降参。安中の城本領共に甘利左衛門妹婿に仰付けられ候。信州・美濃信玄軍場に詰むるなり」とあって、甘利の幕下として信州に詰めていたらしい。永禄十年八月、安中左近大夫景繁から曾根三河守宛の起請文は、この間の消息を語るものであろう。
景繁は忠政の改名と考えられている。ちなみに同文の起請文が安中家繁・同繁勝から曾根三河守に出されている。これは安中衆と称され、『上野志』にある「武田家の時、西上州地付騎馬に、碓氷郡一騎当千といふ衆あり。是を甲州にて西上先方衆といひ、亦安中衆ともいふ」にあたるものである。
かくして武田信玄に降伏した安中一族は、その後信玄の子勝頼に従い三河の長篠に出陣し、天正三年(1575)、織田信長と勝頼が戦ったの長篠の合戦に参加しことごとく討死したのであった。安中に帰国したものは一人もなく、安中城は荒廃化して耕地と化してしまった。安中忠親が松井田の小屋城を築城してから、安中忠成が三河の長篠において一族全滅に至るまで、八十八年間に過ぎない。残った安中一族には、後北条氏に従ったものもあったようだ。
ところで、武田信玄の上州箕輪城攻めに際して、松井田城を守って戦死した忠政の嫡男忠成は武田氏に降ったが、二男忠基は出羽国庄内へ落ち延びた。そして、忠基の嫡子は忠栄と名乗り、安藤右京進重長の客分として仕えのちに家臣となった。二男家繁は秋元摂津守高知に仕え、代々年寄を務めた。結果は別として安中氏の血脈は残ったといえよう。
安中一族異聞
安中氏の史料のひとつとして、勢多郡宮城郡に鎮座する赤城神社に安中久繁の祈願状がある。安中久繁については系図が明らかではないが、群馬郡大類の安中氏の家系に、顕繁・家繁・繁勝の名があり、これら繁を通字とする人物は安中氏の傍系と思われ久繁はこの家系に属する人物であったろうか。
『戦国人名辞書』に寄れば、久繁を左近大夫広盛につくり、「上野安中城主、上杉謙信に属したが後武田信玄に降る。のちに所領を失った」とみえ、天正六年赤城神社に領地恢復を祈願、同十年織田信長に降って滝川一益の家臣となった。本能寺の変後、滝川一益と北条氏が神流川で戦ったとき参戦、合戦後北条氏に降り天正十八年(1590)の小田原の役において滅亡したという。
【参考資料:安中市史/安中市誌 ほか】
●写真は、
群馬の城郭から転載させていただきました。
■参考略系図
・安中氏の詳細系図は不詳。
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