ヘッダイメージ



雨森氏
十二葉付三つ橘
(藤原北家高藤流)
・芳洲庵の瓦に据えられた家紋を撮影。


 雨森氏は北近江からあらわれ、磯野氏、赤尾氏、井口氏とともに湖北の四家として知られる。戦国期には浅井家に仕え、一族から雨森新助、五兵衛、長介ら数々の武将を輩出した。京極高広と浅井久政が戦ったとき、浅井方の部将として出陣した雨森弥兵衛が陣没している。島秀安の書き残したという「島記録」にも海北善右衛門、雨森弥兵衛が戦死したことが記され、その死が惜しまれている。また、長政の麾下に雨森次右衛門、藤六の兄弟が活躍、元亀元年の姉川の合戦において奮戦したことが記録に残っている。これらのことから、雨森氏が浅井氏の家中において相応の地位にあったことがうかがわれるのである。しかし、織田信長の攻撃によって、小谷城落城、浅井氏が滅亡するとともに雨森氏も没落した。
 さて、雨森氏の出自に関しては藤原氏の後裔ともいうが、『近江伊香郡志』には正確なる系図の拠るべきなきをもって、的確に同家の由来を知り難いとある。また、江戸時代の明暦三年(1657)に雨森勝直の記した『江州伊香郡富永庄雨森郷侍衆覚書』にも、「昔の文書系統、依焼失種姓不分明」と記されている。雨森勝直は戦国時代末期の天正十七年(1579)生まれの人物だが、勝直の代において、雨森氏の事績はすでに失われていたことがわかる。たとえ栄えた家であっても、その没落とともに伝来の文書が散逸し、家の歴史がわずかの間に失われてしまうことが実感できるのである。。

雨森氏の発祥伝説

 『出雲雨森氏系図』によれば、雨森氏は藤原高藤の後裔高良の三男良高がはじめて雨森を称したとある。良高は三歳にいたるも言葉をいえなかったといい、さらに良高を高良の実子ではないと誹る者があらわれ、良高の母は良高をつれて実家越前に帰っていった。これを憐れんだ高良は、三種の名香を与え家臣六人を随行させたという。やがて、良高ら一行は近江国富永庄に至ったが、ときに雨雪が降りしきり、駅近くの森において雨雪をしのいだ。そのとき、良高ははじめて「アメモル」と言葉を発し、母をはじめ一行は良高のはじめての言葉を喜んだ。
 ときに一行をみた村人は、けだし常人にあらずとして、この地に留まることをすすめた。良高の母は村人の誘いをいれて、はじめて良高が言葉を発した近江富永庄に止まることに決めたのだという。そして、良高が発した「アメモル」にちなんで村名を「雨森」と呼び、成長した良高は雨森三左衛門と称するようになったと伝えている。
 そして、二十歳を超えた良高は内裏護衛の命を受け、その任にあたること三年を経たころ、子孫の安全を願って龍神に祈りを捧げた。すると夢のなかで龍神から橘を与えられ、目玉を書き置けば子孫より水難を除くべしとの霊夢を見た。これを瑞祥とした三左衛門は「橘」を家紋とし、「蛇の目」を幕紋に用いるようになったのだという。これら系図の所伝をそのままに信じることはできないが、雨森氏系図の多くが三左衛門良高を租にし、橘を家紋にしている。
 系図をみると代々三左衛門を称し、室町時代の三左衛門良繁は足利義満の命によって後小松天皇の武者所になったとある。さらに、良繁の孫良友は磯野員定の娘を、その子良広は伊賀光就の娘を娶るとあり、北近江、美濃の有力者と姻戚関係を結んでいた。

近世に生き残る

 室町時代、北近江は佐々木京極氏が守護職に補任され、浅井・上坂・今井らの国人領主が京極氏の被官となっていた。雨森氏も京極氏に仕えたと思われ、京極氏に代わって浅井氏が勢力を拡大すると、その麾下に属するようになったようだ。そして、海北氏、赤尾氏と並んで、浅井氏家老「海赤雨の三将」の一人と呼ばれる存在になった。
 姉川の合戦に奮戦した雨森次右衛門、藤六の兄弟は、次右衛門清良・勘六清次兄弟と思われ、清良が戦死したのち清次が雨森氏を継承した。浅井氏が滅亡したのちは、阿閉氏に属したが、山崎合戦ののち渡岸寺村に蟄居した。その子清広は出雲松平家に四百石をもって召し抱えられ、子孫は出雲において続いたという。その他、各地において雨森氏が散在しているが、それぞれの系図関係は不明な点が多いようだ。
 雨森氏においてもっとも有名な人物はといえば、雨森芳洲があげられよう。芳洲は雨森清納の長男として北近江の雨森村に生まれ、はじめ俊良と称し、仕官・還俗後は藤五郎、さらに東五郎と称した。父没後に江戸へ出て木下順庵に入門、新井白石・室鳩巣・榊原篁・祇園南海と共に『木門の五先生』に数えられた。元禄元年(1688)、順庵の推挙をえて対馬藩に仕えるようになり、朝鮮支配役の補佐役をつとめた。芳洲は藩の通訳養成制度の確立に尽力し、自宅を私塾として多くの後進の育成にもつとめた。芳洲は享年八十八歳をもって対馬に没したが、その故郷である伊香郡雨森の地に東アジア交流ハウス「雨森芳洲庵」が建てられ、国際人としての先覚者雨森芳洲の遺徳と業績にふれることができる。
.
雨森氏縁りの地を歩く


・雨森氏の居館跡に立てられたという「雨森芳洲庵」、敷地内には優雅な庭園が手入れもよく広がり、周囲に残る土塁跡が戦国武将雨森氏の居館跡であったことを感じさせる。芳洲庵の一角には、芳洲を祀る「芳洲神社」が建立されている。


・「雨森芳洲庵」の前には清冽な水が流れ、いまは懐かしい水車が廻っている。近くを散策すると南北朝時代の光巌天皇ゆかりの天川命神社が鎮座し、三つ引両の神紋が随所に据えられている。
・雨森氏が浅井氏に従って出陣、奮戦した姉川古戦場跡。

参考資料:余呉町史/伊香郡誌/雨森氏系図集覧 ほか】


■参考略系図
・「雨森氏系図集覧」所収の雨森氏系図から作成。  


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
近江浅井氏

日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
名字と家紋にリンク

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com