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秋山氏
三階菱
(清和源氏加賀美氏流)


 秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったこと始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。
 初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。
 かくして世捨て人同様の存在に没落していた秋山一族であったが、ふたたび世に出るきっかけとなったのが「承久の乱」であった。乱に際して、秋山氏は尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛した。戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったと伝える。

戦国時代の秋山氏

 戦国時代の秋山氏は秋山領を有して、曾根の勝山城主である油川信恵と盟友関係にあった。信恵は甲斐守護職武田信縄の弟で、兄信縄と家督争いを起した人物であった。永正三年(1506)に信縄が死去し若冠十六歳の信虎があとを継ぐと、信虎から甲斐守護職を奪い取ろうとして反乱を起した。このとき、若年の信虎に比べて年齢的にも壮年にあった信恵に加担する国人勢力が多く、秋山氏も油川氏を支援した。孤立無援の信虎は、永正五年、折からの台風の夜をついて油川氏の拠る勝山城を襲撃した。一方、台風ということで油断をしきっていた勝山城はたちまち大混乱に陥り、油川氏は討ち取られ武田一族の抗争は信虎の一方的勝利に終わった。
 この「油川の変」のあと、秋山一族は信虎の家臣に列するようになり、府中の躑躅ケ崎に館を構えたのである。このころの秋山氏の当主は新左衛門信任で、大永六年(1526)ころ、のちに信玄に仕えて活躍を示す信友が誕生したようだ。
 信友が戦場に登場するようになるのは、武田信虎が天文十年(1541)、晴信と重臣らのクーデタによって駿河に追放されたのちで、同年に信友は十五歳で元服している。翌十一年、晴信の諏訪攻めに従い、六月、諏訪軍との戦いで初陣を飾った。このときの戦いにおいて信友は目覚ましい奮戦ぶりを示した。ついで、駒井高白斎の隊に加わった信友は伊那へ進撃し、高遠城を攻略し伊那の福与城に迫った。福与城を死守する藤沢頼親を将とする伊那勢と激戦を展開し、信友は城内に一番乗りを果たした。
 戦後、信友の活躍に対して晴信は自ら報賞の言葉を与え、父信任の二十騎を上回る五十騎の侍大将に抜擢したのである。その五年後の天文十六年(1547)二月、信友は馬場・小畠らとともに伊那に攻め入り、その年二十一歳の若さで伊那警護の責任者となった。そして、伊那の反武田勢力である知久・座光寺氏らと戦い、次々とそれらを降し、天文二十三年には小笠原長時の弟小笠原信定の拠る松尾城を落し、ついで下条氏を降した。
 ここにおいて、上伊那、下伊那はまったく武田氏の支配下に入り、信友は伊那郡代の大役に任じられたのである。その後、永禄五年(1562)六月に勝頼が高遠城代に決まり、飯田城に城替えとなるまで信友は伊那郡代の任にあたった。

織田軍と対峙

 永禄十年、信長の子城之介(信忠)と信玄の娘松姫との婚約話が成立、翌年、信友は信玄の名代として祝言の品を届けるため岐阜城へ赴いた。信長の喜びようは異常なほどで、自ら信友の盃に酌をしたり梅若大夫の能を特別に演じさせたうえに、長良川で鵜飼いの実演を披露してもてなすなど下にもおかぬ歓待ぶりであった。
 元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の軍を起こした。このとき、秋山信友は伊那先方衆を率いて、美濃国恵那郡にある岩村城の攻撃を担当した。秋山軍の岩村城攻撃に際して、信長は織田信広と河尻秀隆を援将として派遣した。織田の援軍に対して秋山勢は伏勢をおいて、たちまちのうちに潰滅的打撃を与えて退けたのである。
 信友は遠山景任に降服を呼びかけたが景任はそれに応ぜず、返って、包囲する秋山勢に対して出撃してきた。遠山軍の奮戦に秋山勢もよく応戦し、遠山勢は戦死者を残して城内に引き揚げていった。この乱戦のなかで遠山景任は手傷を負い、結局それが命取りとなって戦傷死した。景任の死を知った信友はふたたび降服開城を勧告したが、籠城勢はそれに応じようとしなかった。
 景任夫人は信長の叔母のおつやの方で、おつやの方は前年に養子として迎えていた信長の六男御坊丸(勝長)を城主として、織田からの援軍が来るまで徹底的に抗戦することを主張した。このとき、岩村城将の織田掃部は信友との合戦をかわすため、おつやの方と信友を結びつけ、御坊丸の養育を条件に和睦を申し入れた。これに対しておつやの方は猛反対したというが、城内も次第に窮乏状態となり、病死・餓死する者も出てきた。ここに至っておつやの方は信友の降服勧告に従い城を開いたのである。
・写真:岩村城址(お城めぐりFAN)

秋山氏の最期

 信友は座光寺以下の将卒三百五十騎とともに岩村城に入ると籠城兵に水・食糧を与えて介抱し、遠山夫人と夫婦の契りを結び岩村城将となった。その翌日、御坊丸は人質として甲府に送られたが信玄は養子にするつもりであったという。
 天正元年(元亀四年=1575)、間もなく、武田信玄が死去したことで武田軍は兵を甲斐に帰し、信玄のあとは勝頼が継いだ。武田軍が撤退したことを確認した信長は、二万の兵を率いて岩村城を攻めたが勝敗はつかなかった。そして天正三年、長篠の戦いで勝頼が敗走すると岩村城は孤立化し、織田信忠を大将とする二万の大軍が攻めてきた。
 信友を主将とする籠城軍は半年に渡って抵抗を続けたが、信忠の総攻撃によって攻め落とされ、捕えられた信友は信長の命で遠山夫人らとともに長良川畔で殺された。没年四十九歳、逆さ磔だったという。

●岩村城の歴史岩村町観光協会) ●岩村城(武田家の史跡探訪) ●岩村城/(お城めぐりFAN)

●武田氏の家紋─考察


■参考略系図


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