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赤堀氏
●三つ頭左巴
●藤原氏秀郷流
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十四世紀のはじめ、鎌倉幕府が滅亡し南北朝期の争乱のなかで、世の中の秩序は大きく動揺した。それは、室町時代の慢性的な戦乱のなかで下剋上の風潮を生み、ついには戦国時代へと連鎖していくのである。
伊勢国は南北朝期に南朝方北畠氏が国司に任ぜられ、これに対抗して北朝足利氏は高師秋を、さらに仁木義長、土岐頼康をつぎつぎと守護に補任した。そして、伊勢国は南北両朝の戦いが繰り返され、高氏、仁木氏、土岐氏らは没落の運命となり、国司北畠氏のみが戦国時代に至るまで勢力をよく維持した。
戦国時代になると、南伊勢を北畠氏が領し、安濃郡長野を拠点とする長野氏、鈴鹿郡関・亀山に拠った関氏がそれぞれ勢力を振るい、合せて「伊勢の三家」と称された。これに加えて、三重郡千種城主の千種氏、河芸郡神戸城主の神戸氏、朝明郡萱生城主である春日部氏の三家を合せて「六人衆」と呼ばれて、それぞれ勢力は強大であった。さらに、北伊勢には四十八家と称される諸領主が割拠していた。
近世に成立した軍記物語である『勢州軍記』の「北方諸侍の事」には、「北方諸家は源平争乱以後、北条足利まで代々領地を賜っていた人々である。まず三重郡千草家、これは一千の大将である。同郡宇野部後藤家、これは後藤兵衛実基の後胤である。同郡赤堀家、これは俵藤太の後胤である。同郡楠家五百の大将である。奄芸郡稲生家、これは物部守屋の後胤で幕紋は丸の中に二つ鷹の羽である。朝明郡南部家、幕紋は藤の丸鶴の丸である。同郡加用(萱生)家、同郡梅津・同郡富田家は伊勢平氏富田の進士家資の後胤である。(中略)以下諸侍の四十八家あったという。」と記されている。
赤堀氏は『勢州軍記』にみえるように田原籐太藤原秀郷の裔と伝えられ、足利俊綱の子足利又太郎忠綱の流れという。忠綱は「治承の役」のとき、宇治川先陣の功により上野国赤堀荘を賜わった。そして、忠綱の弟泰綱の玄孫孫太郎教綱が赤堀氏を称したと伝えられている。
伊勢赤堀氏の台頭
赤堀氏の伊勢への来住の正確な時期については、確かな史料がなく不明としかいいようがない。赤堀氏と伊勢の関係は神宮領である「勾御園」の地頭職を有していたことにあるようだ。すなわち、観応三年(1352)「赤堀下野守跡」の勾御園地頭職が、園城寺衆徒に与えられているのである。跡とあることから、それ以前に赤堀下野守は勾御園地頭職を有していたとみて間違いない。
他方、赤堀氏の本貫の地がある上野において、赤堀一族の香林直秀が足利尊氏から淵名荘内香林郷を安堵されている。これは観応の擾乱において、直秀が尊氏に味方して戦ったことに対する恩賞であった。直秀は時秀の子で、時秀は文和四年(1355)の史料に赤堀又太郎時秀として現れる人物である。一方で、赤堀氏の惣領と思われる赤堀三郎左衛門が文和二年に上野国赤堀郷貢石馬村、伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されている。南北朝期、赤堀氏は又太郎系と三郎左衛門系が両立していたことが知られる。
その後、香林を称していた時秀が赤堀を称すようになり、上野赤堀氏として続いていることから、三郎左衛門の系が伊勢に移住したと考えられる。その地は、野辺御厨あるいは勾御園であったと思われるが、それを裏付けるものはない。伊勢赤堀氏のうち、史料上に現れる人物は、民部少輔直綱で、応永三年(1396)、員弁郡にあった久我家領石槫(いしぐれ)荘の代官を請負っている。
また、土岐氏が伊勢守護であったとき、赤堀氏はその被官として活動し、三郎左衛門・兵庫入道らの名が史料にみえる。このころの赤堀氏の所領を知るものとして『室町幕府管領施行状案』があるが、赤堀氏は鈴鹿郡・員弁郡・三重郡の内に所領を安堵されており、赤堀氏がかなり広範囲な所領を支配していたことが知られるのである。さきの三郎左衛門は赤堀氏の嫡流と思われるが、民部少輔直綱らもふくめ系図上における位置付けは不明である。
伊勢において勢力を拡大し、三重郡の有力国人に成長した赤堀氏が挫折に見舞われたのは、正長元年(1428)の北畠満雅の挙兵においてであった。いわゆる「正長の乱」であり、赤堀氏は関一党とともに北畠氏に味方して幕府軍と戦い、満雅は戦死し赤堀氏は降服、以後雌伏を余儀なくされたのである。
伊勢の戦国時代と赤堀氏
その後、赤堀氏の動向が史料上で明らかになるのは、文明年間(1469〜86)からで文明元年(1469)に赤堀兵庫助と浜田親綱の名が現れる。そして、浜田親綱には「赤堀浜田」と記されていることから、浜田氏は赤堀氏の一族であった。赤堀氏の系図によれば、景綱八世の孫にあたるという孫太郎盛宗が、伊勢栗原に城を築いたのが伊勢赤堀氏のはじめと伝え、三子のうち盛宗を羽津に、忠秀を浜田に置き、赤堀氏の家督は秀宗が継いだとある。系図の所伝をそのままには信じられないが、赤堀氏が三家に分かれたことは確実で、そのなかでも浜田氏が嫡流であったようだ。
さて、戦国時代における赤堀氏の動向を『四日市市史』から拾ってみると、
永禄二年(1559)、工藤の長野勢が赤堀・浜田両家を攻めようと塩浜に上陸したところを、浜田・赤堀が長野勢を迎撃したといい「浜田合戦」と呼ばれている。翌永禄三年、神戸氏と対立する関氏の北征に先んじて、羽津勢は神戸氏の与力である茂福城に攻め寄せた。茂福城には富田の南部氏、萱生の春日部氏、柿の沼木氏が籠城しており、羽津勢には関氏の白子・鹿伏兎勢が加わり激戦となった。そのとき、神戸勢は船で富田・富田浜に上陸して茂福勢を助けたため、両勢は垂坂山麓の幣我野に展開し、ついに羽津・関勢が敗走となった。この戦いは「茂福合戦」と呼ばれている。
永禄三年、尾張の織田信長は桶狭間において遠江・駿河の太守今川義元を討ち取り、一躍、戦国時代の雄として登場した。以後、信長の勢力は拡大を続け、伊勢にもその鉾先を及ぼしてきた。
永禄十年、滝川一益を大将とした織田軍が伊勢桑名表に侵攻してくると、南部、加用、梅津、冨田氏らはみな織田に服属した。翌永禄十一年、信長は四万の大軍を率いて、ふたたび伊勢に侵攻してきた。このとき、赤堀氏は千草・宇野部・稲生氏とともに信長の幕下に入った。以後、赤堀・千草・南部・浜田・茂福氏らは滝川一益の与力となり、信長軍の一翼を担ったのである。
永禄十二年、大河内城に拠って織田信長に抵抗を続けていた伊勢国司北畠具教も信長と講和したことで、伊勢一国は信長の支配下に入った。
赤堀氏の終焉
その後の元亀二年(1571)、茂福城主朝倉盈豊が滝川一益のため長島城に誘殺され、城主不在となった茂福城は滝川勢に攻められ落城、一益は山口氏を目代として置いた。翌元亀三年、茂福城目代山口氏は羽津城主近宗を招き、歓待の席において毒殺した。近宗を殺害した山口氏はただちに羽津城を攻撃、羽津城はあっけなく落城した。
そして、天正三年(1575)、神戸友盛が没落すると滝川一益は北伊勢に侵攻し、浜田城を囲んだ。浜田勢は滝川勢を迎え撃ったが、城主の元綱は戦死し、嫡男の重綱は夜陰に乗じて美濃へ敗走した。ここに至って、北伊勢に勢力を誇った赤堀三家は没落の運命となった。浜田城から逃れて美濃に去った重綱は織田信雄に属して、天正十二年、信雄と豊臣秀吉との戦いに信雄方として出陣した。しかし、美濃加賀野井の戦いで戦死し、伊勢赤堀氏の血脈は断絶した。・2005年6月17日
【参考資料:四日市史 など】
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■参考略系図
・『尊卑分脈』『四日市市史』から作成。
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