一色氏
二つ引両
(清和源氏足利氏流) |
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一色氏は清和源氏、足利氏の一族である。足利頼氏の兄弟に公深がおり、これが一色氏の祖となった。同じ兄弟から家氏が斯波氏を、義顕が渋川氏を、頼茂が石塔氏を名乗っているがすべて同族である。
公深の子に範氏があり、足利尊氏が建武三年(1336)、九州に下ったときそれに従い、尊氏の上洛後も九州の地にあって九州探題として、少弐氏・大友氏・島津氏らに号令して南朝方勢力と戦っている。範氏には直氏・範光・範房の三人の男子があった。
範氏のあとは範光が継ぎ、その跡を詮範が継いだ。詮範は将軍足利義満に従って山名氏清を討ち、その功によって若狭国今富庄を与えられた。次いで詮範の子満範の代になって丹後国守護となり、明徳三年(1392)から応永十六年(1409)まで若狭・丹後両国の守護大名として君臨することになったのである。こうして一色氏は侍所の所司となり、有力守護大名、赤松・山名・京極の諸氏とならんで四職家のひとつに数えられるようになったのである。
一色氏は早くから室町幕府に属した京都系の一色氏と鎌倉府に属した関東系の一色氏に分かれており、のちに幸手城主となる一色氏は、範氏の子直氏にはじまる関東系一色氏の一族である。
関東公方家に仕える
直氏は九州探題を勤めたが、いつごろ、どのような事情で子孫が関東に下向したのかは不明である。おそらく、姻戚関係などを通じて鎌倉公方に結びついていったと考えられる。『鎌倉大草紙』によれば、応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」に際し、一色兵部大輔・子息左馬助・同左京亮が足利持氏に従い、また同三十三年には一色持家を大将とする千余騎の軍勢が、持氏の命で武田信長退治のために甲斐国へ発向したという。
持家の名は持氏の偏諱を与えられたものと思われ、かれはその頃相模国の守護であった。鎌倉大草紙には、結城合戦で結城氏朝に加担して殺害された一色伊予守、成氏に従い分陪河原で上杉氏の軍勢を撃破した一色宮内大輔など、一色氏の記事が散見できる。しかし、かれらを一色系図上の人名に比定することはきわめて困難であり、たとえば一色持家にしても、それに該当する人物は系図のなかには見当たらない。
一色宮内大輔については、幸手一色氏の嫡流が用いる「宮内大輔」の官途を名乗っていることから、あえていえば直清と同一人物であった可能性もある。
さて、「一色系図」によれば、十六世紀初めのころの幸手一色氏の当主は宮内大輔直頼であった。ところが、かれの事蹟は、享禄元年(1528)十二月、足利晴氏の元服式に際して、古河公方家の宿老の一人として登場する一色氏が直頼であろうと推察されるのみである。そして、直頼には、直朝と伊勢福丸の二人の子があったと記されている。
この直朝が幸手一色氏のなかで、最も輝かしい事蹟を残した人物であった。直朝の史料上の初見は、天文十四年(1545)である。当時、直朝は晴氏の奏者の一人として簗田氏らとともに活躍していた。また、直朝は幸手城主として古河公方の軍事力の支えともなっていた。それゆえ、天文十四〜五年の河越合戦に際しては、簗田氏らとともに河越城に出陣した。
幸手一色氏の台頭
天文二十一年、北条氏康の甥にあたる義氏が古河公方になると、直朝は義氏に従う立場をとった。弘治元年(1555)義氏の元服式に参列し、永禄元年(1558)の鶴岡社参詣のときも義氏に従った。この間義氏は小田原・鎌倉などに住み、やがて氏康のはからいで関宿城に入った。しかし、永禄四年には関東に出陣してきた上杉謙信のために関宿を追われ、下総小金などを経て鎌倉に移っていた。そして、永禄十二年の「相越同盟」によって古河城に入城したのである。
この間、直朝は義氏に従って鎌倉方面に住んでいたという。そして、義氏の古河入城とともに幸手城へ帰還した。このように、直朝は、ほぼ一貫して義氏に忠勤を励んでいた。直朝は幸手に帰ると間もなく出家して、家督を嫡子の義直に譲った。義直も義氏の古河入城の時に父と同様に幸手へ帰住したようである。
天正四年(1576)、義氏に子が生まれたとき、父直朝とともに古河城へ参内し、五年ころには義氏から多賀谷重経領の飯沼天神宮砦の普請の様子などについて手紙を送られ、さらに義氏に対する年頭の挨拶や八朔の祝儀なども忘れずに行っている。そこには、古河公方の重臣としての任務を果たし続ける義直の実直な姿があった。しかし、元亀年間(1570〜73)以降になると、古河公方義氏は、かつてのように関東の領主たちに大きな影響を与えることはなくなっており、実質的には特殊な権威をもつ後北条領国の一領主という存在に変わっていた。そして、義直も後北条氏の家臣団と変りない扱いを受けるようになったのである。
たとえば、天正二年(1574)に行われた古河公方御料所の知行割では、一色義直はかなり遠隔地の知行地を配当されているのである。同十年、古河公方義氏が没するが、その後の幸手一色氏の動向は不明となる。おそらく、直朝は幸手城の支城ともいうべき天神島城に移り、隠居したものと思われる。
戦国時代の終焉
その後、豊臣秀吉の後北条氏攻めに備え、北条氏照は滝山城をはじめ関宿・栗橋など六城の守備と四千五百騎の兵力動員を定めた。しかし、このような緊迫した状況のなかで、幸手一色氏や幸手城の動静がどのようなものであったのかは、具体的な史料もなくほとんど不明である。おそらく幸手城は、栗橋城を背後から支える立場で合戦に備え、天正十八年(1590)五月ごろ栗橋城とともに降伏、開城したのであろう。そして、一色義直に関する史料によれば、天正十八年五月、岩槻城攻めに際して義直が豊臣方の浅野長政を支援したことがみえている。そのころ、義直は豊臣方の立場に立っていたようだ。
天正十九年、一色義直は徳川家康から幸手領内に五千百六十石の知行地を宛行われている。義直のあとは子の照直が家督を継ぎ、慶長十二年に嗣子がないまま病死した。そのため、義直は外孫にあたる直氏を養子に迎えて家督を継がせた。そのころ幸手一色氏は下総国相馬郡木野崎村に知行地を与えられて、そちらに移り住んで幸手の地から離れていった。
【参考資料:鷲宮町史/幸手一色氏 ほか】
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