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中坊氏
●繋ぎ梅鉢
●菅原道真後裔
 


 戦国争乱の大和にあって筒井氏を支えた中坊氏は、菅原氏後裔の柳生永珍の弟某が山城笠置寺の衆徒となって中坊氏を称したことに始まるという。元弘の乱に際して後醍醐天皇が笠置寺に臨幸されると、衆徒の某は楠木正成を推挙するなどの功により、それまで失っていた小柳生庄を賜った。しかし、某は同庄を兄永珍に譲り、永珍の子家重が小柳生庄を領して柳生を称したという。そして、家重の孫秀政は奈良備前守を称し、その孫秀友が中坊美濃守を称して中坊氏の祖となった。
 一方、藤原北家の豊成三代の孫治部大輔秀清が奈良に住して奈良氏を称し、その後裔の飛騨守秀祐が中坊に改めたともいう。いずれだ他愛いのか、その真実を詳らかにすることはできないが、江戸期になった『寛政重修諸家譜』では藤原姓になっている。

大和の戦乱

 大和の乱世は南和の越智氏と北和の筒井氏が対立、国衆は越智党と筒井党に分かれて抗争が繰り返された。室町時代以後、中坊氏は筒井氏の配下にあった。応仁の乱以来戦国時代初期にかけて、越智党の優勢が続き、没落を続けている筒井党のうちに中坊の名が見えている。やがて、畠山氏、細川氏らの内訌に乗じて、筒井党は復活を遂げてくるが、天文年間(1532〜54)、順昭の時代になると大和一国を統一する勢いを示すようになる。
 順昭の台頭は山内の簀川(須川)城攻めにはじまった。簀川城主の簀川氏は古市氏に属し、筒井氏に味方する狭川氏と敵対関係にあった。天文十二年四月、順昭は簀川城を攻撃、簀川父子を討ち取った。筒井衆も手負い衆は限りなくあったというが、そのなかで中坊某が討死している。その後、順昭は越智氏の貝吹城を攻め、さらに十市氏の城を攻略したが、覇業なかばの天文十九年に病死してしまった。
 永禄二年八月、三好長慶の重臣松永久秀が大和に侵入してきた。当時、筒井氏は若年の順慶を叔父の順政、福住・中坊氏らが支えていた。翌年三月、久秀は井戸氏の拠る井戸城を攻撃、順政は救援に駆け付けたが敗れ井戸城は陥落した。同八年十二月、筒井方の攻撃で井戸城を奪い返したが、中坊駿河守が二千ばかりの軍勢をもって井戸氏を援助している。。
 この直後の『多聞院日記』には、「中坊藤松殿十五歳で始めて陣に在る」と記されている。ついで永禄十二年の条には「中坊藤松殿龍雲院に於て、得度在之、英祐」とみえ、翌十三年の条には「蜂起始如例在之、中坊飛騨守始テ出仕云々」とみえる。以上『多聞院日記』には、中坊飛騨守英祐が成人・出家のうえ官符衆徒として成長してゆく過程がうかがわれる。飛騨守英祐は駿河守の息男であったものであろう。ついで、同記元亀二年(1571)の条には、「中坊飛騨守男子誕生付、両種・樽一荷遣之」とある。この飛騨守の子は英祐の子秀政と思われる。

筒井氏の興亡

 永禄十一年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、松永久秀はただちに信長に通じて大和経略を許された。順慶も信長に通じようとしたが許されず、筒井氏は苦闘の時代が続いた。その後、久秀は武田信玄に通じて信長に反旗を翻すなどしたが、滅亡にはいたらず信長麾下にあった。天正二年(1574)正月、中坊飛騨守は筒井順慶の織田信長への接近の足固めのために岐阜の信長のところに上り、その一ヵ月後に筒井順慶は岐阜へと向かっている。
 天正四年、原田直政が大和守護に任じられたが、ほどなく本願寺との戦いで直政は戦死、そのあとの大和守護は筒井順慶が任じられた。一方、松永久秀はふたたび信長に謀叛を起し、信貴山城を攻められて滅亡した。かくして、苦難の末に順慶は大和一国の支配者となったのである。天正十年。本能寺の変で信長が横死、つづく山崎の合戦を制した羽柴(豊臣)秀吉が天下人に出頭すると、順慶は秀吉からも大和一国の支配を安堵された。
 天正十二年、筒井順慶が病死すると、養子定次が家督を継いだ。そして同十三年、伊賀上野城へ転封となると、中坊飛騨守は家老として伊賀国へ従った。ところが、伊賀に移ってから以後筒井定次は酒色に耽り、やがて人心が離れていった。天正十五年二月には、筒井家の重臣森好高、ついで同年三月には松倉重政、次いで翌十六年二月には島左近父子が筒井家を去り、あとに残った大和以来の重臣は中坊氏くらいであった。
 その後、慶長五年(1600)に関ヶ原の合戦が起ると、筒井定次は東軍として行動し、西軍方の島左近の軍とも戦った。戦後、定次は伊賀一国を安堵されたが、遊興は止むことがなく、政道も不平が多く、家臣も互いに確執するところがあった。かくして、慶長十三年(1608)六月、中坊秀祐はこれを駿河に訴えたため、筒井氏は改易、定次は陸奥岩城の鳥居氏に預けられた。

中坊氏、近世へ

 定次改易の一件に関しては、大坂城の豊臣氏を討とうと画策する家康にとって伊賀の筒井定次は邪魔な存在であり、飛騨守をして讒言させて取り除いたのだとする説もある。たしかに、定次が没落したのち飛騨守秀祐は奈良奉行に任じられ、また吉野において三千五百石を賜った。飛騨守讒言説もにわかに真実味をおびてくるが、真相は薮の中というしかない。
 ちなみに、定次の改易の理由を『慶長見聞録案紙』などには、「不義」とあるのみだが、当時伊勢亀山城主であった松平忠明の記録といわれる『当代記』も中坊飛騨守の讒言と考えられる定次の「行跡」は「常に被官以下にも対面せず、山中に籠って鹿狩りばかり云々」とあり、いわゆる定次の奇行がうかがえる。
 慶長十四年二月、定次を訴えた中坊飛騨守は、伏見においてかつての同僚山中某によって殺害された。世人は「主君を訴えた逆臣だけに是非もない、天罰を蒙ったのだ」と言い交したと『当代記』に記されている。理由はともあれ、秀祐が世間から主家を潰した張本人としてみられていたことが知られる。
 秀祐の跡は、子の左近秀政が継いで、父と同じく奈良奉行を勤めた。以後、子孫は封を継いで明治維新に至っている。・2007年11月11日

【参考資料:奈良県史・11巻 ほか】


■参考略系図
    


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