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武士と苗(名)字
鎌倉武士において、苗字は社会的な地位や権限をも示した。
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苗(名)字の地
日本には古代氏姓制度があった。氏(ウジ)では葛城・蘇我・紀・中臣・物部・毛野・出雲など、姓(カバネ)では真人・朝臣・宿禰・連・臣などがそれだ。だが、平安時代になると、真人・朝臣・宿禰らの姓は廃れ、有力豪族は藤原朝臣にならって朝臣を称するものが増えていく。旧豪族の大伴氏らは、次第に藤原氏の前に勢力を失い、中央政局にあっては、藤原氏の北家を中心に、皇室から分流した平氏や、源氏・橘氏らによって占められて行った。この源・平・藤・橘の四氏が日本の名流と意識されるようになると、地方の豪族も勝手にこれら四氏の子孫と称し、自らの貴種を誇る風潮も、古代国家の解体とともに起こってきたのであった。
平安時代の中期を過ぎるころになると、日本全国は、ほぼ四種の氏ばかりとなった。源・平・藤・橘である。あまりにも紛らわしかったのだろうか、やがて平安末期になると氏のほかに苗字を名乗るという風が成立した。
とくに顕著だったのが、鎌倉武士の世界だった。著名なものに畠山重忠がある。正式の呼称では畠山荘司平次郎重忠である。これは、”畠山の荘司である平氏の二男の重忠”という意味で、平が氏で畠山が苗字である。この例でも分かるように、多くの苗字は地名に由来していた。
●畠山氏一族の苗字
●関東地方における武士の土着を地図で見る
しかし、同じように地名を苗字にしてはいても、公卿と鎌倉武士とでは、おのずから相違していた。
公卿の苗字には、京都とその周辺の地名が、圧倒的に多い。一条・二条・九条・正親町・室町・西園寺・花山院・土御門・中御門・烏丸等々がそれらである。
これに対して鎌倉武士の苗字に京都の地名はまずない。そして荘園と御厨、または郷保などの地名が多い。
相模武士を例にみると、愛甲・石田・大友・糟谷・渋谷・中村・波多野・三浦・毛利・山内などが荘園で、大庭が御厨、梶原・俣野・長尾・飯田・土肥などが郷である。武蔵武士では稲毛・小山田・児玉・下河辺・豊島・畠山などが荘園で、榛谷が御厨、金子・久下・熊谷が郷で、ほかに小野牧の小野、師岡保の師岡がある。
これら鎌倉武士の苗字になった地名で注目すべきは、すべて単なる地名ではなく、また、単なる居住地という意味だけではなかったことである。先述の畠山荘司の例のように、荘司・御厨司・郷司・保司など、社会的身分や権限、あるいは収入源などを示す役割をともなっていたのである。
このような意味で、苗字のもとになった地のことを、当時、「苗字の地」と呼んでいた。一言でいえば、鎌倉武士の苗字になった地は、彼等の所領の地だったのである。京都の公卿の苗字の地が単なる住所だったのとは根本的に違っていたのである。
一所懸命の地
鎌倉武士にとっての苗字の地は、単に苗字のもとになった地ということではなかった。自分自身はもちろんのこと、一族郎党を養っていくための収入を得る地であり、社会的な地位や権限をともなう役職を示す地であった。このような意味で鎌倉武士にとっての苗字は、現代のように自他を識別するだけの機能しかない名字とは、さまざまに相違している。
たとえば清和源氏というひとつの氏のうちに、足利という苗字をもった集団があった。いわゆる足利一族である。このうち下野足利荘を惣領相伝した本宗家は、代々、足利という苗字を名乗った。しかし、本宗家から所領を分与された一門庶家は、それぞれ分与された小所領の地名を名乗ったので、また新しい苗字が成立することになった。同様の例は、同じ清和源氏を氏とする新田一門にもみられる。
足利氏一門の苗字 |
新田氏一門の苗字
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長瀬・飽間・蒔田・柏木・上地・荒川・諸井・小鹿・瀬名・品川・堀越・西尾・名和・角和・広沢・水田・杉原・
大野・矢田・仁木・細川・戸賀崎・畠山・岩松・田中・吉良・桃井・今川・斯波・石橋・大崎・最上・渋川・石塔・
一色・加古・丹羽・上野・小俣・篠原・関口・阿久沢・入野・木田・大木・垂木・西条・東条・新朝など
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青柳・浅見・荒井・安養寺・一井・今井・牛沢・江田・大井田・大岡・大島・大館・岡本・尾崎・小沢・小幡・
金井・金谷・桐生・額戸・籠守沢・佐田・里見・篠塚・青龍寺・関岡・世良田・田井・高林・田中・谷川・寺田・
得川・鳥川・鳥山・豊岡・長岡・成瀬・羽川・平賀・古山・細谷・堀江・堀口・山名・由良・横瀬・隈部・脇屋など
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そのようにして発生した苗字は、すべてかれらが命を懸けて守ろうとした地、すなわち「一所懸命」の地名だった。だから所領が変われば、当然のことながら苗字も変わることになる。相模三浦荘の領主三浦義明の長男が、同杉本城の城主として杉本義宗と名乗り、その長男が同和田郷を領して和田義盛となり、その三男が上総朝夷郡にあって朝夷義秀と称したのは、その一例である。
●三浦氏から分かれた苗字
また同一人物であっても、一所懸命の本拠地が変わると、その苗字も変わる。源平合戦初期に小山田荘の領主だった小山田重成は、源平合戦後に源頼朝から同稲毛荘を拝領すると、以降、稲毛重成と名乗っている。
これとは反対にまったく血統の違う人物が、同一の苗字を名乗った例もある。先にでた桓武平氏流の畠山重忠が戦死したとき、その未亡人北条氏は亡夫の遺領武蔵畠山荘を相続し、これを持参金として清和源氏流足利義純と結婚した。以降、義純は畠山義純と名乗り、清和源氏流畠山家が成立したのである。
江戸時代に入って農民が苗字を公称することを禁じられたのは、このような意味があったからである。鎌倉武士が苗字を名乗ったというのは、その苗字の地の領主であったことを誇示するということだったのである。
官職由来の苗字
鎌倉武士が所領の地名を苗字にしたということは、その地でなんらかの役職を有しているということを誇示したものだった。ということは、場合によっては地名ではなく、その役職を苗字にしてもよいということになる。実際、鎌倉武士の苗字のうちには、役職に由来したものも決して少なくない。
秀郷流藤原氏の武藤資頼は、九州大宰府の大宰少弐に任じられた。以降、子孫は少弐という苗字を名乗った。また奥州藤原氏が滅亡した翌年、源頼朝は伊沢家景を陸奥国留守職に任じた。国司が遥任して現地に赴任してこないとき、国司が留守になっている役所を預かるのが留守職であるが、この留守職に任じられた家景とその子孫は、留守という苗字を名乗っている。
平安末期のころ、桓武平氏平繁茂は、古来から蝦夷征討のために置かれていや秋田城に入り、秋田城介に任じられた。以降この系統は秋田城介あるいは略して城を苗字としたが源平合戦に敗れて滅亡した。かわって秋田城介に任じられたのは、安達景盛だった。以降景盛とその系統は、秋田城介ないし城を苗字にしている。
鎌倉幕府の問注所執事を代々勤めたのが三善康信の子孫だった。この系統の苗字が問注所になったのも、官職由来の苗字の一例である。
苗字の固定化
所領や官職に由来する鎌倉武士の苗字は、それにともなう権限や身分の誇示主張だった。だから所領や官職を失えば、苗字も変わることになる。なかには先祖の所領や官職を名乗るものもあったが、その例は少ない。
ところが鎌倉中末期、鎌倉北条氏に異変が生じた。京都の地名を苗字にした公卿に倣ったのか、鎌倉とその周辺の地名を名乗ることが多くなったのである。同時に赤橋流とか金沢流というように、苗字の固定化が始まったのである。
前者の例が、阿曽沼・江間・桜田・平野・松崎・高倉などで、後者の例が赤橋・極楽寺・大仏・常葉・名越などである。
南北朝内乱の混乱を経て、苗字の固定化はさらに進行した。所領や官職を失っても、武士は苗字を改めようとしなくなった。この段階で苗字は家名あるいは名字に転化したといいえよう。
やがて江戸時代、厳重な家名尊重の風が確立したが、その基礎には家禄と長子単独相続制があった。そういえば、苗字がどんどん創造あるいは変更された鎌倉時代は、惣領制というか分割相続制が一般的だったのである。
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