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戦国山城を歩く
赤井氏の三尾城攻めの陣城─譲葉山城
戦国時代の丹波氷上郡(現丹波市)に勢力を誇った赤井氏、
後屋を本拠として、黒井城、高見城、三尾城などの
城塞を築いて八木城主内藤氏、八上城主波多野氏と丹波を三分、
赤井直正は但馬にまで勢力をおよぼした。
永禄十一年、織田信長の上洛を契機として丹波の戦国時代は転機を迎え、
赤井氏ら丹波の武士たちは信長と対立、
信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めに抵抗を続けることになる。
その最前線を担ったのが赤井幸家の守る三尾城で、
三尾城は赤井氏と結ぶ波多野氏が支配する多紀郡とを繋ぐ要地でもあった。
光秀は氷上郡と多紀郡を分断するため多紀から氷上に通じる鐘が坂峠に金山城を築き、
さらに夏栗砦、栗柄砦、そして譲葉山城の陣城群を築いて
赤井氏の抗戦を封じ込めていったのであった。
譲葉山城は氷上郡柏原の東方にある標高594メートルの譲葉山の頂上に築かれ、
登り口の東奥からの比高差は450メートルを測る高所にある。
登りはじめると柏原八幡宮の神宮寺であった大安寺跡があり、
わずかに観音堂が残るばかりだが、その規模から推して
中世における八幡宮の繁栄ぶりが知られるところだ。
山道はハイキングコースになっていることもあって、よく整備されているが、
その急なこと、むかしの人の身体能力に毎度ながら感嘆させられる。
・柏原市街より譲葉山を遠望
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登山口の道標と柿の木 ・ 大安寺跡と観音堂 ・ 尾根筋へ ・ 尾根筋の片堀切状地形 ・ 西城へ
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西城−主郭切岸と腰曲輪 ・ 主郭から堀切を見る ・ 紅葉の尾根筋道 ・ 尾根筋から金山城址を遠望 ・ 竪堀か?
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譲葉山城は尾根西端部に譲葉山西砦、東方山頂の譲葉権現が祀られる
譲葉山東砦とに二分される。
山頂の東砦は権現の祀られた南郭と北郭に分かれ、
いずれも土塁囲みの方形主部と削平地とで構成されている。
南郭の土塁は見事なもので、西に設けられた虎口は折れをともなった先進構造である。
東城は戦う城というより、兵站基地といった印象を与えるものだ。
一方の西城は、堀切、竪堀を設け、西方に対する防衛を意識した構造となっている。
さらに、城域には矢竹が生い茂り、譲葉山東城の前衛として戦う
機能をもっていたことが実感される。
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東城−東曲輪虎口 ・ 東曲輪を取り巻く土塁 ・ 尾根より土塁と祠を見る ・ 自然地形の南の尾根筋曲輪 ・ 虎口の土塁
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西尾根より見た東曲輪の土塁 ・ 東城−西曲輪の土塁 ・ 東城−曲輪を見る ・ 北尾根筋の土橋状地形 ・ 木の間越しに三尾山城を遠望
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……………
譲葉山山頂は植林地帯となっていて、展望はほとんどないが、
木々の合間から東に三尾山、南に金山、西に高見城山が見える。
また、北尾根をまっすぐに下った先には黒井城があり、
譲葉山が赤井氏の城塞群を分断する格好の位置を占めていたことがわかる。
この譲葉山に目をつけ、陣城を築いた明智光秀の戦略眼はなかなかのものだ。
譲葉山の山上は植林地帯となっていて、まったく見晴らしのない寂しいところだ。しかし、
途中の尾根にある展望台からは東方に鐘が坂峠を封じる金山城が望め、
西方を見れば眼下に柏原の町、さらに高見城山までが一望できる。
さらに、北尾根に伸びる中腹からは三尾山から多紀連山が姿を見せる。
低山歩きを楽しみながら、丹波戦国史を彩る山城探索が楽しめるところである。
ところで、この城を発見されたのは、『近畿の山城』を運営されているSさんで、
山城探索への情熱にはいつも感服させられている先輩だ。
譲葉山城も山歩きのときに城址であろうと確信されたそうで、
その眼力にはまことに恐れいるばかりだ。
・柏原の町、高見城山を俯瞰
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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