戦国山城を歩く
奥丹波に名を刻む西遷御家人余田氏の居城─余田城砦群


余田城は誉田城とも書かれ、丹波国氷上郡東方にある余田谷の最奥部に築かれた山城である。余田谷は上鴨坂・下鴨阪・徳尾を総称したもので、余田谷を東西に貫通する道は、西にたどれば鴨内峠を越えて青垣と結び、東は竹田を経て北に丹後、南に春日へと通じる要路であった。余田谷一帯は西方に存在した御油荘の寄人らが荘外の公田(クデン)を拓き、御油荘の名をかたって国の課役を逃れようとした。のちに御油荘余田として賀茂神社に寄進されたが、 荘外の公田であったことから「余田(ヨデン)」と呼ばれるようになったという。
城主の余田氏は久下・足立・吉見氏らと同様に関東から丹波に西遷してきた関東御家人の系譜をひく武家であった。 伝によれば、元暦元年(1184)二月*、余田又太郎為綱が関東より余田谷に来住したという。 元暦の合戦の功において源頼朝の一番の御意にかない、「丸に一文字」の紋を畠山六郎によって下されたと伝える。元弘三年(1333)、足利尊氏が篠八幡で倒幕の兵を挙げたとき、久下弥三郎をはじめ芦田・酒井・中沢・山内らの丹波武士が馳せ参じたとき余田氏もその一人であった。余田氏の歴史はよく分からないが、余田和三郎兼知は弓の達人、余田太郎兼里は槍の達人であったといい、 全盛期には余田谷を本拠として現在の市島町域を席捲する勢いがあったようだ。

・前山川越しに余田城址を見る(左方:余田西城址)
* 余田氏の丹波来住は、はやくとも源頼朝が征夷大将軍に任官された建久三年(1192)以降のことであろうと思われる。 ちなみに、余田氏と同様に関東から丹波に遷ってきた青垣の足立氏は承元三年(1209)に移住してきたという 伝承をもっている。



城址を見上げる ・ 西尾根の二重堀切(破線) ・ 土橋 ・ 西の城−切岸と曲輪 ・ 上鴨阪城址を遠望


西の城−東端曲輪 ・ 西の城東端の堀切 ・ 西尾根より東の城西端切岸を見る ・ 東の城−西曲輪から見た尾根筋 ・ 西曲輪西端の土塁


余田城は宗福寺後方の山上尾根一帯に築かれた梯郭式の山城で、東の城と西の城とに分かれている。主体は東の城でピークの主郭を中心に東に腰曲輪群、南に帯曲輪、そして西方尾根筋に腰曲輪が二段築かれ、その間は堀切で遮断されている。曲輪の削平も丁寧で、 曲輪の切岸も十分な高さを有し、西方尾根の西端の土塁、虎口なども残っている。
鞍部を越えて西方に続く尾根をたどれば西の城で、西端曲輪の東直下に堀切と竪堀、西方のピークに曲輪群を築き、その西尾根は二重堀切で切られている。さらに谷筋を隔てた西の小山に余田西城、 谷を隔てた南の小山に上鴨坂城、北方に東山城などを築いて余田谷を固めていた。
城址へは西の城主郭に立つ鉄塔へ至る登り道が、南山麓にある余田氏の菩提寺という萬松山宗福寺から通じている。また、西方の鞍部より尾根筋を西の城へ直登する方法もある。現在、西の城と東の城を結ぶ尾根筋が藪化しているが城址そのものの残存状態は良好で、 とくに主体となる東の城は当時の姿をよくとどめている。



西曲輪と主郭西腰曲輪の切岸 ・ 西腰曲輪西直下の堀切 ・ 西腰曲輪土塁と主郭切岸 ・ 西腰曲輪虎口へ ・ 西腰曲輪と主郭切岸


主郭切岸と南帯曲輪 ・ 東腰曲輪と主郭切岸 ・ 東腰曲輪から主郭へ ・ 主郭より西腰曲輪を見る ・ 南尾根−熊野神社曲輪


余田西城
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余田城とは鞍部を境にした西の小山上にあり、二つの曲輪で構成されている。 東の曲輪は主体部の曲輪の東西に土塁を築き、曲輪西端の尾根先に堀切が切られ、北側斜面に帯曲輪を段状に設けている。 西の曲輪は東尾根筋に段状に小曲輪を築き、主体部の曲輪には東西に土塁を設け、南部に帯曲輪を築いている。 全体に削平は甘く、余田城を主体とする兵站基地として築かれた陣城であったようだ。


東曲輪東端部切岸 ・ 東曲輪西端堀切 ・ 西曲輪虎口(破線) ・ 西曲輪西端の土塁 ・ 西尾根より見る西曲輪西端切岸


上鴨阪城
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余田城と呼応して南北から余田谷を遮断する小山上にあり、南北の斜面は急峻、城域の東西尾根筋を堀切で遮断した要害である。 主郭部の切岸は見事な高さで、東尾根筋に曲輪を段状に設け、北東部に広い帯曲輪を配し、竪堀に連なる堀切で東尾根を断っている。 城址に立つと余田城・余田西城址が北方間近に見え、余田城砦群として東方からの敵襲を意識した城であったことがよくわかる。


西の堀切 ・ 主郭部より余田城址を遠望 ・ 東曲輪より主郭切岸を見る ・ 東曲輪北の帯曲輪 ・ 城址東端堀切 ・ 東尾根より堀切を見る


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天正二年(1574)、黒井城主荻野(赤井)直正に攻められて屈服、以後、赤井氏の麾下に属した。以後、余田城は東方の友政城や鹿集城とともに 黒井城の東北方を固め、天田郡方面からの侵攻に備える役割を担った。やがて、織田信長の命を受けた明智光秀の丹波攻めが開始されると、 ときの惣領余田左馬頭為家は、一族を黒井城に送り出すと、自らは残兵を率いて余田城に立て籠もった。天正六年。光秀の部将明智光春が余田城を攻撃、 為家は城兵を率いて奮戦したが落城、黒井城をめざして敗走する途中で自害したという。
黒井城が落城したのち、赤井一族は豊臣秀吉に降ったが、のちに赤井直正の嫡男直照が秀吉に殺害されたことから秀吉との関係を断って徳川家康に 通じるようになった。そして天正十二年、小牧・長久手の戦いが起こると赤井一族は蘆田(赤井)時直が中心となって、黒井城と余田城に拠って 秀吉に一揆を起こした。赤井一揆は家康に通じての後方撹乱を目的で、大きな戦いには至らなかったようだが、のちに赤井氏が徳川旗本として生き残る 大きな成果となった。現在残る余田城と支城群の遺構の多くはこのときに改修されたものと思われる。
余田城を築いて余田谷を支配した余田氏は、明智の丹波攻めののち在地に帰農したようで、いまも余田谷一帯には余田姓が多い。『丹波志』にも余田氏は 帰農したとあり、家紋は「丸に一文字」「藤巴」を用いていると記録されている。今回、余田城を訪れたのち、宗福寺と東皇寺にある余田氏の墓所を訪ねると 「丸に一文字」「藤巴」紋が刻まれていた。余田氏の歴史は不明なところが多いが、 物言わぬ家紋が忘れさられた歴史を語っているように感じられたことであった。
・墓石に刻まれた「丸に一文字」「藤巴」紋
【参考】中世城館調査報告書 ・日本城郭体系 など




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