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戦国山城を歩く
一番紋で知られる武蔵武士、久下氏の居城─玉巻城
久下城は玉巻城とも呼ばれ、丹波の中世史に浅からぬ足跡を刻んだ久下氏が築いた山城である。
久下氏は武蔵国大里郡久下郷から起こった武士で、一ノ谷の合戦などに戦功があって、
頼朝より伊豆国玉川荘・三河国篠田村・丹波国栗作郷などを与えられた。また、久下氏の家紋「一番紋」は、
源頼朝の旗上げに際して一族郎党を引き連れて真っ先に馳せ参じ頼朝から賜ったものいわれる。
承久の乱ののち、久下三郎は武蔵へは帰らず所領の丹波国栗作郷金屋に留まった。以後、
久下氏は丹波に住して国人領主に成長したのである。
久下弥生三郎時重のとき元弘の乱に遭遇、足利尊氏が篠八幡宮で倒幕の軍を挙げると、
長澤・山内・酒井・蘆田氏らとともに篠へ馳せ参じた。以後、久下氏は足利氏に仕えて活躍、
丹波に逃れてきた義詮を丹波武士らとともに匿い、再起を援けたことは有名な逸話である。
かくして、室町幕府が成立すると久下氏は全盛期を迎え、所領は丹後国にまで及んだ。さらに
丹波守護代をつとめ、高見山城塞群を統治した。高見城塞群から東南に伸びた尾根先に
久下城があり、平時の居館は久下城の南西山麓にあったことが確認されている。
室町時代は幕府と将軍を後ろ盾として勢力を保った久下氏であったが、細川政元による
明応の政変をきっかけとして勢力を失い、所領は周辺国人によって蚕食され、戦国末期には
赤井氏の配下に属する小勢力になっていた。
・南方山麓を流れる篠山川方向より城址を遠望(20070616)
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久下氏の菩提寺護国山長慶院へ(20071021) ・ 紅葉が美しい長慶院 ・ 久下一族の古墓(20071021) ・ 久下重光の五輪塔 ・ 城址東尾根
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久下城は久下氏の菩提寺であった長慶院後方にある八幡山の山上にあった。
城址は尾根先に本丸と二の丸、堀切をはさんで馬場、西方のピークに三の丸を配している。
総じて削平は甘く、唯一、堀切だけが城址であったことを伝えるばかりだ。
本丸から北・東・南に伸びた尾根筋も曲輪を形成した跡はなく、戦国末期まで城塞として
機能したという説が疑われるものである。
久下城から北西に伸びた尾根筋をたどれば石龕寺後方の山上に岩屋城、さらに
北にたどって行けば赤井氏が拠った高見山城へと至る。おそらく、戦国時代における久下氏は
赤井氏の配下として高見城塞群の先端に位置する久下城を本拠とし、
多紀郡の宮田に拠る久下一族とも連携しながら赤井領国の西の守備に任じたと思われる。
そして、戦いとなれば高見城へといたる城塞を盾として防戦しようとしたのであろう。
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南東尾根の曲輪 ・ 主郭東帯曲輪と切岸 ・ 主郭 ・ 城址を区画する堀切 ・ 馬場
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礎石を思わせる石列 ・ 三の丸の城門跡か? ・ 三の丸東の石積 ・ 二の丸の窪地、溜池跡? ・ 二の丸北尾根の曲輪を思わせる平坦地
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……………
久下城への明確な登り道はないとのことで、長慶院後方に祀られた久下氏の供養塔を目印として
急斜面を直登した。前記のように、城址は自然地形のままといってよい状態で、
中央に切られた堀切がなければ城址として見落とすところであった。
縄張は防御意識の低い大味なもので、丹波の中世史に名を刻んだ久下氏の城としては、
まことに寂しい遺構ではないかと思ったことである。
天正年間(1570年代)、明智光秀の丹波攻めが起こると、丹波武士たちは多紀郡の波多野氏、
氷上郡の赤井氏を盟主として抵抗した。一説に、ときの久下氏の当主重治は波多野氏七頭の
筆頭として重きをなしたという。そして、玉巻城を包囲した明智光秀は重治に降伏を勧めたが、
重治はそれを断り遺書をしたためると華々しく討死をし、玉巻城も落城したことになっている。しかし、
久下重治は黒井城主赤井氏に従って籠城、玉巻城は播磨から侵攻してきた丹羽長秀の攻撃によって落城、
したとする説の方が頷けるものだ。
いずれにしろ、丹波の中世は光秀の丹波攻めによって終幕を迎え、久下氏をはじめ多くの
丹波武士が没落していった。いま、長慶院の境内には久下一族のものと思われる古い五輪塔が祀られ、
後世のものながら久下氏の祖重光の五輪塔、時重の顕彰碑が一族の人たちによって建てられ、
毎年法要が営まれているという。
・城址縄張図(「ひょうごの城」に掲載されたものを転載)
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[ 久下氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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| ……
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