■常陸(上総)の戦国大名 佐竹氏/江戸氏/小田氏/大掾氏/結城氏
佐竹氏は清和源氏義光流で、義光の孫・源昌義に始まる。昌義は佐竹冠者と称したといい、はじめの居城地は常陸・馬坂城であった。佐竹氏が頭角を現わすようになったのは南北朝の内乱期であった。貞義は足利尊氏に属して各地で戦功を挙げ、ついに常陸守護に任じられ、佐竹氏発展の基礎を築いたのである。 室町期から戦国初期にかけて、一族の山入氏との間で抗争が続き、明応元年(1492)に至って義舜が宗家であることを、山入氏義が追認する形での和睦がなった。しかし、山入一族は、孫根城にあった義舜を攻撃した。義舜は太田城に拠って岩城氏の支援を得て、かえって氏義を山入城に攻め、滅亡させた。ここに百年におよぶ山入氏との抗争に終止符を打ち、戦国大名への道を一歩を踏み出したのである。
藤原秀郷流那珂氏の一族で、常陸水戸城を本拠とした有力国人。南北朝期、那珂通泰が足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになった。 江戸氏中興の祖といわれるのが通房で、応永末年ごろから力を伸ばしてきたが、上杉禅秀の乱の混乱に乗じ、それまでの居城河和田から、一挙に水戸への進出を果たすことに成功したのである。通房は守護佐竹氏の内訌にあたり、佐竹義俊と弟の実定との対立には実定側に加わって、義俊を太田城から追い払うということもしている。
藤原北家八田流とされる。関白藤原道兼の三世の孫宗円が宇都宮氏を起し、子宗綱は八田権守と称した。宗綱の子が八田知家である。宇都宮の宗家を継いだ宇都宮朝綱の弟で頼朝に重く用いられ、常陸の守護に任命されている。 明応四年(1496)成治の嫡子治孝と庶子顕家の対立が起こり、小田氏は堀越公方の子、政治を養子として迎え(異説あり)、なんとか戦国大名化への道を開き、佐竹氏とも比較的安定した関係を樹立、常陸南部の雄として佐竹氏の南進をくい止めることに意を注いだ。
平良望(国香)が常陸の大掾となって土着し、天慶の乱後、勢を得た子の貞盛が甥の維幹を養子として、これに常陸の全領を与えた。維幹は常陸大掾に任じられ、はじめ筑波郡水守に住み、のちに多気に移った。この後、大掾の職はこの家の世襲のようになり、職名は転じて家名となり、維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となった。 康暦二年(1380)、下野の小山義政が鎌倉公方足利氏満に叛き、氏満は関東八ケ国に出兵を命じた。詮国は一族の鹿島幹重を率いて小山城攻撃に加わり、その活躍はめざましく、乱鎮定後、佐竹・宇都宮氏らと並んで関東八将の一に数えられた。
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