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タイトル
戦国大名伝
佐竹氏/ 江戸氏/ 小田氏/ 大掾氏/ 結城氏



佐竹氏
五本骨扇に月丸
(清和源氏義光流)

 佐竹氏は清和源氏義光流で、義光の孫・源昌義に始まる。昌義は佐竹冠者と称したといい、はじめの居城地は常陸・馬坂城であった。佐竹氏が頭角を現わすようになったのは南北朝の内乱期であった。貞義は足利尊氏に属して各地で戦功を挙げ、ついに常陸守護に任じられ、佐竹氏発展の基礎を築いたのである。
 室町期から戦国初期にかけて、一族の山入氏との間で抗争が続き、明応元年(1492)に至って義舜が宗家であることを、山入氏義が追認する形での和睦がなった。しかし、山入一族は、孫根城にあった義舜を攻撃した。義舜は太田城に拠って岩城氏の支援を得て、かえって氏義を山入城に攻め、滅亡させた。ここに百年におよぶ山入氏との抗争に終止符を打ち、戦国大名への道を一歩を踏み出したのである。


江戸氏
丸に蔦
(藤原氏秀郷流那賀氏後裔)

 藤原秀郷流那珂氏の一族で、常陸水戸城を本拠とした有力国人。南北朝期、那珂通泰が足利尊氏から常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子通高が江戸氏を名乗るようになった。
 江戸氏中興の祖といわれるのが通房で、応永末年ごろから力を伸ばしてきたが、上杉禅秀の乱の混乱に乗じ、それまでの居城河和田から、一挙に水戸への進出を果たすことに成功したのである。通房は守護佐竹氏の内訌にあたり、佐竹義俊と弟の実定との対立には実定側に加わって、義俊を太田城から追い払うということもしている。

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小田氏
洲 浜
(藤姓宇都宮氏流)

 藤原北家八田流とされる。関白藤原道兼の三世の孫宗円が宇都宮氏を起し、子宗綱は八田権守と称した。宗綱の子が八田知家である。宇都宮の宗家を継いだ宇都宮朝綱の弟で頼朝に重く用いられ、常陸の守護に任命されている。
 明応四年(1496)成治の嫡子治孝と庶子顕家の対立が起こり、小田氏は堀越公方の子、政治を養子として迎え(異説あり)、なんとか戦国大名化への道を開き、佐竹氏とも比較的安定した関係を樹立、常陸南部の雄として佐竹氏の南進をくい止めることに意を注いだ。


大掾氏
右三つ巴
(桓武平氏繁盛流)

 平良望(国香)が常陸の大掾となって土着し、天慶の乱後、勢を得た子の貞盛が甥の維幹を養子として、これに常陸の全領を与えた。維幹は常陸大掾に任じられ、はじめ筑波郡水守に住み、のちに多気に移った。この後、大掾の職はこの家の世襲のようになり、職名は転じて家名となり、維幹の直系子孫は常陸平氏の本家となった。
 康暦二年(1380)、下野の小山義政が鎌倉公方足利氏満に叛き、氏満は関東八ケ国に出兵を命じた。詮国は一族の鹿島幹重を率いて小山城攻撃に加わり、その活躍はめざましく、乱鎮定後、佐竹・宇都宮氏らと並んで関東八将の一に数えられた。


結城氏
三つ巴
(藤原氏秀郷流)

 藤原秀郷の後裔頼行を祖とし、朝光のときに至って結城を領して以降結城氏を名乗ることになった。朝光の孫広綱の時、広綱の弟祐広が陸奥白河を領して白河結城氏の祖となった。祐広の子が有名な宗広で、南北朝時代、後醍醐天皇に従い、新田義貞とともに鎌倉攻めに功を挙げた。
 結城宗家は広綱の系統で、これを下総結城氏といった。白河結城氏が南朝の忠臣であったのに対して、足利尊氏の鎌倉挙兵以来、常に北朝側勢力として働いていた。そのため下総結城氏は室町時代には関東における一大勢力となり、宇都宮氏や佐竹氏・小山氏と並んで関東八家のひとつに数えられている。
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CONTENTS
●常陸-戦国通史 ●戦国大名伝 ●国人領主記 ●常陸武将家紋地図 ●近隣の戦国大名 ●戦国武将割拠図 ●関東戦国地図 ●軍旗探究

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