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関東戦国地図



 十六世紀初頭、常陸国内には佐竹氏のほかに、江戸・小野崎一族、さらに府中の大掾氏、その一族である鹿島・島崎氏、小田城の小田氏、江戸崎の土岐氏、下総結城城を本拠とする結城氏、下妻の多賀谷氏、下館の水谷氏など、それぞれが合従連衡を繰り返しながていた。やがて、小田原の北条氏が関東管領上杉氏を破り、一躍、関東の強豪として、大きく時代を動かして行くことになる。
 永禄三年(1560)から四年にかけて、越後の上杉謙信が上杉憲政から関東管領職を譲られたことに応え、関東の秩序を乱す北条氏を討伐するため大軍をもって小田原城を包囲した。このとき、小山氏、佐野氏、宇都宮氏、皆川氏、小田氏、真壁氏、多賀谷氏、水谷氏、梁田氏、里見氏らの関東諸領主の多くは謙信に味方した。
 永禄十二年(1569)以降、北上する北条氏の勢力が拡大するにつれ、従来敵対関係にあった結城氏、佐竹氏や宇都宮氏らは連携を強め、北条勢力に対抗した。しかし、天正六年(1578)謙信が没したことで、佐竹義重は関東南下および常陸・下野両国の平定を断念。二男義広を、会津葦名盛隆の跡目に送り込み、奥州に地歩を固めようとした。
 ところが、奥州の風雲児伊達政宗は、会津攻略をねらい、南下策をとり、葦名・佐竹氏連合軍と戦うようになった。政宗は葦名領を蚕食しつづけ、義広はこれを押さえようと、磐梯山麓の摺上原で、葦名、伊達両軍の間で決戦が行われ、敗れた葦名義広は実家に逃げ帰り、葦名氏は滅亡し、伊達氏と佐竹氏は国境を接するようになった。
 天正十八年の豊臣秀吉による小田原征伐とこれに続く奥州出兵は、義重の子義宣が、秀吉に関東・奥両国惣無事令を北条氏・伊達氏が違反していることを通報したために起こったものであった。そして、秀吉は小田原北条氏を滅ぼし、奥州仕置により伊達氏を仙台に封じた。ここに、長かった北関東の戦国時代も終焉を告げたのである。

■関東戦国地図
  
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