ヘッダイメージ



タイトル
戦国通史



 常陸・北下総両国の戦国史は、最終的に豊臣政権下において常陸国旗頭として五十四万石の大封を領する大名に成長した佐竹氏、そして、徳川家康の子秀康を養子として迎え、大名としての地位を確定した結城氏の動向を軸とした歴史になりがちであった。それは、常陸・北下総地方における残存史料のあり方からいっても避け難いことでもあった。
 とはいえ、十六世紀初頭、常陸国内には佐竹氏のほかに、江戸・小野崎一族、さらに府中の大掾氏、その一族である鹿島・島崎氏、小田城の小田氏、江戸崎の土岐氏、下総結城城を本拠とする結城氏、下妻の多賀谷氏、下館の水谷氏など、それぞれ領主間の合従連衡の策がうまくゆけば、一躍戦国大名にのしあがる機会と可能性は十分あったのである。
 常陸国の戦国史が従来、佐竹、結城両氏の歴史に偏りがちだったことは述べたが、常陸国内に割拠した諸豪族あるいはその輩下にあった国人領主たちの脇役としての役割を軽視しては、真に常陸・北下総戦国史を語ることにはならない。

●常陸国内、諸豪族の興亡

 のちに常陸国の大大名となった佐竹氏は、室町時代、常陸国守護として太田城を居城とした。しかし、山入氏をはじめ有力一族との抗争に明け暮れた「佐竹の乱」をはじめ、十六世紀に入ってからもその歴史は抗争の連続であった。
●太田城祉
 十六世紀初頭、義舜の時代に江戸氏、小野崎氏らと一応和解し、いわゆる「佐竹洞」、「洞中」とも表現された常陸中北部における地縁的、族縁的な領主連合を形成し、その盟主としての地位を固めていった。しかし、こうした連合・集団に対する佐竹氏の支配力、規制力は弱く、「洞中」の諸領主は佐竹氏の規制を離れて独自に行動することが多かった。
 江戸氏の場合、南北朝時代には南朝方に属し、一族壊滅に近い打撃を受けたのちに復活し、その後佐竹氏のもとで守護代の役割まで果たしたと伝えられる。応永末年ごろ、通房が大掾満幹から水戸城を奪い取り、常陸国の中央部に本拠を構えるに至って、十五、六世紀の常陸戦国史に甚大な影響を及ぼすようになった。
 十五世紀後半、「佐竹の乱」のなかで江戸氏は一段と独立性を強め、水戸周辺に領域を拡大していった。通長のころ、文明年間には小幡城に拠る小幡氏を破って服属させ、進んで南方の鹿島郡に鉾先を向け、鹿島一族の烟田、徳宿氏らと激しく対立するようになった。
 小田城を本拠とした小田氏は鎌倉幕府の草創期、常陸国守護職にも任じられ、鎌倉時代を通じて常陸国の守護職を世襲した。南北朝時代には居城小田城に南朝方の柱石北畠親房を迎え、東国南朝方の中心的役割を果たした。そのため、足利氏が幕府を開くと、守護職を解任されてしまった。そして、勢力は急激に衰退し、常陸における主役の座からおりていったのである。
 しかし、十六世紀に入ると小田城を回復し、その所領も小田を中心に常陸南西部を基盤にして、北方に真壁氏、西北に結城氏、水谷氏、多賀谷氏、東方は大掾氏、東南方は土岐氏らに接して、小規模ながら大名としての地位を保つようになった。このような立地条件、さらに諸豪族との対抗関係にあったにもかかわらず、小田氏が中心となった領主連合が結成されたことは史料上ではみられない。どちらかといえば、孤立した形で近隣諸豪族としのぎをけずる方針を貫いていたようにみえる。
 佐竹、江戸、小田氏らと肩を並べた豪族として大掾氏があげられる。大掾氏は平安・鎌倉時代以来の名門で、常陸国の戦国史に多少なりとも足跡を残し。その興亡にさまざまな形で影響を与えた。とくに大掾氏およびその一族は常陸国内に広く繁衍し、関連文書や記録も多数の越されている。主な一族としては、真壁の真壁氏、南部の領主層を代表する鹿島氏、芹沢氏、石川氏、烟田氏、島崎氏、玉造氏などがあげられる。
 十五世紀はじめ、江戸氏のために居城水戸城を追われ、府中に居を構えることとなった。名目的とはいえ地方国ガを統治する最高位の在庁官人として官職名をそのまま名字としていた大掾氏が国府の地に居住するということはむしろ自然な成りゆきであったともえいる。府中に移住してからの大掾氏は「禅秀の乱」に巻き込まれるなどして多くの所領を失った。加えて近隣諸豪族との対立や緊張関係が続いたため、庶領の回復も思うに任せぬまま戦国時代を迎えた。
 とはえい、常陸国の政治、経済、交通の要衝にあたる府中城を根拠とし、国内に広く繁衍、分布していた常陸平氏一族の惣領、総帥としての権威もあって、常陸戦国史の動向に一定の影響力を保持していた。

●北下総の戦国時代

 北下総の戦国史は、常陸のそれとまったく不可分の形で進行した。そして、鎌倉時代以来の名門結城氏の動きを軸に繰り広げられたのである。
 結城氏は「結城合戦」によって一度滅亡してしまったが、再興後の文明十三年(1481)、当主氏広が死去し、代ってその子政朝がわずかニ歳で家督を嗣いだ。当時、結城氏は北の宇都宮氏、南の小田氏らと宿命的な対立関係にあり、また下妻城に拠る重臣多賀谷氏が独立、離反の動きを示すといった険しい状況に立たされていた。
 政朝はのちに結城氏中興の祖とされるが、大永七年(1527)に家督を嫡子政勝に譲るまでの約四十年間は、危険と波瀾に満ちた歳月であった。かれは一族の上下の身分関係を整えて下剋上の風潮をおさえ、下妻多賀谷氏、下館水谷氏、綾戸山川氏といった有力領主を「結城洞中」の一員としてくみこむことに成功した。大永六年(1526)には、宿敵宇都宮氏に背いた芳賀氏を援け、猿山合戦で宇都宮氏を破って旧領の下野国中村以下十二郷を回復した。
●結城城祉
 政朝の隠居後、家督を継いだ政勝は二十四歳であった。政勝の時代は基礎固めから飛躍の時期でもあった。とはいえ、政勝にとっては独立性を強めていった多賀谷氏、水谷氏、山川氏など同盟豪族のつなぎとめと掌握の問題、関東のほぼ中央に位置し、政治経済、軍事上の複雑な要因をかかえる立地条件もあって、その前途は予断を許さない険しいものであった。
 こうした情勢のなかでの政勝の緊急の課題は、自らの直臣団の強化もさることながら、前述の多賀谷氏をはじめ水谷氏、山川氏ら有力国人領主や姻戚関係にあった小山氏らをいわゆる「結城洞中」と呼ばれた地縁的、血縁的な領主連合にくみこむこと、さらに下野、常陸などの近隣諸豪族、大名たちとの合従連衡をはかって、上杉氏、小田原の北条氏、常陸の佐竹氏らの干渉、介入に対処するいことであった。
 十六世紀なかばになると、結城氏をめぐる情勢は一段と厳しさを加えていたが、政勝は多賀谷・水谷・山川氏ら従来からの「洞中」領主に加え、小山氏、那須氏、大掾氏、真壁氏、白河結城氏ら一族など中小規模領主たちの連合結成に主導的役割を果たしている。こうした連合に対立する形で佐竹氏、宇都宮氏、小田氏、江戸氏などによる領主連合も結ばれ、相互に牽制し合ったのである。さらに、このような領主連合に加えて、政勝は北関東制覇を目指す小田原北条氏康との連携に成功すると、宿敵小田氏討伐に踏み切るのである。
 弘治二年(1556)結城政勝は、小田氏の北部最前線基地海老島城で小田軍と激闘して破り、その結果「小田領中郡四十ニ郷、田中庄、海老島、大島、小栗、沙塚、豊田、一所も残さず結城の領地と作す」といった所領拡大に成功したのであった。

●上杉謙信、小田原北条氏の覇権争い、関東争乱の終熄

 永禄三年(1560)から四年にかけて、越後の上杉謙信が上杉憲政から関東管領職を譲られたことに応え、関東の秩序を乱す北条氏を討伐するため大軍をもって小田原城を包囲した。このとき、小山氏、佐野氏、宇都宮氏、皆川氏、小田氏、真壁氏、多賀谷氏、水谷氏、梁田氏、里見氏らの関東諸領主の多くは謙信に味方した。しかし、結城氏は、古河公方足利義氏との関係から、那須・壬生氏とともに北条氏康に味方した。このため、謙信の攻撃を受け、小山氏とともに降伏し、以後上杉方に加担した。とはいえ、この後も北条方、上杉方の両者の間を泳ぎ、生き抜いていった。
 しかし、永禄十二年(1569)以降は、北上する北条氏の勢力を阻むため、上杉方に加担し、反北条という利害の一致から従来敵対関係にあった佐竹義重や宇都宮広綱とも連携を強めるようになり、これにより関東の領主連合は新しい段階を迎えるにいたった。その後、常陸国内では北条氏が谷田部方面に進出。謙信は天正六年(1578)に没したことで、義重は関東南下および常陸・下野両国の平定を断念。白川家に入嗣していた二男義広を、会津葦名盛隆の跡目に送り込むことに成功し、義広は葦名義広となった。そして、葦名義広、父の佐竹義重は、奥州の覇者たらんとする伊達政宗との対立が深めていった。
 天正十二年、佐竹義重が下野沼尻で北条氏直と対陣したとき、結城氏も佐竹方として軍勢を率いて参陣している。この軍勢は佐竹一族の東氏をのぞけば、多賀谷、江戸氏につぐものであった。
 奥州の風雲児伊達政宗は、会津攻略をねらい、南下策をとり小浜城、二本松城を次々に攻め、他方で葦名氏の諸将の内通をそそのかした。義重の子義広は黒川城主となるや、まず小浜城の大内氏の謀叛にぶつかった。そして、阿武隈川沿いに伊達軍と戦い敗勢となり、父義重に援軍を求めた。そして父の援軍を得て、連合軍三万が郡山城を囲んだ。世に郡山対陣とよばれる合戦である。両軍、すさまじい白兵戦を展開し、秀吉は戦況を知り、葦名方に鉄砲百挺を送ろうとした。合戦には間に合わなかったが、岩城常隆らが調停に出て、両軍はいったん休戦に入った。
 政宗はなおも葦名領を蚕食しつづけ、義広はこれを押さえようと、磐梯山麓の摺上原で、葦名、伊達両軍の間で決戦の火ぶたが切られる。名勢は善戦しながらも、内部裏切りや風向きが変わったことによる砂塵などに阻まれ、たちまち大勢は決した。合戦に敗れた義広は常陸の実家に逃げ落ち、葦名氏は滅亡した。  天正十八年の豊臣秀吉による小田原征伐とこれに続く奥州出兵は、義重の子義宣が、秀吉に関東・奥両国惣無事令を北条氏・伊達氏が違反していることを通報したために起こった。
 豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した佐竹義重の嫡子義宣は、秀吉から常陸国において二十一万貫の所領を安堵された。そして、十二月には江戸氏の拠る水戸城を攻撃し、江戸一族を服属させ、さらに、府中城を攻撃し、大掾氏を服属させた。常陸南部においてもその支配を強化し、秀吉からの安堵の実質化をめざした。この活動の延長として、鹿島・行方両郡の常陸大掾系の一族を中心とする南方三十三館と称される武将たちは、天正十九年(1591)二月、太田城に招かれ、佐竹氏によって謀殺された。
 ここに至って、常陸の戦国時代は終焉を迎え、ひとり佐竹氏が大大名として近世へと続いたのである。しかし、関ヶ原の合戦に旗幟を鮮明にしなかった佐竹氏は戦後、秋田久保田に転封となり、常陸から去っていった。また、結城氏は秀康が越前に移封となり、名字も松平氏にあらため、結城氏もまた歴史上から消えていった。かくして、常陸の戦国時代を彩った諸豪はすべて常陸から、あるいは滅亡し、あるいは去り、時代の波にのまれてしまったといえよう。

上へ

CONTENTS
●常陸-戦国通史 ●戦国大名伝 ●国人領主記 ●常陸武将家紋地図 ●近隣の戦国大名 ●戦国武将割拠図 ●関東戦国地図 ●軍旗探究

バック