ヘッダイメージ



タイトル
近隣の戦国大名
宇都宮氏/ 那須氏/ 後北条氏/ 伊達氏/ 葦名氏



宇都宮氏
三つ巴
(藤原氏道兼流)

 宇都宮氏は、一族およびその分派が多く、北は奥羽から南は九州にまで広く分布している。しかし、宇都宮氏の出自については諸説あって、にわかには判じ難いのが現状だ。一般には藤原氏の流れというのが流布している。つまり、関白藤原道兼の曾孫宗円という人物が、前九年の役に際し、宇都宮の地にいたり凶徒誅伐を祈念し、その功により宇都宮座主に任じられ、下野国を賜わったのに始まるというものである。
 宇都宮氏の最盛期を築いた宇都宮成綱は、宇都宮正綱と佐竹氏の娘との間に産まれた。とはいえ、父正綱が三十一歳で病死したため、弱冠十五歳で成綱が当主となったため、家督相続当初は、重臣たちが若い成綱を軽視し、政治を勝手に進めりことが多かった。このため、成綱は重臣の芳賀氏と協力して、反対派の重臣を一掃し実権を手にした。


那須氏
一文字十六葉菊
(藤原北家道長流/那須国造後裔?)

 那須氏の出自は、藤原道長の曽孫資家(貞信)が奥州白河郡八溝山の賊を討った功で、下野国那須郡を賜わり同地に住したことから起こるとも、古代那須国造の末裔ともいう。また、相模山内首藤氏の一族とする説もある。はじめ須藤を称し、資隆に至って那須を称すという。その子が与一宗隆である。宗隆は、源平合戦に際して、源義経に従って出陣し、屋島における扇の的の功名により基盤を確立した。
 南北朝時代になると、足利尊氏に属し、また、室町時代には関東公方足利氏に臣従し、順調に発展していた。しかし、応永年間(1394〜1428)には、資之と弟の沢村資重が対立し、資之の拠る福原城上の庄那須氏と資重が退去して拠った烏山城下の庄那須氏とに分裂した。


後北条氏
三つ鱗
(伊勢平氏流)

 戦国時代、伊勢新九郎長氏を初代とする小田原北条氏五代を、鎌倉時代の執権北条氏と区別して「後北条氏」と呼んでいる。古来北条早雲といえば、美濃の斎藤道三と並び称される下剋上大名の典型例といわれてきた。
 早雲の嫡子氏綱は、それまでの伊勢氏を改めて北条氏とした。氏綱のときに後北条氏の勢力は武蔵にまで進出し、大永四年の江戸城の占拠と、天文七年の国府台の戦いで里見義堯と戦ったのが大きな戦いであった。 三代氏康は、領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を固めるとともに、軍事面でも天文十五年の河越夜戦で宿敵扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、関東から両上杉の勢力を一掃している。

上へ
伊達氏
竪三つ引両
(藤原氏山陰流)

 奥州の戦国大名として、圧倒的な強さをみせた伊達氏は藤原氏で、魚名流山陰中納言の後裔といわれる。藤原山蔭の子孫朝宗が、源頼朝の奥州征伐に際し、四人の子供を従軍させ、その戦功によって伊達郡を頼朝から与えられ、伊達を称したのがそもそもの始まりとされる。
 戦国の風雲児政宗は、天文十三年佐竹・芦名氏の連合軍と戦い、ついで天文十六年には大崎氏、翌年は芦名義広、続いて二階堂氏・石川氏・岩城氏などを攻めて平らげた。しかし、奥州をほぼ平定した天文十七年の翌年、秀吉の命を受けて小田原に参陣。危ういところで、本領を安堵された。


葦名氏
三つ引両
(桓武平氏三浦氏流)

 芦名氏は本姓平氏で、三浦族佐原氏流である。相模国の豪族三浦義明の子佐原義連がその祖とされる。すでに石橋山の合戦には頼朝を助け、その後の平家追討の戦いにも軍功をあげている。奥州藤原攻めにも参陣し、そのときの戦功によって会津・河沼・耶麻の諸郡を与えられた。
 十五世紀もなかばを過ぎるころになると、葦名氏と近隣の豪族との戦がしきりに繰り返されるようになった。盛高・盛滋のころである。しかも、永正二年には、盛高・盛滋父子が相戦うということが起こり、家臣同士の対立と相まって複雑化していった。しかし、芦名盛氏が出て、内部の統制もとれるようになり、戦国大名への道を歩み出すことになる。盛氏は『関八州古戦禄』に「列祖に劣らず弓矢にすぐれていた」とあるように、武略の人であった。
上へ

CONTENTS
●常陸-戦国通史 ●戦国大名伝 ●国人領主記 ●常陸武将家紋地図 ●近隣の戦国大名 ●戦国武将割拠図 ●関東戦国地図 ●軍旗探究

バック