依田氏
三つ蝶
(清和源氏満快流) |
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依田氏の先祖は『尊卑分脈』によれば、清和源氏満快流の為公が信濃守となって信濃に下り、その子孫が伊那・松本・上田盆地に広がった。そのうち依田庄を開発した為実が依田氏を称して、依田氏の祖になったとある。
余田二朗実信は源平合戦のとき、木曽義仲に属して京都に攻め上ったが、義仲が頼朝に滅ぼされると、依田庄は茂木氏に与えられ、依田氏は飯沼を領するだけの小領主となり、飯沼氏を称した。その後、北条氏執権下において、得宗家臣となって次第に勢力を盛り返し、茂木氏の支配に抵抗して、依田庄の支配権を回復していった。
鎌倉幕府の滅亡に際して依田氏は、足利尊氏に属して依田庄の支配権を確保するとともに、室町幕府の奉行人となり、応安六年(1373)将軍足利義満のときには、依田左近太夫入道元信は評定衆に加えられた。信濃に本拠をもつ武士のなかで、幕府の最高裁決機関である評定衆に列したものは、依田氏以外には例がなく、依田氏の室町幕府内における地位は注目すべきものがある。
依田氏の発展
南北朝期以来、依田氏は依田荘全域を支配し丸子郷に進出し、箱畳峠を越えて立科方面までも支配下におさめようとした。そして、箱山城・善正城を築いて芦田古町に進出し、芦田古城を築いた。ところが、芦田古城の築城は、佐久の強豪大井持光を刺激し、芦田と大井の争いに発展した。この争いに対してときの将軍足利義教は大井氏支持を決め、信濃守護小笠原政康に芦田征伐を命じた。
一方、芦田氏は村上・海野・禰津氏らの国人連合の支援をえて対抗、村上氏は関東公方足利持氏の力を背景としていたことから強気の姿勢を示した。しかし、公方持氏は将軍義教との衝突を憂慮する管領上杉憲実の諌止によって出兵ができず、小笠原政康は永享八年(1436)三月、海野・禰津氏らの本拠を攻めて破った。このため、芦田氏は孤立して守護軍に降り、村上氏も敗れて幕府に降伏した。
以後、芦田氏は大井氏の家臣となり、その執事を勤める重臣の位置を占めた。永享十二年の結城合戦には大井持光の命を受けて、清野氏とともに足利持氏の遺児永寿王丸を危険をおかして結城城に送り込むという重要な任務を果たしている。その後、永寿王丸は成人して、足利成氏を名乗り鎌倉公方になった。
文明十一年(1479)、大井氏の家督を継いだ大井城主政光が、前山城の伴野光信と合戦をして大敗した。政光は伴野方に生け捕りされ、執事の阿江木入道も討死した。この阿江木氏は芦田氏の支流で、「一に芦田、二に相木(阿江木)」と称される大井氏の重臣の一人であった。その後、政光は開放されて大井城に復帰したものの失意のまま若死した。そして、弟の安房丸が大井氏を継いだが、文明十六年(1484)、村上政清の大軍に攻められて大井城は落城し大井宗家は滅亡した。大井宗家の滅亡後の芦田氏の動向については明らかではないが、大井氏の支配から脱して芦田領主として自立の道を歩んだものと考えられる。
応仁・文明の乱が京都で勃発すると、その余波は日本各地に戦乱の時代を招来した。信濃も例外ではなく、にわかに騒がしくなった。
戦国期の信濃
天文十年(1541)五月、甲斐の武田信虎が諏訪頼重・村上義清を誘って海野氏を攻め、海野平・禰津をことごとく攻め破った。敗れた海野棟綱は関東に走って、関東管領上杉憲政を頼った。憲政は大軍を率いて海野に攻め込み、諏訪頼重はこれを迎え撃つために長窪に兵を出した。憲政は信州勢の優勢なさまを見て、芦田郷を荒らしただけで関東の平井城に兵を帰してしまった。
これを見る限り、当時の芦田郷は領主もないような有様であったことがうかがえ、ほどなく芦田郷は諏訪頼重の知行地となった。そして、芦田信守は諏訪氏に従い、頼重は芦田郷を信守に治める手はずをして諏訪に帰った。ところが、翌天文十一年七月、頼重は武田晴信によって滅ぼされてしまった。翌年になると、晴信は長窪城に大井貞隆を攻めて生け捕りにし、つづいて望月城を攻めて望月一族を降して甲府に帰った。このとき、芦田信守は武田氏に降ったものと思われる。
『千曲の真砂』の芦田城の項には「天文十二年武田晴信出馬、信守武田に降り、先手の将と為る」とあるが、芦田氏はその前年に晴信が諏訪頼重を滅ぼしたときにはすでに武田氏支配下に組み込まれていたものであろう。以降、武田氏先方衆としての芦田氏の活躍は『依田記』などに詳しい。その後、武田氏の信濃侵攻は激しさを増し、小笠原氏・村上氏などが抵抗したものの、結局、信濃は武田氏の大名領国に組み込まれるに至った。元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の兵を起こしたが、その雄図なかばにして病死をとげた。ときに、天正元年(1573)のことであった。
このころから、約百年に及んだ戦国の争乱も次第に有力な大名だけが勝ち残り、ようやく統一のきざしが見えてきた。なかでも織田信長の勢いは一頭群を抜き、信玄が死去したことにより信長の天下統一事業はさらに大きく前進することになった。そして、信玄没後間もなく形ばかり続いていた室町幕府を滅ぼし、京都に近い近江に安土城を築きその勢を天下に示した。
武田氏の滅亡
信玄死後の武田氏は勝頼が継ぎ、その武威を示していた。しかし、天正三年(1575)、三河長篠において武田軍と織田・徳川連合軍は激突し、連合軍の鉄砲の前に武田騎馬隊は壊滅的な大敗を被った。以後、武田氏の勢威は衰え、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって武田家は瓦解し、勝頼は天目山で自刃し武田氏は滅亡した。
武田氏が滅亡した当時、依田信蕃は駿河の田中城を守って徳川家康と対峙していた。武田氏滅亡を知ると、信蕃は家康のすすめを受けて城を明け渡している。家康は信蕃を召し抱えたいと言ったが、信蕃は国の様子もわからないので信州の春日城に帰り、小諸城で森長可と対面した。それから信長に御礼をしたいといって、小諸を発ち諏訪へ向かった。その途中家康より急使がきて、「信長は信蕃など甲州や信州の大名に切腹を命じているから、家康のもとに来なさい」という便りを見せた。これに接した信蕃は、ただちに家康のもとに走った。
ところが、同年六月、織田信長が本能寺の変で横死すると、信濃・甲斐の織田勢力は雲散霧消してしまった。その結果、信濃・甲斐両国は徳川氏・北条氏、そして越後の上杉氏の草刈場と化したのである。このとき家康もまた甲州・信州に食指を伸ばし、かくまっておいた依田信蕃に命じて甲斐の武士たちを味方に引き入れさせた。その後、信蕃は家康の後援を得て、佐久に攻め入り、北条方の軍勢と戦った。そして、伴野氏の守る伴野城を攻め落とし、小県郡の真田昌幸を説いて徳川氏に従わせ、協力して碓氷峠で北条氏の後方連絡線をたって徳川・北条の和睦を実現するなどの活躍を示した。
家康は信蕃の功を賞して佐久・諏訪の二郡を与え、小諸城代として報いた。しかし、信蕃に降ることを快しとしない者は北条氏に属する岩尾大井氏のもとに馳せ集まり、それに大井氏譜代の佳辰たちも続々と行吉のもとに集結した。依田信蕃は武田氏麾下にあったころから勇将として知られ、岩尾大井氏は無名に近い存在であった。さらに徳川氏を後楯とした信蕃の軍勢に対して、岩尾大井氏の軍勢は烏合の衆であり、周辺のほとんどが信番に属したなかにあって、まさに孤軍と呼べる存在であった。しかし、岩尾城に籠った大井勢は「窮鼠猫を噛む」のたとえの通り、依田信蕃軍に徹底的に抗戦を行ったのである。
信蕃の戦死
天正十一年二月、信蕃は岩尾城攻めにかかった。岩尾城は逆茂木を隙間なく並べ、逡巡する依田軍に対して鉄砲・矢の集中攻撃を行い、依田軍に多大な犠牲者を強いた。家康から付けられた軍監の柴田康家は力攻めをやめて家康流の気長な戦術をすすめたが、強気の信番は力攻めを強行した。岩尾城は武田信玄が手塩をかけた縄張りだけに、さすがの信蕃も攻めあぐんだ。柴田は信蕃の陣に使者を送り、広言を発しながら城が落ちないのはどういうわけかとなじった。これを聞いた信蕃は翌日はなんとしても落してみせると意地になり相変わらずの強気を見せた。
猛将信蕃は翌日も戦法を変えることなく遮二無二に攻城を繰り返した結果、岩尾城の大手門を破り台郭に突入して城方との間で乱戦となった。城方は矢倉の上から敵味方を識別して狙撃したため、依田勢はばたばたと撃ち倒された。しかし、信番は次々と新手を繰り出し激戦は夕方まで続いた。
信蕃軍の二日間にわたる総攻撃にも岩尾城は持ちこたえ、面目を潰された信蕃は却って意地となり、また柴田に援軍を頼むこともできなかった。そして、攻撃三日目には陣頭に立って兵を督戦し火の出るような攻撃を仕掛けた。この信蕃の姿を目にとめた城方の淺沼平兵衛は配下の鉄砲隊に命じてこれを狙撃させた。放たれた弾丸は狙い過たず信蕃に命中、信番とともに攻城を指揮していた弟の信幸も弾丸に当たり依田兄弟は空しく討死を遂げてしまった。主将を失った依田勢は戦意を喪失し、信蕃の末弟信春はひとまず兵を引き揚げた。
この事態に軍監柴田康家は開城降伏の使者を送り、行吉の奮戦ぶりを讃えこれ以上の戦いは無駄であると説得した。行吉もその説得を容れ、城中の将士に城内の財物を分け与えると柴田に城を明け渡した。この岩尾城の攻防戦は、前途洋々たるものがあった依田信蕃に思いがけない挫折を与える結果となった。戦後、家康は依田信蕃兄弟の死をあわれみ、信蕃の子竹福丸に家康の「康」の字を与えて康国と名乗らせ、さらに「松平」の名字をも与えて松平康国として小諸城主とした。そして、大久保忠世を後見人として佐久郡を治めさせた。
依田氏の没落
小諸城主になった康国は父の遺領十万石を与えられたというが、佐久郡の石高は五万四千石余であり、駿河国志多郡を含めた領地高であろう。天正十二年(1584)家康と秀吉とが戦った「小牧・長久手の戦い」が起り、家康は後顧の憂いをなくすため北条氏と結んだ講和条件の定めによって真田昌幸に沼田城を北条方へ引き渡すように命じた。しかし、昌幸は家康の命令に服さず上杉景勝方に寝返ってしまった。家康はこれに激怒し、小牧・長久手の戦いが終わった翌十三年八月、大軍を率いて昌幸の拠る上田城を攻めたが、昌幸の作戦に翻弄されて散々な敗北を喫した。この上田城攻めに康国が初陣として参加し、家康から感状をもらっている。
その後、不穏な状勢の続いていた佐久地方の戦後復興、人心の安定、寺社領の安堵、知行割りなど、康国は家康の後楯をえて、着々と進めていったことが残された家臣宛の知行状などから知られる。
家康を服属させた豊臣秀吉は九州の島津氏を屈服させ、小田原北条氏にも上洛して命に服するように何度も書状を送ったが、北条氏の態度は明快をかき、ついに天正十八年四月、秀吉は小田原征伐の軍を発した。康国も家康に命じられて上州に出陣し前田利家に属して大導寺政繁の守る大井田城攻めに加わり、つづいて石倉城攻撃に加わった。石倉城主寺尾左馬介は康国を通じて降服を申し入れてきたため、康国はわずかな手勢のみで城内に入った。そのとき、攻城軍の間に騒動があり、騒然とした城外の様子に誅せられるのではないかと思い込んだ寺尾によって康国は斬り付けられ、重傷を負いながらも応戦したが力つきて討死した。享年二十一歳という若さであった。
康国の死後は、弟の康真が家督を相続した。小田原の役後、家康は関八州を与えられ江戸に入部した。依田氏も家康に従って関東に移り、改めて武州榛沢、上州緑野両郡において三万石を与えられ藤岡城主となった。文禄三年(1594)康真は二条城築城奉行を命じられ、井伊・榊原氏らとともに上洛し本丸・隠居郭を完成させえいる。そして、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦に先立ち大坂にあった康真は、旗本小栗氏と囲碁の勝負をしたが、負けた小栗が康真に悪口雑言を口走った。この雑言を聞き捨てにできなかった康真は即座に小栗を斬ってしまった。
家康の旗本を私闘によって斬り捨ててしまった罪は重大で、康真は大坂を出奔し高野山に上り沙汰を待った。結果は藤岡三万石を改易され、結城秀康のもとに食禄五千石を与えられお預けの身となった。康真は松平姓をはばかり母方の加藤姓を名乗り、子孫はのちに芦田姓に改めたという。いずれにしろ、大名依田氏はわずか三代の命運に過ぎなかったした。
・右図:依田信守の用いた旗印
【資料:佐久市志/南佐久郡誌/小県郡史(長野県立図書館蔵書) ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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