禰津氏
丸に月/九曜
(滋野氏族海野氏一族)
・六連銭も用いたという。 |
|
祢津氏の居館跡と目されるところは、現在祢津小学校の西側にある字古御館とされている。古の呼称が示すように、少なくとも中世に入って祢津氏の居館は移動したものと想像される。というのは、祢津の定律院の開創が宝徳元年であること、そして、天正年代の「諏訪社上社造営帳」に「祢津道上郷・祢津道下郷」という記述があり、居館野移動を暗示しているのである。
この一連の祢津氏居館跡の西北方に「城山」があり、さらにその尾根を登ったところに「上の城」がある。これが祢津氏の城館であったことは間違いのないところだ。
根津氏の出自
さて、この祢津氏が、室町中期に支配した所領を『御符札之古書』から抽出すると、祢津田中・祢津小田中・大石・桜井・芝生田の五ケ郷がある。ところが、これらを地図上においてみると、居館周辺の郷村が抜けていることに気付くのである。
祢津氏は、古くから神氏を名乗った。神氏を名乗る氏人だけが交代で勤仕している神使御頭があり、これは、一般の土豪が勤仕している花会・五月会・御射山会の各頭とは、全く別の頭であった。祢津氏が神使御頭を勤仕した記録の初見は、応永四年(1397)である。神使御頭を勤仕した神氏一族は、他の花会・五月会・御射山会の頭を勤仕しないことが関連だったようなので、根津氏居館から別府・新張にかけての一帯は、神使御頭ろを勤仕した郷村だったのではないだろうか。言い替えれば、この地域が祢津氏の直轄地であたと思われるのである。
これを傍証するかのように、祢津田中・祢津小田中・大石・桜井・芝生田の五郷は、それぞれ浦野氏・金屋氏→出浦氏・岡村氏・桜井氏・芝生田氏らの代官支配がみられる地域である。つまり、祢津氏の所領は、西は三分川上流部から田中郷へかけて、南は千曲川、東は深沢の渓谷辺までを治めていた。そして北は地蔵峠を越えて群馬県吾妻郡嬬恋村までの広範囲なものであったようだ。また、浦野氏・金屋氏→出浦氏・岡村氏が祢津氏の代官である以上、この三氏の本領にも祢津氏の支配力は及んでいことと考えられる。
ところで、祢津氏の系図としては、「信州滋野氏三家系図」「海野氏系図」(ともに群書類従所収)や、系図纂要所収の「滋野朝臣姓」などがある。
系図には、海野太郎則重の孫道直が祢津小次郎を称し、その子貞直は『諏訪大明神画詞』に、大祝貞光の猶子となって神氏となり神平を称したこと、諏訪郡内に一庄を領有し、保元・平治の乱に出陣したこと。そして、東国無双の鷹匠であったことなどが記されている。
次の宗直・宗道は建久元年(1190)から同六年にかけ『吾妻鏡』に散見される。以後、南北朝期まで祢津氏の動向を示す史料は見当たらない。
南北朝期から戦国初期の根津氏
南北朝期に至って、祢津氏の活躍hが史料上で確認されてくる。祢津掃部助・祢津越中守は、新田義貞・義重に属して、越前を中心に北陸路で活躍した。次に、観応の掾乱の際、祢津小次郎(行貞)・祢津孫次郎宗直が、足利直義に味方して戦い、のち足利義詮に出仕している。しかし、かれらの名前は、前記系図のなかには見当たらない。
次いで大塔合戦に参加した祢津一族で、『大塔物語』によると、祢津美濃入道・祢津宮内少輔・祢津越後守遠光、それに祢津氏の一党として淡路守貞幸・右京亮宗直・上総守(?)貞信らが挙げられている。また、永亨二年(1440)の結城合戦に参加した、祢津遠江守がいる。『結城戦場別記』には、祢津伊豆守の功名が記されている。しかし、これら祢津氏は伝わる系図とは必ずしも一致しないのである。
これは、おそらく、遠光以前の祢津氏の系は、一族庶流が史料に残り惣領家が史料に現われなかったのか、あるいは、系図そのものに誤伝が生じたのか、にわかに判断はできないが、全面的に信を措くわけにはいかない。祢津氏が明確になってくるのは信貞以後である。
『御符札之古書』などから、信貞以降の祢津氏の動向をみると、
宝徳元年(1449)信州祢津大守上総介信貞、宝徳院を開創
長禄二年(1458)花会、宮頭、田中、祢津宮内少輔光直 頭役廿貫文
寛正元年(1460)五月会、流鏑馬、大石村、祢津宮内少弼知行
文明三年(1471)内県介、宮付祢津殿、祢津、御符之札宮内大輔光直、一貫八百
長亨元年(1487)五月会、右頭、祢津大田中、祢津覚直初
とあり、以後、神御使頭は、延徳元年(1489).亨禄三年(1530)・天文六年(1537)・同十二年と勤めている。ただ、勤仕者の実名は不明である。
以上のように、十四世紀から十五世紀にかけて、祢津氏が遠光-遠江守(女子か?)-信貞-光直-覚直と伝領されてきたことは間違いない。
武田氏の麾下に属す
天文十年(1541)、元直のとき武田信虎の軍門に降り、元直は、信虎の子武田信廉に付けられた。元直の跡は長男の勝直が早世していたため、次男の政直が継いだ。
政直は宮内少輔を称し、天文十年(1541)村上合戦のとき、真田幸隆とともに吾妻に落ちた。その後、天文十四年正月、武田信玄の麾下に加わり、諏訪攻めに出陣した。永禄十年(1567)上州箕輪城の在番を務め、信玄から上州小鼻の郷地を賜っている。同年八月、信玄に下之郷起請文を提出している。これはいまも「生島足島神社」に蔵されている。
天正三年(1575)嫡子月直が三河国長篠合戦で戦死。そのため、信州の本領を弟信忠の子信光に譲り、自身は隠居した。その後、天正十年の織田信長の甲斐侵攻に際しては、飯山城守将として織田軍に対し、越後の上杉景勝に援軍を求めている。武田氏滅亡の翌天正十一年九月、家康より甲州黒沢、駿州厚原に併せて三百五十石の知行地を賜った。以後、徳川氏に従い、天正十七年(1589)の吾妻合戦に出陣するなど、家康に近侍し上州豊岡の地を拝領した。ちなみに、政直の妹は信玄の側室となり、信玄の七男信清を生んでいる。
政直の家督は甥の信忠が継いだが、上州豊岡の地は末子の信政が継承している。慶長七年(1602)五千石の加増があり、併せて一万石となり、小さいいなが大名に列した。信政には二人の男子があり、長男の政次は大坂の陣に出陣した。ところが、政次には男子が無かったため、二男の信直がその跡を継いだ。しかし、寛永三年(1626)信直も男子が無いままに死去したため、豊岡一万石根津家は断絶した。
一方、信光の流れは、信光の子信秀が真田信幸に仕え、三千五百石の知行を受けたことが系図に記されており、大坂夏の陣には、信州上田勢の将として右備を受け持った。信秀の長男信重は信之より、本領の三分の一の知行状を得て真田氏の家臣となった。二男の直次は五百石、末子の直片は二百石をもらって、それぞれ真田氏の家臣となり、子孫相続いた。
ところで、徳川幕臣に信濃根津氏の後裔祢津氏が見える。寛政系譜に「定之進光長−六郎右衛門光利−六左衛門光貞」と記され、その家紋は「丸に違鷹羽」「花菱」と伝えている。先の祢津氏との系譜的関係は不明である。
【拾い話】
根津氏、武田信玄の血を残す。
天正十年、武田氏の滅亡時に信玄の直系男子としては、次男海野信親(龍芳)の子海野信通と、七男信清がいた。信清の母親は根津元直の女で、幼少の時に出家し、長じて還俗した。武田家滅亡のときは、姉の夫である上杉景勝の庇護を受け、上杉家が越後かあ会津、さらに米沢へと移封されるのに従い、子孫は代々存続し現代に至っていいるという。
信清は、越後のとき三千石、会津では三千三百石、米沢では千石っを知行した。そして、慶長六年(1601)上杉景勝の命により、武田家を再興し、武田家代々の名称である大膳大夫を称し、諸役御免の高家として侍臣の上位に遇された。
【参考資料:上田市立図書館蔵書/根津・禰津家-家歴と系譜(長野県立図書館蔵書)】
■参考略系図
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|