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上野原加藤氏
●上り藤に三つ目結
●藤原氏利仁流
西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎の加藤神社境内に残された紋から。
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加藤氏は藤原氏の一族といい、その出自は藤原利仁流、藤原北家道長流など様々である。そして、加藤氏の「加」は加賀の藤原からきたものといわれる。
甲斐国の加藤氏は藤原利仁流といい、『尊卑分脈』によれば、源頼義の郎党藤原景道が加賀介であったことから「加藤」を称するようになったとみえている。景道の孫景廉は源頼朝の旗揚げに参加しが、石橋山の合戦に敗れて甲州へ逃れ甲斐源氏を頼ったという。やがて、平家が滅亡して鎌倉幕府が成立すると景廉は鎌倉御家人となった。建久四年(1193)安田義定が頼朝から討っ手を向けられたが、その討っ手は梶原景時と加藤景廉であった。安田氏が滅亡したのち、遠江国浅羽荘の地頭職を得たが、正治二年(1200)に梶原景時が討たれたとき、景廉は景時と親しかったことから所領を没収されてしまった。
建暦三年(1213)、和田義盛が乱を起し滅亡したとき、義盛の乱に加わった人物に古郡保忠がいたが、乱後、保忠の所領である甲斐国都留郡古郡が加藤兵衛尉に与えられた。この加藤兵衛尉は景廉の子景朝の子景長といわれ、加藤氏は景廉の孫の代に至って、甲斐国に拠点を得たのであった。
戦乱と加藤氏
以後、甲斐加藤氏の動向は定かではない。やがて、南北朝時代を経て、室町時代に至った。甲斐の守護は代々武田氏であったが、十五世紀のはじめに起った「上杉禅秀の乱」に際して武田信満は禅秀方に加担して没落、甲斐一国は大混乱に陥った。そのようななかで、有力国人逸見氏が鎌倉府と結んで台頭し、それに武田一族である武田信長が対抗した。
この武田信長に味方して活躍したのが加藤梵玄で、信長に属して西郡に討ち入り、逸見中務丞とたびたびの合戦を行った。しかし、永享五年(1433)四月の「荒川の合戦」に敗れ、武田信長は鎌倉公方持氏に降り、鎌倉にのぼった。このとき、加藤梵玄も信長に従って鎌倉に入ったが、鉄棒を杖についてその大力無双ぶりをみせて鎌倉の人々を驚かせたことが『鎌倉大草紙』にみえている。加藤梵玄は下河東にいたといい、下河東の永源寺は梵玄が開基と伝え、その境内が梵玄の邸跡だという。また、梵玄は都留郡上野原鶴川に居城を構えていたとも伝えられている。
その後、文明八年(1476)「長尾景春の乱」が起ると加藤氏は景春方に味方して、上杉方の太田道灌の攻撃を受けている。このころになると、加藤氏は都留郡上野原を中心に勢力を拡大していたようだ。そして、さまざまな記録に加藤氏の名が見えるが、それぞれの系譜的な位置付けは明確ではない。
やがて、戦国時代になると上野原城主として加藤駿河守虎景が現れ、武田信玄の旗本武者奉行をつとめた。『武隠草話』には「上杉謙信の家老宇佐美駿河定行、毛利輝元のうちの吉川駿河元春、そして武田信玄のうちの加藤駿河光貞(虎景)を三駿河という」とみえている。また『甲陽武鑑』には「旗本の武者奉行、信玄公への弓矢の指南をした」とあり、加藤駿河守が傑出した武将として認識されていたことが知られる。
駿河の子丹後守景忠も剛勇の士で、甲斐と相模の国境である津久井口を守備した。永禄十一年(1568)ごろの信玄書状によれば、小田原の北条氏康が武蔵国多摩郡三田に城を築いているので、国境警備を厳しくするように命じられている。。一般的に都留郡は、武田氏の重臣でもあった小山田氏の支配が全域に行き届いていたとされる。しかし、相模との国境である上野原一帯は富田・安藤・野崎・中島・上条・石井・市川の「上野原七騎」と称される武士団を率いる加藤氏が支配権を握っていたのである。
武田氏の滅亡
天正十年(1582)、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡した。このとき、加藤氏は上野原にいたようで、一族をつれて武蔵国に逃れたが、多摩郡箱根ケ崎で百姓一揆の手にかかって一族・家臣ともども討死した。
ところで、駿河守の子加藤弥五郎は初鹿野氏の家督を継ぎ、初鹿野伝右衛門と名乗った。武田家臣としては土屋惣蔵・小山田八左衛門と並び重用され、逸話も多い。伝右衛門は勝頼の滅亡の最後まで仕えたが、のち徳川家康の麾下に入り、関東移封のとき七百石の地が与えられた。小田原・大坂の陣以下の合戦で使番などをつとめ、寛永元年八十一歳で没した。
【参考資料:・上野原町史/山梨大事典 ほか】
●家紋につきましては、上野原加藤氏の子孫にあたられる加藤さまからご教示いただきました。すなわち、加藤丹後守景忠が戦没した地でである西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎に加藤神社というのがあり、神社の境内に、上がり藤に三つ目の家紋が刻まれているとのこと。加藤さまの御家もこの家紋を継承されているとの情報をお寄せいただきました。
■参考略系図
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●加藤さまから以下の加藤氏の系図に関する追加情報をいただきました、古い上野原町誌の中の上原氏の系図から加藤氏の名を拾ったものです。上原氏と加藤氏は長い間、政略結婚を繰返していたようです。
名前 | 年代 | 注記 |
加藤左衛門尉景俊 | 宝治三年(1248) | 上原信城の娘嫁ぐ |
加藤日向守景興 | 文永五年(1268) | 上原信実の娘嫁ぐ |
加藤修理太夫胤景 | - | 娘は上原信良の母 |
加藤河内守寛景 | 元徳元年(1329) | 上原左馬佐の娘嫁ぐ |
加藤九兵衛景実 | - | 娘は上原義実の母 |
加藤五良景城 | 明徳四年(1393) | 上原信良の娘嫁ぐ |
加藤九良入道景城 | - | 娘は上原義信の母 |
加藤主計頭景明 | 永享四年(1432) | 上原義信の娘嫁ぐ
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この後、駿河守、丹後守の名も見ることができ江戸時代中期まで政略結婚は続いていたようです上原氏の系図の流れから見てもこれらの人物が当主であった可能性は高いと思いますが不詳です。とのことです。
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