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田尻氏
●撫 子
●大蔵氏族
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田尻氏は鎌倉時代から山門郡高田町田尻地区一帯を本拠とする国人領主で、大蔵春実の後裔といわれる。
伝えられる系図などによれば、寿永年間(1182〜84)に大宰大監原田種成の三男種実が、筑前国から筑後国三池庄田尻邑に移り住み、田尻三郎を称したことに始まるという。弘安四年(1281)の元寇の戦いに、種範の子種重・種光兄弟が出陣して戦死、その功により種重の子種長が薩摩鹿児島郡の地を与えられている。
大友氏麾下に属す
筑後国の守護は豊後を本領とする大友氏で、田尻氏は左衛門大夫恒種のとき大友氏に属するようになった。永正年中(1504〜21)に筑後の黒木・蒲池氏らが大友氏に謀叛を企てたとき、遠江守治種はその誘いに応じず、大友氏に忠節を通した。田尻氏は三池郡北部の大半と山門郡南部に知行地を領し、治種のあとを継いだ伯耆守親種の代に山門郡鷹尾城を築いて居城としたといわれる。親種は『豊後府内日記』を残し、そのなかに大友氏一族と地方領主との儀礼・贈答の法式が示され貴重な史料となっている。
天文十九年(1550)、大友氏では「二階崩れの変」が起り、大友義鑑が横死した。家中の混乱を押えた義鎮(のちの宗麟)が、大友氏の家督を継いだ。ところが、大友義鑑に肥後を追われていた菊池義武が、旧臣を催し、さらに筑後の三池・西牟田・溝口氏らの支援を得て熊本城に復帰した。この争乱に際して田尻親種は、大友氏に味方して鷹尾城に立て籠り、三池・西牟田・溝口氏らと戦った。親種は蒲池氏と結び、一族の山城守鑑乗らの活躍もあって筑後の反大友勢の討伐に活躍した。
天文二十年、大内義隆が重臣の陶隆房(のち晴賢)の謀叛で殺害され、隆房は義鎮の弟晴英(のちの大内義長)を大内氏の跡継ぎに迎えた。いままで大内氏の攻勢にさらされていた大友氏は、ここに豊前・筑前に勢力を拡大することができた。しかし、弘治元年(1555)に晴賢が毛利元就と戦って敗れ、さらに内義長も元就によって滅ぼされると、北九州の情勢はにわかに急を告げてきた。
弘治三年(1557)、筑紫惟門・秋月文種らが毛利氏に通じて、大友氏から離れて兵を挙げた。義鎮はただちに兵を送って、筑紫、秋月らを討ち取った。永禄二年(1559)、筑紫惟門は博多を襲撃し勢力を盛り返した。大友軍はただちに討伐軍を出したが、侍島の合戦で大敗を喫して星野鑑泰・問註所鑑晴らが討死した。田尻親種も一族を率いて参陣したが、弟の種廉・種増をはじめ多くの兵を失った。ほどなく、惟門は大友軍に降伏を申し入れたが、それを取次いだのは親種であった。筑前の争乱をおさえるため義鑑は、高橋鑑種を筑前代官、太宰府宝満城督として派遣した。
北九州の擾乱
筑前・豊前を舞台に大友氏と毛利氏の戦いは繰り返され、永禄四年には大友氏は毛利軍に大敗した。やがて永禄七年、将軍足利義輝の扱いで毛利・大友氏の間に和睦が成立した。ところが、永禄九年になると、宝満城督の高橋鑑種が秋月種実、筑紫惟門らに呼応して、大友氏から離反した。
このような筑前の擾乱に業を煮やした義鑑は、戸次鑑連を大将とする討伐軍を筑前に送った。鑑連は高橋鑑種を降すと、秋月氏の拠る古処山城の攻略に向かった。この陣には、豊前の長野・麻生・城井の諸将、筑後から三池親高・田尻鑑種らが参加していた。そこへ、毛利氏が豊前に渡海したとの噂がたち、豊前の諸将は兵をひきあげ、鑑連も仕方なく一旦休松まで兵を退いた。それをみた秋月種実は、夜襲を企て、休松の大友軍を散々に打ち破った。この戦いで、戸次鑑連の弟四人が戦死し、鑑種も叔父鑑永をはじめ一族六人を失った。この敗戦によって、大友方の立花城将立花鑑載までが大友氏から離反した。
やがて、義鑑は庇護していた大内輝弘を周防に帰国させ、さらに出雲の尼子残党に手をまわして毛利氏の後方攪乱をはかった。ついに毛利氏は北九州から撤退し、反抗勢力も大友氏の征圧されていった。その間の争乱に田尻氏は大友方として出陣、多くの犠牲をはらったのである。
元亀元年(1570)、大友宗麟の肥前佐嘉城攻撃に際し、鑑種は龍造寺氏への和議の使者となっている。大友氏は義鎮(宗麟)の代に北九州六ヶ国の守護に任じられ、九州最大の大名として全盛を誇った。しかし、天正六年(1578)に日向国耳川で島津氏に敗れてのち、次第に勢力を失っていき筑後支配も弱体化していった。
大友氏に代わって筑後に勢力を伸ばしてきたのが、肥前の龍造寺隆信であった。天正六年、隆信が筑後に進出してくると、柳川城主の蒲池鎮並は隆信に通じ、これに草野鑑員・西牟田鎮豊らがならった。その一方で、上蒲池の志摩守鑑広、三池上総介らは大友氏に忠節を尽くして隆信に抵抗した。田尻鑑種も反龍造寺の立場であったようだが、翌天正七年、隆信が二万三千の大軍を率いてふたたび筑後に出陣してくると、甥にあたる蒲池鎮並から降伏をすすめられ、ついに隆信に帰服した。
一族、蒲池氏を討つ
龍造寺隆信に降った鑑種は、甥の蒲池鎮並とともに上蒲池鎮連・三池鎮実攻めに協力した。また、肥後玉名郡筒岳の小代伊勢守宗禅を攻めて降伏させるなど戦功をあげ、隆信からの信頼をえるようになった。
ところが、蒲池鎮並が隆信との齟齬から叛旗を翻した。隆信は嫡子政家に一万三千の軍勢を与えて柳川城を攻撃したが、守りが堅く、田尻鑑種が仲介にたち、鎮並と隆信の間に和議が成立した。ところが、天正九年(1581)、鎮並は島津氏に通じてふたたび隆信に叛こうとした。これを知った隆信は、謀略をもって鎮並を佐嘉に招きよせ、騙し討ちにした。
鎮並を謀殺した隆信は、時を移さず高尾城にいる田尻鑑種に、柳川の蒲池残党討伐を命じた。断ればみずからも隆信に討たれることは明白であり、鑑種は柳川の残党征伐に乗り出した。田尻氏と蒲池氏の兵たちには、兄弟や縁つづきのものが多く、同士討ちのすえに鑑種は蒲池氏を討ち果たした。
蒲池鎮並を謀殺した隆信に対して、諸豪たちの間にその非道さを憤る声があがり、筑後国内でも、天正十年二月、猫尾城主の黒木兵庫頭家永が反旗を翻した。蒲池氏を直接討った田尻鑑種も、隆信に対して割り切れない不信感を抱いたのではないだろうか。翌天正九年八月になると田尻鑑種が島原の有馬晴信とはかって、島津家に使者を送り幕下についたという風聞が立った。
十月、腹を括った鑑種は鷹尾城において抗戦の構えに入った。龍造寺政家は肥筑三万の軍勢を率いて鷹尾城に攻め寄せたが、鑑種はよく防戦して佐嘉勢は遠巻きの状態となった。これに業を煮やした隆信はみずから指揮に当ったが、攻撃はことごとく撃退され、籠造寺軍は押さえの兵を残して柳川へ帰城した。鑑種はこの間に急使を立てて、島津氏に応援を求めた。
翌十一年正月、島津氏は伊集院若狭守を田尻への援軍として送った。若狭守は三百余騎を率いて海路到着し、兵糧を城に運び入れ城兵を励ました。城兵の士気は大いにあがったが、その年の十一月、鑑種は龍造寺との間に和議を講じた。城を開いた鑑種は堀切城に移り、嫡子長松丸に対し堪忍分として新地二百余町が宛行われた。
戦国時代の終焉
天正十一年(1583)の夏、島原日野江城主の有馬仙岩(暗信)が島津氏に通じて龍造寺氏から離叛した。翌天正十二年三月、龍造寺隆信はみずから三万余の兵を率いて出陣、日野江城に向かった。仙岩は島津義久に応援を求め、義久は弟の家久を大将とする三千騎の精兵を送った。
兵数に劣る島津・有馬連合軍は、一計を案じて沖田畷を主戦場に選んだ。一方の隆信は大軍に奢って、ひたすらに押してきた。沖田畷は湿地帯であり、大軍を展開することできず、島津の策にはまった龍造寺軍はつぎつぎと討ち取られ、ついには大将の隆信までが討ち取られてしまった。『北肥戦誌』には、この時の筑後の戦死者として、田尻但馬入道了哲、西牟田紀伊守統実らの名が記されている。
隆信を失った龍造寺氏は、柳川の鍋島信生(直茂)を佐嘉に移して執政となし、龍造寺家の立て直しをはかった。このとき、上蒲池、黒木、西牟田、草野、星野、門註所氏ら筑後の諸将は龍造寺家に神文を送って異心なき旨を表わしている。
一方、大友氏は筑後の失地回復を狙って田原親家、親盛を大将にして、田北、木付、臼杵ら七千の軍勢を筑後に進攻させた。以後、筑後を舞台に大友氏と龍造寺氏は戦いを展開することになる。この事態に際して鍋島信生は、さきの謀叛ののち佐嘉に在番していた田尻鑑種を呼んで筑後守備を命じ、鑑種は手勢を率い筑後に渡り海津城に入った。
大友軍は猫尾城に拠る黒木家永を討ち取り、山下城の蒲池鎮運を降し、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めた。旧領鷹尾城周辺を守っていた田尻鑑種、鎮種父子が佐嘉に出張中のところを攻められ、留守を守っていた田尻勢は大友の大軍を見て逃亡してしまったという。
その後、龍造寺氏に代わって執政の鍋島直茂が肥前佐賀の領主となると、これに従い家臣となった。文禄二年(1593)、朝鮮において鑑種・又三郎父子は死去し、直茂は次男春種を取り立てて田尻氏を継がせた。
【参考資料:瀬高町誌/山門郡誌/大木町誌 ほか】
■参考略系図
・「姓氏家系大辞典」田尻氏の項所収系図/群書類従系図部集-田尻氏系図より作成。
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