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木付氏
●輪違い/抱き杏葉
●大友氏一族
・抱き杏葉紋は大友氏から賜ったもので、木付氏はいわゆる同紋衆の一家であった。
 


 木付氏は大友氏の一族である。大友氏二代親秀の六男親重は、建長二年(1250)、鎌倉幕府から豊後国速見郡武者所として八坂郷木付荘に封じられ、三千五百貫を領し竹ノ尾の高台に築城した。そして、地名の木付を名字として名乗ったのが木付氏の始まりである。親重は鎌倉幕府の将軍に迎えられた宗尊親王から、「和漢将軍と称すべし」とほめられたほどの文武兼備の名将であった。
 弘安四年(1281)の蒙古襲来のとき、大友宗家頼泰に代わって、親重が三百余騎の兵を率いて出陣、元の大軍を八角島に襲撃し、五千騎を撃退し大船五叟を捕獲する功をたてている。
 元弘の動乱に際して、大友氏と少弐氏は鎮西探題北条英時を攻撃、北条英時以下一族郎党は自害し、鎮西探題は崩壊した。木付貞重もこれに参加していたが、大友一族だけでなく豊後の国人衆の多くが参じていた。かくして建武の新政が発足したが、建武二年(1335)、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したことで内乱と状態となった。一時、京都を制圧した尊氏は官軍の北畠顕家と戦って敗れ、九州へと落ち延びた。九州宮方の菊池氏を「多々良浜の戦い」に破った尊氏は体制を立て直すと、大友一族ら九州の武家方勢力を引き連れて京都に攻め上った。
 延元元年(建武三年=1336)、木付貞重は大友(立花)貞載に従って京都にあり、足利尊氏の命により、結城親光の降伏が事実かどうかを確かめようとした。そして、京都洞院東烏丸で結城方と遭遇し、激戦のすえに貞載とともに討死した。

大友氏に属して奮戦

 その後、京都を脱出した後醍醐天皇は吉野に逃れ、尊氏は北朝方の天皇を立てて足利幕府を開いた。以後、半世紀にわたる南北朝の内乱が続くことになる。
 やがて、応安四年(1371)足利義満が九州に下向し、大友親世はその護衛として筑後国高良山の麓で陣をとり、木付頼直は田原左近将監直平と左右の先鋒を勤めたという。しかし、応安四年は今川貞世(了俊)が九州探題に任じられた年であり、また「高崎城合戦」があった年で足利義満下向という史実はない。今川貞世下向のことが、過って伝えられたものであろう。とはいえ、木付頼直は諸所の合戦に参じて、武勇抜群により大友氏一族の「同紋七家」に加えられたことが知られる。また、頼直のときに居城を竹ノ尾から海と断崖に囲まれた要害堅固の台地に移した。城は応永元年(1394)に竣工し、木付城(台山城・臥牛城とも)と呼ばれた。
 頼直の孫親公のとき、大友持直は少弐氏と結んで大内盛見を討ち取った。盛見は幕府の筑前代官の職にあり、盛見の戦死を知った将軍足利義教は大内持直の守護職を取り上げると、大友親綱に守護職を与えた。さらに、大内・河野氏らに大内持直攻めを命じた。
 持直は豊後の国人諸将を率いて出陣、両軍は臼杵と津久見の境にある姫岳で激突した。このとき、親公は敵将河野通久と戦い相討ちで戦死した。永享七年(1435)のことであり、その後ほどなく持直は足利氏の軍門に降った。その三年前の戦いで、親公の嫡男能世が豊前の篠崎で大内氏と戦って戦死している。このように、木付氏歴代の多くが大友氏に仕えて戦場の露と消えている。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起ると、大友親繁・政親は東軍に属して九州の西軍を鎮圧した。このころから、時代は戦国乱世の様相を深め、下剋上の風潮が蔓延し、相続をめぐる家中内訌が頻発するようになった。大友政親は家督を嫡男の義右に譲ったが、のちに政親と義右の父子は対立するようになり、家臣団も二派に分かれて互いに争うようになった。このとき、木付氏は義右派に加担した。
 明応三年(1494)、政親派の田原親宗が府内館の義右を襲ったが、館を守る兵は良く戦い、これを撃退した。敗れた親宗は国東方面に逃亡したが、これを木付親久は富来繁教とともに御野崎で迎撃して田原軍を全滅させた。

諸所の合戦に軍功を重ねる

 十五世紀になると、中国地方の大大名大内氏の北九州侵攻が繰り返された。天文三年(1534)、速見郡山香町の「勢場ケ原」において大友義鑑軍と大内義隆の軍とが一大決戦を行った。大友軍の大将吉弘氏直は大村山に本陣を構え、地蔵峠には野原昌久、立石峠には田北鑑生・木付親実が配置された。決戦の火蓋が切られると、吉弘氏直は敵陣に突入してあえなく戦死、これを知った田北・木付・野原氏らは勢場ケ原に馳せ参じて大内勢と激戦を展開した。その夜、木付親実は大内軍に夜襲をかけ、大内軍は敗れて撤退したが、このときの戦いで親実は戦死したという。
 天正五年(1577)日向の伊東義祐が、薩摩の島津氏に敗れて宗麟を頼って逃げてきた。さらに、伊東氏が敗退したことで土持親成が島津に寝返った。この事態に対して大友義鎮(宗麟)は、嫡男大友義統を総大将にして三万の兵北日向に派遣して土持氏を征伐した。勝利に気をよくした大友軍は、南日向攻めを開始した。木付鎮秀にも出陣命令が下り、大友軍は耳川を越え高城において島津軍と戦い敗北を被った。大友軍が兵を退くところを島津軍が追撃、耳川の決戦で大友軍は潰滅的敗北を喫した。この乱戦のなかで、木付鎮秀は敗兵をまとめ、殿軍をつとめて悠々と引き揚げたことで、義統から感状をえている。しかし、この耳川の敗戦を境として、大友氏にも衰退の色が見えるようになるのである。
 天正八年、安岐城主田原親貫が大友氏に反旗を翻すと、大友氏は吉弘統幸を大将として親貫討伐の軍を起した。木付鎮秀も安岐城攻撃に加わったが、味方であるべき奈多鎮基の軍が木付軍を背後から襲い、悪戦苦闘の末、鎮秀は弟の鎮之とともに戦死した。親貫らも討ち取られたが、木付氏には不幸な結果となった。鎮秀の戦死後、嫡男の鎮直が家督を許されて木付氏を継承している。
 その後、島津氏は肥後の相良氏を降し、天正十二年には龍造寺隆信を討ち取り、勢力は拡大を続けた。逆に大友氏は守勢に立たされ、ついに天正十四年(1586)、大友宗麟は上坂して豊臣秀吉に救援を請うた。同年、島津軍は豊後への進攻を開始し、島津義弘が肥後路から三万騎を率いて、日向路からは島津家久が一万騎を率いて豊後に乱入、府内の大友館を襲った。その余勢をかって島津軍は、鎮直が守る木付城に攻め寄せた。大将は島津の猛将新納忠元で、新納軍は木付城を真正面から攻撃した。木付城は天然の要害であり、鎮直もよく兵を指揮して二ヶ月にわたって新納軍を釘付けにした。
 木付城が頑張っている間に、秀吉の発した大友氏援軍が続々と九州に上陸してきたため、島津軍は兵を引くことに決し、木付城を攻める新納忠元にも引き上げの命令が届いた。退却の気配を感じた鎮直は、天正十五年(1587)二月、引き上げる新納勢に追い撃ちをかけ、徹底的に島津勢をたたく大勝利をえた。以来、木付城は勝山城と呼ばれるようになった。

木付氏の終焉

 それから五年後の天正二十年(文禄元年=1593)、秀吉の朝鮮出兵が始まった。大友義統も六千の兵を率いて渡海したが、そのなかには木付統直、子息の甚九郎直清と一族五名、騎馬武将三十三騎、歩卒七十七名、合わせて百五十名の木付勢が従っていた。
 ところが、文禄二年の戦いにおいて、大友義統は卑怯な振舞いがあったとの罪で改易処分となった。ここにいたって大友家と一族、家来は離散の憂き目となった。木付統直は朝鮮の鳳山の戦いで嫡子直清を失い、主家も滅び、帰国の途中の門司の浦で自刃入水した。この悲報は、ただちに木付城中の父鎮直に届き、鎮直夫妻もともに城内で自害した。ここに木付氏十七代、三百四十四年間にわたる歴史は幕を閉じたのであった。・2005年07月07日

参考資料:杵築市史/続編年 大友史料 ほか】


■参考略系図
『続編年 大友史料』に収録された系図をもとに作成。  
  


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