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日田氏
●鬼洲浜/三つ巴
●大蔵氏流
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中世、豊後国日田郡の武士階層を代表したのは、日田郡司職に就いた日田大蔵氏であった。大蔵氏は、大和朝廷の官物を収めた蔵であるる大蔵に仕えた漢氏の子孫といい、のち大宰府の官人として九州に勢力をもった。嫡流の原田種直は平氏政権のもとで、九州支配の要として権勢を振るった。大蔵氏からは原田氏のほか、秋月・原田・天草氏らが分出して鎌倉幕府成立後も北九州各地に大蔵一族は繁衍した。
日田郡司日田氏は、大蔵氏に出自を求めているが、実際のところは明確ではない。一説に、天武天皇の曾孫で豊後介の任にあった中井王の末裔とするもの、あるいは宇佐氏の後裔とする説などが伝えられている。日田氏が伝説の域を脱して確実に歴史上に登場するのは大蔵永季、俗に「日田どん」と呼ばれている人物からである。永季が京の相撲の節会に記録されたのが延久三年(1071)、それから永享四年(1432)に滅亡した二十一代七郎丸(永包)まで、日田氏は三百六十余年にわたって日田の支配者であり続けた。
日田氏の登場
源平合戦期の日田氏の惣領は永秀で、永秀は原田種直から平家方に味方するように誘われたが、源氏に味方して櫛崎城を修築して頼朝の下知を待った。その後、平家が太宰府に没落すると、臼杵惟隆・緒方惟栄らとともに三笠原を攻略することになった。ところが、臼杵は原田勢に緒方は菊池勢に阻まれ、ひとり日田永秀のみが平家を追い落した。この軍功により、建久五年(1194)、源頼朝から日田荘地頭職安堵の下文を与えられ、御家人日田氏が誕生したのである。
蒙古が襲来した「文永・弘安の役」には、永基・永資らが出陣して軍功が有ったことが知られ、『蒙古襲来絵詞』にも日田氏が参陣していたことが記されている。その後、南北朝時代を経て室町時代になると幕府奉公衆にも名が見えている。
大蔵氏は日田郡司として名目上の支配者だったばかりでなく、郡内の各地域に配置した同族および他の豪族たちを糾合して、実質的にも西豊後に一大勢力を構えていた。初期には中央権力に服しながら実利はしっかり取り、後期には大友氏に従いながらも独立的地位を確保していた。
永享四年、永秀(永純)が死去したことで、幼い七郎丸が家督を継いだ。これに対して、一族の永好が家督を狙って謀叛を起したが、七郎丸によって討ち取られた。ほどなく、七郎丸も永好の家臣に暗殺され大蔵姓日田氏は断絶という結果となった。この事態に際して、七郎丸の姉を室としていた大友永世(親満)が郡司職を継ぎ、日田氏は大友系として再生したのである。
大友系日田氏
大友氏から入って日田氏を継いだ親満は、『大友家文書録』によれば大友親隆の子と記されており、『豊後国日田郡司職次第』『豊西記』『日田記』も同様の立場である。一方、『日田造領記』では大友親繁の子親常が日田家をつぎ「名を永世と改め、後また親武と改む」と記している。さらに、『豊後国志』は大友氏時の一子氏世が日田氏を継ぎ日田四郎を称したとしている。ここでは、大友親隆の子親満が日田氏を継いだことにしておきたい。
さて、親満は子がなかったため、大友親繁の子で甥にあたる親常を養子とした。親常は日田郡主、日田郡守護などと称して朝鮮との貿易を行っていたことが知られるが、何を輸出して何を輸入したかについては一切不明である。ただ、日田という山間部に割拠しながら、朝鮮との貿易を行っていたことは注目されよう。文明年中(1469〜86)、親常は政親から三池城退治を命じられ出陣し、延徳二年(1490)に家督を親有に譲っている。そして、『日田記』によれば明応三年(1494)に没したという。
十五世紀末、大友政親と義右父子の対立が表面化し、明応五年、義右が病死(毒殺といわれる)した。義右の死によって政親は臼杵から筑前に逃れたが、大内氏に捕えられ生害された。これにより、大友氏の家督は政親の弟親治が継ぎ、親治は反乱分子の掃討を行った。このとき、政親の自殺に憤慨した日田親有は、豊前に出陣すべしといきまき日田を出陣したが、その途中で側近(内応者か)に討たれてしまったという。あるいは、親治と反乱分子の市川・田北氏らが戦った御所辻の合戦で戦死したともいわられる。
日田氏の没落
親有には子がなかったため、大友親明の子親賢が入って日田氏を継いだ。親賢の代の永正十三年(1516)、「朽網親満の乱」が起こったが、親賢がこの乱にどのように関わったのかは分からない。親賢のあとは親将が継いだ。ところが親将は悪政を行ったため日田郡士の反発を招き、ついには天文十七年(1548)、大友義鑑の勘気を蒙って自刃し郡司職は断絶した。
日田氏が没落したことで、その後の日田郡は大蔵一族の堤・財津・高瀬・坂本・羽野・石松の六氏に命じて、郡政を統治させた。これを郡老と称し、のちに目代二名を追加して「八奉行」と呼ばれた。
一方、日田親将の子塩房(親当?)は天文三年に大友義鑑に背き、大内義隆に応じたというが、年代的に疑問が残る。『日田記』によれば、親将の子に親永がおり、成人後、義統に仕えて豊前国田川郡内に采地を与えられたが、朝鮮の役に出陣し異郷の地で没したという。親永の子は財津氏に養育され、成人してのち日田六郎を名乗って細川氏に仕えたと伝えられている。・2005年4月29日
【参考資料:日田市史 など 】
■参考略系図
・日田市史に掲載された系図から作成
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