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多久氏
●桔梗/十二日足
●桓武平氏三浦氏流
多久氏の場合、戦国時代末期を境として前多久氏と後多久氏とに分かれる。後多久氏の家紋は、「十二日足」であった。一方、宗直を祖とする「前多久氏」の家紋は一説に「桔梗」といいわれる。一族の相神浦氏が「松皮の内に桔梗」であることから、「桔梗」であったとみて間違いないだろう。


 肥前の中世武家の一つに、梶峰城を本拠として現在の多久市周辺を領した多久氏がいた。多久氏は鎌倉御家人で、いわゆる「下り衆」であった。
 ところで、平安時代に編纂された『和名類聚抄』の高來郷の項に、「小城郡高來(多久)あり、名義は古に栲木の多き處などにて負せたくるべし」とある。ちなみに、「栲」は「たえ」と読み、人名では「たく」と読む。「栲」は桑科のカジノキの樹皮をはぎ、その繊維で織った布「白栲の衣」のことで、古代の多久は、カジノキやヒメコウゾが繁茂し、白栲の衣の産地であったと思われる。
 『肥前風土記』に高来(たく)の駅名が出ており、『和名類聚抄』には高来東郷、高来西郷の地名が記載されている。奈良時代から平安時代には別府・下多久地区を中心に条里制が敷かれ、「たく」の地名が誕生したようだ。
 そのような多久に多久氏の祖といわれる多久太郎宗直が入ってきたのは、鎌倉幕府が開かれる前年の建久二年(1191)のことであったという。

多久氏の出自

 宗直の肥前下向について『九州治乱記』には、「多久太郎宗直とて、右大将頼朝公の御時、鎌倉に仕えてあり。ある時、右大将家御遊の次に御戯ありて、此宗直と朝比奈三郎義秀との相撲を御好みありけるに、宗直二番勝ちけり」といい、その褒美として多久と称するところはすべて恩賞として与えられることになり、日本国中に三ケ所あった多久を賜った。そのうち肥前の多久が最も広かったことから、肥前に下向したのだというのである。この記述は、もとより伝説に過ぎないものだが、多久氏の祖宗直の伝承の基本形となっている。
 多久に入部した宗直は、寺院や神社を建立し、荒れた寺院などを修復し、領内の政治に意をもちいて人心の平安につとめたというが、多久宗直の実在を裏付ける史料はいまのところ存在しない。とはいえ、多久氏の名前は各種の鎌倉時代より多くの史料に残されている。たとえば、『吾妻鏡』の建長二年(1250)に多久平太がみえ、『青方文書』『宗像神社文書』『鎮西探題御教書』などにも多久氏がみえ、多久に土着した多久氏が在地武士として成長していったことが知られる。
 とはいえ、多久氏の歴史に関しては不明な点が多く、その出自もさまざまな説がなされている。一般的に受け入れられているのは、桓武平氏三浦氏の分かれというものである。それによれば、三浦大介の弟にあたる津久井義行を祖とし、義行から五代の義高の子として生まれたのが、多久氏の祖宗直となっている。宗直は源頼朝に仕えて、関東御家人になったというが、それをそのままに受け止めらることはできない。
 ちなみに「多久市史」に、多久氏の系図が復元されているが、そこに見える人名は中世の史料に登場する多久氏とは、まったくといっていいほど一致していない。また、相模国三浦を本貫とする三浦氏の一族が摂津にいたこと。ついで、中世の武家の場合、名字と家紋とは一体のものであったが、多久氏は三浦氏の「三つ引両」を用いていないこと。これらのことから、多久氏を三浦氏の分かれとするには疑問点が多過ぎるようだ。
 これらのことから、中世を通じて多久を領した多久氏の出自は謎というしかない。

多久氏の動向

 鎌倉時代の御家人は、日本各地に所領を有していた。そして、惣領は鎌倉にあって幕府に出仕し、各地の所領支配は庶子や家臣を代官として派遣して政治をとらせることが多かった。おそらく多久氏の場合も、惣領(ここでは多久宗直)は鎌倉にあって、庶子が肥前の所領に下り土着したものであろう。
 多久庄に下向した多久氏は梶峰城を築き、若宮八幡宮を勧請した。蒙古が襲来してきた「文永の役」ののちの建治二年(1276)、多久宗国が少弐氏の指揮下で高木・龍造寺氏らとともに博多湾に石塁を作る石築地役をつとめている。
 鎌倉時代後期の多久太郎宗経は、鎌倉幕府の九州統括機関である鎮西探題の使節をつとめている。この宗経は寛元二年(1299)の『鎮西御教書』、嘉元四年(1306)の『多久宗経書下案』、延慶三年(1310)の『鎮西下知状』などに名がみえ、肥前の有力御家人であったことがうかがわれる。史料などには宗経のあと、宗種、宗国らの名前があらわれ、宗種、宗国(元冦時の宗国とは別人であろう)は南北朝の争乱期の多久氏の当主であったと思われる。しかし、宗経、宗種、宗国らの名は、伝えられる多久氏の系図にはみえない。
 鎌倉時代の後期、多久氏は鎮西探題に出仕しており、北条氏に近い存在であった。元弘の乱において鎮西探題は滅亡し、鎌倉幕府も崩壊した。この間における多久氏の行動は不明だが、その後の南北朝時代の暦応四年(1341)、多久太郎が九州探題一色範氏の使者を勤めている。動乱における行動こそ不明ながら、多久氏は動乱の時代を懸命に生きていたのである。

少弐氏の麾下に属す

 多久氏は肥前の有力武士として、鎮西の有力大名である少弐氏の支配下に属していたものと思われる。
 十五世紀になると、多久豊前守宗傅(むねつぐ)が登場する。宗傅は松浦党の諸氏とともに朝鮮貿易を行い、朝鮮の記録である『海東諸国記』の応仁二年(1468)に相当する年に、「多久豊前守源宗傅、居多久、有麾下兵」と記されている。
 『北肥戦史』に「少弐旧好の者」とあるように、宗傅は少弐氏に従ってきた。このような多久氏に対して少弐氏は朝鮮貿易の利を分け与え、宗傅は朝鮮貿易に有利な松浦党を称して源を名乗った。このことから、多久氏は源姓であったとする説が生じたようだ。一方、宗傅が朝鮮に使を送った応仁二年は、「応仁の乱」が起った翌年であり、世の中は戦国時代へと移行しつつあった。
 戦国の波は肥前にも押し寄せ、中国の大内氏が北九州に進出、少弐氏との間で戦いが繰り広げられた。多久氏は高木氏や龍造寺氏らと千葉氏に属し、少弐氏を支援して大内軍と戦った。しかし、大内氏の軍事力は強大で、少弐氏は次第に圧迫されるようになった。
 明応四年(1495)、少弐高経は大内方の原田興種軍と上松浦で戦い、原田軍を撃破した。この戦いに多久氏も参加したようだ。大内義興は本格的に少弐氏攻めを企図し、明応六年、重臣の杉氏、陶氏を九州に攻め入らせた。少弐氏は太宰府を失い、高経は神埼の勢福寺城に逃れた。勝ちに乗じた大内勢は、肥前に入ると勢福寺城を攻撃した。高経は父政資を庇護する千葉胤資の晴気城へ逃れたが、晴気城も大内軍に包囲され、政資・高経父子は胤資の勧めを入れて多久宗時の居城である梶峰城へと走った。政資・高経父子を落したのち、胤資は晴気城から打って出て討死した。
 梶峰城に逃れる途中で高経が討たれ、政資は辛うじて梶峰城に入ることができた。しかし、大内勢が梶峰城に押し寄せてくると、宗時は政資に自害をすすめ、ついに政資は切腹して果てた。この宗時の行動は「少弐旧好の者」ながら主君を裏切ったとして、「憎まぬ者はなし」と『北肥戦誌』」に記されている。とはいえ、千葉氏をはじめ龍造寺氏らも手を出せなかった大内氏の大軍を迎えた宗時にすれば、打つ手は無かったといえよう。

肥前の戦乱

 その後、豊後の大友氏や旧臣横岳氏らの支援を得た政資の末子資元が少弐氏を復活させた。資元は勢福寺城を居城として着々と勢力を回復し、将軍家の意向もあって大内氏と和睦、資元は肥前守護となった。しかし、享禄元年(1528)、資元が松浦党の支援を得て太宰府に進出すると、大内義隆は重臣の杉興運に資元討伐を命じた。
 享禄三年八月、神埼郡の田手畷で両軍激戦となった。この戦いに少弐氏の中核となったのは龍造寺家兼(剛忠)であった。戦いは激戦となったが、龍造寺氏配下の鍋島清昌が赤熊(しゃぐま)とよばれる異様な出立ちで大内軍の側面を攻撃したことで、大内軍は浮き足立ちついには敗退した。この戦いをきっかけとして、龍造寺家兼が頭角をあらわすようになった。  その後も、北九州を舞台に少弐氏方と大内方の戦いは繰り返されたが、状況は少弐氏に不利であった。天文四年(1535)、大内氏の攻撃で三根・神埼・佐賀を失った資元は多久の梶峰城に入り、子の冬尚は小田氏の拠る蓮池城に逃れた。翌年、大内軍が梶峰城を攻撃すると、後藤氏、波多氏、草野氏らは大内氏に味方し、頼りの龍造寺家兼も傍観を決め込んだため、資元は父政資とまったく同じ場所・状況で自害した。
 冬尚は傍観を決め込んだ龍造寺家兼を恨んで、水ケ江城を攻撃したが失敗した。これに対して家兼は、肥前における少弐氏の声望に配慮して、冬尚を勢福寺城に復帰させ、肥前一国の安定化をはかった。ところが、龍造寺氏の勢力拡大を嫌う馬場頼周ら少弐氏の重臣らが冬尚を巻き込んで謀略を企て、龍造寺一族の排斥を図った。
 馬場頼周は有馬氏、波多氏らを語らって謀叛を起させ、その征圧に龍造寺氏を出陣させ、その勢力を削ごうとした。このとき、多久宗利は謀略に加担して梶峰城に立て籠り龍造寺軍を迎え撃った。頼周の描いた筋書き通り、龍造寺方は所々の戦いに利を失い、ついには佐賀へと敗退した。  有馬氏らは佐賀城に押し寄せ、万事窮した家兼は筑後の蒲池氏を頼り、一族は筑前に逃れるもの、勢福寺城の冬尚に頼ろうとするものに分かれて佐賀城から脱出した。一連の騒動が馬場頼周らの罠とは知らな龍造寺一族は、馬場・神代勢によって次々と討ち取られてしまった。ここにおいて、龍造寺氏は壊滅的な打撃を受け、その勢力を大きく後退させた。

龍造寺隆信の台頭

 その後、龍造寺氏を継いだ隆信は大内氏と結んで少弐氏と対立し、天文十六年(1547)少弐冬尚を筑後に追い失っていた勢力を回復した。これに危惧いた抱く豊後の大友氏、反龍造寺の肥前の国人領主らの動きによって、ほどなく少弐冬尚は勢福寺城に復帰した。そして、天文二十年、龍造寺隆信の後楯となっていた大内義隆が陶晴賢の謀叛で横死した。この機をとらえた肥前の反龍造寺勢力は、一斉に龍造寺隆信を攻撃した。この戦いには多久氏も参陣し、孤立した隆信は筑後の蒲池氏を頼って落ちていった。
 その後、紆余曲折を経て龍造寺隆信は肥前に復活し、陶氏を討った毛利氏と結んで、着実に勢力を拡大していった。そして、永禄二年(1559)正月、勢福寺城を攻撃し、少弐冬尚を討ち取った。つづいて、馬場・横岳・犬塚氏らをつぎつぎと降し東肥前を支配下においた。
 隆信の勢力が強大するのをみた大友義鎮は、少弐氏の一族の政興をもって少弐氏を再興させ、これに有馬氏、大村氏、松浦党諸氏に働きかけて隆信攻めを企図した。西方から佐賀攻めを行うには、多久が重要な位置にあり、義鎮は多久宗利にも加担を呼びかけた。かくして、永禄五年、佐賀攻めが開始された。龍造寺隆信は杵島において有馬勢の進出を阻止し、松浦党の結束を崩すなどして防戦につとめた。
 さらに多久をめぐる攻防が行われ、多久宗利は丹坂口に出陣した。ところが、宗利の留守を衝いた龍造寺軍の攻撃によって、宗利は多久城に帰ることができなくなり、須古の平井氏を頼って落ち、鎌倉以来の本拠である多久を失う結果となった。

多久氏の没落とその後

十二日足  こうして、宗直に始まったという多久氏は宗利の代に没落し、元亀元年(1570)、龍造寺隆信の弟長信が梶峰城に入城し多久を支配するようになった。以後、長信の流れを後多久氏と呼び、宗直から宗利に至る多久氏を前多久氏と呼んで区別するようになった。
 天正十二年(1584)、島原沖田畷の戦で隆信が戦死すると、鍋島直茂が龍造寺氏を取り仕切った。そして、龍造寺氏のあとを継いぐカタチで鍋島氏が肥前を治めるようになると、長信の子安順は姓を龍造寺から多久に改め鍋島氏に属した。豊臣秀吉の朝鮮出兵には、鍋島氏に従って安順も出陣し、安順が連れ帰った陶工・李参平によって有田焼が始まったことはよく知られている。
 江戸時代、多久氏は鍋島氏の御親類同格として代々、佐賀藩の家老職を勤め、明治維新に際しては男爵を授けられ華族に列らなった。・2005年3月7日
・後多久氏の十二日足紋

参考資料:「多久市史」第一巻 ほか】

■参考略系図
・多久氏の系図を探る傍証として、宗直の女を迎えて多久一族になったという相浦(相神浦)氏の系図を併載した。しかし、相浦氏の系図は、一目で世代数が多いことが分かるものであり、多久氏の復元系図以上に疑問の多いものである。  
  


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