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小田氏
●寄り掛目結*
●藤姓宇都宮氏流
・藤姓小田氏の代表紋は「洲浜」が知られるが、肥前小田氏の系図の記載に拠った。経緯は不明ながら、「目結」は少弐氏から賜ったものと思われる。
 


 肥前国神崎郡小曲(蓮池)城主として勢力を誇った小田氏は、藤原北家八田流とされる。関白藤原道兼の三世の孫宗円が宇都宮氏を起し、その子宗綱は八田権守と称した。宗綱の嫡男朝綱は宇都宮の宗家を継ぎ、弟知家は八田氏を称して幕府御家人となり、頼朝に重く用いられて常陸の守護に任命されている。
 一説に、知家は頼朝の弟という所伝があり、「宍戸系図」などでみると知家の母は宇都宮朝綱の女で、知家は源義朝の十男として生まれたという。もちろんこうした所伝は後世の創作であろうが、頼朝との濃厚な関係をうかがわせるのに十分である。源氏のことはともかくとして、この知家が小田氏の祖になる人物である。

小田氏の肥前下向

 知家の曾孫時知は常陸筑波郡小田の城主となり、その三代の孫治久は元弘三年(1333)五月以来、後醍醐天皇方として働き関東南朝方の中心人物となった。南朝方の柱石とされる北畠親房が著わした『神皇正統記』は、治久時代の小田城内で執筆されたことは有名な話である。
 治久の三代のちの持久は、鎌倉公方足利氏に仕えて関東八屋形の一とされた。そして、持久の弟にあたる直家が鎮西小田氏の祖になったといわれる。応永三十四年(1427)、直家の子直光が肥前国神埼郡蓮池に下向して城を築き、そこに住んだのが肥前小田氏の始まりというのである。小田氏の居城は『肥陽軍記』に「長江のめぐれるを城塁として」と記されているように、城は佐賀江の曲流する小曲江を要害として築かれたものと思われる。そのため、城は別名小曲城とも呼ばれた。
 小田氏は築城と前後して、隣地の佐賀郡東西村に応永寺を創建したと伝えられる。そして、その威勢は肥前の神埼・佐賀および筑後の三瀦の三郡におよび、支配する領田およそ六千余町と称される肥前有数の国人領主に成長した。
 しかし、小田直光がどのような理由で肥前に下向したのかは、いまのところ不明である。一説に「直光は足利直冬朝臣九州下向之時」に同行したとするものもあるが、時代的に古すぎる。また、直家の兄にあたる持家は系図によれば応永九年(1402)の生まれであり、当然直家は応永十年以降の生まれということになる。とすれば、直家の子直光が応永三十四年に肥前に入部したとする説は無理が出てくる。すなわち、直光は十歳に満たない年齢で肥前に下ったことになり、ありえないことではないが、いささか不自然というしかない。
 直光のあと、肥前小田宇治は貞光、親光、資光と継承した。そして、貞光は少弐貞頼の、親光は大友政親の、資光は少弐政資の加冠を受け一字を拝領したものという。しかし、少弐貞頼は小田氏が肥前に入る以前の応永十一年に死去しており、系図の記述を鵜のみにすることはできない。このように肥前小田氏のはじめについては、少なからぬ疑問があるといえよう。

少弐氏の麾下に属す

 九州地方は、鎌倉時代に武藤氏が大宰少弐に任じられ、元冦の乱に際して九州御家人の総指揮をとった。その後、武藤氏は職名の少弐を名字とするようになり、南北朝期には北朝方として活躍し、筑前・豊前・肥前三国の守護に任じられた。やがて室町期になると、周防の大内氏が九州探題渋川氏を支援して、北九州に勢力を伸張してきた。これに対して、少弐氏は豊後の大友氏と結んで、大内氏=九州探題渋川氏と筑前・豊前・肥前を舞台に抗争を繰り返した。
 抗争は大内氏の優勢に進んだが、永享三年(1431)、少弐満貞は大友氏と結んで、筑前深江において大内盛見を討ち取る勝利を得た。永享五年、盛見のあとを継いだ大内持世が九州に兵を進めると、少弐満貞は子の資嗣とともにこれを迎え撃った。しかし、満貞は秋月城で戦死し、資嗣は肥前与賀庄において戦死した。
 翌年、満貞の弟横岳頼房は少弐氏復興を策し、高木・千葉・龍造寺氏らに呼び掛けて、九州探題渋川満直を攻撃した。このとき、小田貞光が横岳頼房に味方して出陣した。これが、肥前における小田氏の軍事行動の始めであったといい、以後、小田氏は少弐氏との関係を強めながら肥前における地盤を築き上げていったのである。
 嘉吉元年(1441)少弐嘉頼が対馬で没すると、弟の教頼は宗貞盛の支援を得て太宰府の回復を図った。しかし、大内持世の軍と戦って敗れ、ふたたび対馬に逃れた。このときも小田氏は少弐氏に味方して、大内軍と戦っている。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起こると大内政弘は上洛して西軍として活躍、教頼は東軍に味方して失地回復を狙った。そして、宗盛直の支援を得て対馬から筑前に入ったが、大内軍に敗れ、翌年志摩郡において戦死した。その後、教頼の子少弐政資は、大友氏と結んで太宰府の奪回に成功し、筑前・豊前を支配下においた。
 九州の情勢に驚いた大内政弘は、幕府に帰順して国元に帰ると、動揺した領国の引き締めに着手した。政弘は少弐政資と宗氏の離間を索し、文明九年(1477)、九州に兵を進めた。大内氏の軍事力は強大で、少弐氏は次第に圧迫されていった。明応六年(1497)、大内義興は本格的に少弐氏攻めを企図し、重臣の杉氏、陶氏を九州に攻め入らせた。少弐氏は太宰府を失い、政資・高経父子は多久梶峰城へ走ったが、追い詰められた少弐父子は戦死した。

少弐氏の衰退

 少弐政資の二男資元は、父自刃のとき九歳の幼年であったため、肥前の少弐氏譜代の諸氏に守られて成長した。永正元年(1504)、資元は豊後の大友氏や少弐一族の横岳資貞らの支援によって九州探題渋川氏を攻めて筑後に走らせ、勢福寺城に入った。これに、小城高田城の千葉胤繁らが協力、さらに将軍家の意向もあって大内氏と少弐氏との間で和議が成立し、少弐資元は肥前守護に返り咲いた。
 しかし、資元が太宰府に進出したことで、享禄三年(1530)、大内義隆は一万余騎の軍勢を率いて肥前に進出、筑紫・横岳・朝日・千葉などの降将を先陣に立て勢福寺城を攻めた。少弐資元・冬尚父子は龍造寺一族をはじめ、馬場・江上・宗ら佐賀・神埼の諸将士の奮戦によって大内勢を筑前方面へ走らせる勝利をえた。このときの戦いは田手畷の戦いと呼ばれ、小曲城主の小田政光も少弐方として出陣、奮戦している。
 天文二年(1533)、大内義隆は陶尾張守を大将として九州に兵を進め、少弐氏は勢福寺城にあって、龍造寺・馬場・横岳・小田・犬塚氏らを配下として陣を張った。戦いは膠着状態となったが、翌年七月、折りからの大風雨をついて龍造寺家兼が陶の本陣を奇襲、大内軍は兵を引いていった。田手畷の戦い、陶の本陣奇襲などで少弐方の勝利に貢献した龍造寺家兼は、次第に少弐氏家中で重きをなすようになった。
 重なる敗戦に業を煮やした義隆は、十月、みずから兵を率いて九州に入り少弐氏を攻撃した。戦況の不利を悟った千葉興常、龍造寺家兼らは資元に和議をすすめた。このとき小田資光は徹底抗戦を主張したが、資元としては同意するしかなく、ついに勢福寺城を明け渡した。ところが、義隆は少弐氏領である三根・神埼・佐賀を没収し、天文五年、梶峰城に籠城する資元を攻撃して自刃に追い込んだのであった。
 小田資光は資元の子冬尚を蓮池に匿い、資元が自殺したのは龍造寺家兼が大内氏に通じた結果だとして、冬尚の同意を得ると龍造寺家兼の水ケ江城を攻撃した。木崎原合戦であり、戦いは冬尚の調停によって和議が成立した。
 少弐氏再興を目指す冬尚にとって龍造寺氏の力は不可欠なものであり、天文九年、龍造寺家兼に再興の支援を頼んだ。龍造寺一門の中には反対するものもあったが、家兼にすれば少弐氏は重代の主家であり、ついに冬尚の請いを入れて少弐氏再興への尽力を約した。そして、子の家門を執権とし、江上元種・馬場頼周を後見として冬尚のまわりを固めた。

龍造寺隆信の登場

 養父郡にある千栗八幡宮にある天文十二年(1543)二月の在銘のある銅鐘には、少弐冬尚を筆頭に、馬場氏、筑紫氏、江上氏、龍造寺氏らと並んで小田政光の名が刻まれており、当時の小田氏が龍造寺氏と肩を並べる勢力を有していたことが知られる。
 このころ、龍造寺家兼を惣領とする龍造寺一族の勢力は隆々たるものがあり、冬尚側近の馬場頼周は龍造寺氏排斥を企むようになり、冬尚に家兼が大内氏に内通して自立しようとしているとの讒言を行った。それを信じた冬尚は、龍造寺一族の討伐を命じ、馬場頼周は神代氏らと謀って龍造寺氏一族六人を討ち果たした。この龍造寺一族の謀殺は、少弐氏自滅の要因となった。
 龍造寺氏勢力を謀略で排斥した少弐氏は、没収した龍造寺一族の所領を馬場・神代・小田氏らに分与し、水ケ江城は小田政光に守備させた。しかし、鍋島氏の奔走によって龍造寺家兼は佐嘉に復帰し、馬場頼周を討つと失地回復につとめた。天文十五年、家兼は死去したが、家を継ぐべき子や孫は不慮の死を遂げていたため、曾孫で僧籍にあった胤信が還俗して家督を継いだ。胤信は少弐氏との対立姿勢を示し、大内義隆に通じてその偏諱を受けて隆胤、次いで隆信と名乗った。この隆信が龍造寺氏の再興を果たし、やがて戦国大名化してゆくことになる。
 天文二十年(1551)大内義隆が陶晴賢の謀叛によって横死すると、大内氏の勢力は北九州から後退した。一方、大内氏を後楯として肥前国内で勢力を拡大しつつあった龍造寺隆信は、隆信に反感を抱く少弐与党によって佐嘉を攻撃された。小田政光も少弐氏に属してこれに加わった。さすがの隆信も少弐与党の大軍にかなうべくもなく、降伏すると柳川の蒲池鑑盛を頼って肥前から落ちて入った。
 龍造寺隆信を佐賀から筑後に追った冬尚は、大内氏寄りの鑑兼を龍造寺氏の当主とし、土橋栄益を家宰にして神代勝利・高木鑑房・小田政光らに佐賀城周辺を守らせた。天文二十二年、蒲池鑑盛・小河武純らに擁せられて佐嘉に帰った隆信は栄益を討った。そして、江上武種を降服させると、小曲城の小田政光を攻撃した。政光は本告氏、犬塚氏らに協力を請い、老臣の江口入道、深町入道らをもって龍造寺軍を迎え撃った。しかし、優勢の龍造寺軍の前に小田勢は三百余人を戦死させる敗北を喫し、小曲城に立て籠ったが、隆信に和を乞い許されて隆信に屈服した。

政光の戦死と少弐氏の滅亡

 少弐冬尚は大友氏に好を通じ、みずからは勢福寺城に拠り、弟の政興を綾部城に配し、三根・養父・神埼三郡の馬場・横岳・筑紫・本告・朝日・出雲氏らの一族・譜代の家臣に擁せられ、有馬仙岩・千葉胤頼らと体制の挽回を計った。しかし、これは龍造寺隆信との対立抗争を決定的にするものであった。
 少弐方の神代勝利や江上武種らの反抗に悩まされていた隆信は、その根元である少弐氏を討つため、永禄元年(1578)、降将の小田政光・本告頼景・犬塚一族らを先陣に立ててこれを攻めた。戦いは長者林で展開されたが、本告勢が神代勢に敗れて龍造寺方の劣勢となった。小田政光は隆信に援軍を要請したが、隆信は姉川城にいて兵を出さず、かれらの戦いを静観する態度に出た。
 つまり、降将たちはいままで少弐氏与党で、隆信にすれば油断のならない者たちであり、いつ少弐方に寝返るかわからない。そこで、かれらに潰し合いをさせ、少弐勢の戦力減殺をはかったのである。だから、小田・本告・犬塚の諸氏が苦戦に陥っても、隆信は援軍を出そうともせず、かれらを捨て殺しにした。
 小田政光は、隆信の仕打ちを怒って自ら先頭に立ち、きのうまで味方であった神代・江上らの少弐勢と戦い、壮烈な討死をとげた。隆信は政光戦死を見届けてからようやく腰をあげ、一族龍造寺家就、納冨信景らの直属軍四千をもって冬尚が籠る勢福寺城を包囲した。
 隆信はこの攻囲の最中、隆信のために戦って死んだ小田政光の居城蓮池小曲城を不意に襲撃させてこれを落とした。このとき、重臣の深町入道は龍造寺軍の攻撃をよく防衛し、政光の子鎮光・賢光・増光らの兄弟を筑後三瀦郡へ落したのちに戦死をとげた。政光の妻は隆信の妻の妹であったことから、兄や夫たちが敵味方に分かれて殺し合わねばならない悲運をかみしめたことだろう。
 さて、勢福寺城に籠る少弐氏は、龍造寺軍の攻撃をよく防いで城は容易に落ちなかった。年末にいたり、川上実相院の座主増純法印の仲介で和議がととのい、龍造寺軍は囲みをといて佐賀へ帰陣した。しかし、戦国時代の武将たちの約束ほどあてにならぬものはない。隆信は屠蘇気分のまだぬけきらぬ永禄二年正月上旬突如として軍を発し、ふたたび勢福寺城を包囲し、四方より攻撃を加えた。少弐・江上の方は虚を突かれて防戦も思うにまかせず、ついに江上武種は降って筑後へ落ちていった。
 江上氏に去られては、さしもの少弐冬尚も万事窮すであった。ついに四面楚歌のなかで力尽きた冬尚はさびしく自刃して、三十三歳の生涯を閉じた。ここに、三百七十年間にわたる鎮西の名族少弐氏の歴史も幕を閉じたのであった。

小田氏の迷走

 三瀦郡へ逃れた小田政光の子鎮光・増光らは、永禄二年(1559)、隆信に和を乞い赦されて隆信に取り立てられた。鎮光は小曲城に復帰し、五千町の所領を安堵された。鎮光は隆信の養女を妻に迎え、妹を隆信の弟に嫁がせて、龍造寺氏との関係を強化した。
 ところで、大内義隆が死去したのち、大友宗麟の勢力が豊前・筑前・肥前に伸張してきた。一方、陶晴賢、大内義長を滅ぼした毛利氏が、大内氏の旧領である豊前・筑前に兵を進めてきた。龍造寺隆信は毛利氏と通じて、大友氏に対抗し、みずからの勢力拡大につとめていた。これに対して大友宗麟は、少弐氏を再興するという名目で肥前に進攻し、東肥前の諸将は大友氏に通じて龍造寺隆信を攻撃しようとした。
 小田鎮光も大友氏に通じていたようだが、隆信に二心あるものと疑われた鎮光は隆信の三男を養子に迎えて家督を譲り、身の潔白を表明している。しかし、永禄十一年、鎮光は多久梶峯城に置かれ、小曲城には長信が城番として入った。隆信は要害の小曲城を小田氏から取り上げ、さらに小田氏の在地性を否定しようとした。この隆信の政治措置が、鎮光をして龍造寺氏から離叛させることになった。
 永禄十一年(1568)、毛利氏と和議を結んだ大友宗麟は、翌年、大軍を率いて高良山に出陣し、多久梶峯城の小田鎮光にも協力を要請し、鎮光もこれを諾したという。隆信は毛利氏を恃んで大友氏に抵抗したが、元亀元年(1570)、毛利氏は大友氏の奇略によって兵を北九州から引き上げた。宗麟は隆信を討つため、一族の大友親貞を大将とする大軍を肥前に派遣した。これに、肥前の諸将が味方し、隆信の拠る佐嘉城の落城は時間の問題となった。
 小田鎮光は多久梶峯城にあって大友方に味方し、弟の賢光も大友勢に参加した。一方、末弟の増光は龍造寺長信軍に加わって、小曲城にあって大友勢と対峙した。圧倒的に不利な状態に置かれた龍造寺隆信は、鍋島信生の献策によって大友軍の本陣に夜襲を敢行し、大将親貞を討ち取る勝利を得た。大友軍は総崩れとなり、有馬氏、大村氏、江上氏ら大友氏に味方した諸将もそれぞれ国元に逃げ帰った。小田鎮光・賢光兄弟は筑後に出奔し、多久梶峯城に残された鎮光の妻と隆信の三男は無事保護された。
 大友軍を撃破した隆信の威勢は急速に高まり、元亀二年には江上武種が屈服して隆信の二男を養子とし、ついで神代長良も鍋島信生の甥家良を養子に迎えて隆信の傘下に入った。天正元年(1573)には、上松浦の諸氏、塚崎の後藤氏らを屈服させ、東肥前の諸氏も隆信に和を求め、隆信の軍門に降った。

小田氏の滅亡とその後

 今山合戦後、筑後に出奔した小田鎮光・賢光らは大友氏に通じていたようだが、元亀二年、龍造寺隆信の謀略によって佐嘉に呼び寄せられ、それぞれ謀殺された。
 兄たちと袂を分かって龍造寺氏に従った小田増光は、以後も龍造寺氏に属して活躍し、天正六年、隆信の西筑前進攻に従軍している。内野・荒平・飯盛・鳥飼の諸城を攻略した隆信は、増光を荒平城の城番に命じている。その後、筑後の吉井に移住した増光は、吉井を名乗り天正十三年(1585)に病死したという。
 こうして肥前小田氏の嫡系は途絶えたが、龍造寺長信に嫁した増光の妹は多久安順と武雄後藤家忠に嫁した娘をもうけた。安順には男子がなかったため、家忠の二男茂富が後嗣となったが、事情があって離別された。ために茂富の子茂辰が安順のあとを継いだ。茂富の死後、その子の長昌が小田鎮光の名跡を継ぎ、三百石を給せられ、子孫は幕末に至った。
 一方、増光の三男光則は本村を称し、四男の宗良は母方の執行姓を称し、それぞれ武雄鍋島氏に仕えたことが知られる。・2005年04月11日→07月10日

参考資料:佐賀市史/戦国期の東肥前における在地領主の考察(森 周蔵氏)ほか】

■参考略系図
 


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